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  • 「来て,私の弟子になりなさい」
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「来て,私の弟子になりなさい」
追 第7章 66–75ページ

第7章

「イエスは……忍にん耐たいしました」

1-3. (ア)ゲッセマネの庭てい園えんでのイエスの苦く悩のうはどれほどのものでしたか。どうしてですか。(イ)イエスは忍にん耐たいのどんな手て本ほんを残のこしましたか。これからどんなことを考かんがえますか。

イエスはかつてないほど大おおきなストレスを感かんじています。地ち上じょうでの命いのちも残のこりわずかとなりました。使し徒とたちと一いっ緒しょに,なじみ深ぶかいゲッセマネの庭てい園えんに来きています。よく使し徒とたちとそこで集あつまっていましたが,この晩ばんは1人ひとりになる時じ間かんを取とることにします。使し徒とたちを残のこして庭てい園えんの奥おくの方ほうに行いき,ひざまずいて祈いのり始はじめます。真しん剣けんに祈いのりながら深ふかく苦く悩のうし,「汗あせが血ちのようになって地じ面めんに滴したたり落おち」ます。(ルカ 22:39-44)

2 イエスがこれほど苦く悩のうしているのはどうしてでしょうか。間まもなく極きょく度どの身しん体たい的てき苦く痛つうを味あじわうことになると知しっていますが,それが理り由ゆうではありません。はるかに重じゅう要ようなことがイエスの心こころに重おもくのしかかっています。イエスは天てんの父ちちの名めい誉よが傷きずつくのではないかと気きをもんでいて,自じ分ぶんが忠ちゅう実じつであり続つづけられるかどうかで人じん類るいの将しょう来らいが左さ右ゆうされることも分わかっています。忍にん耐たいし通とおすことがいかに重じゅう要ようかを痛つう感かんしているのです。もし失しっ敗ぱいすれば,エホバの名なを汚けがすことになってしまいます。しかし,イエスは失しっ敗ぱいすることなく,史し上じょう最さい高こうの忍にん耐たいの手て本ほんを残のこします。その日ひの後ご刻こく,息いきを引ひき取とる間ま際ぎわには,「成なし遂とげられた!」と力ちから強づよく叫さけぶことができました。(ヨハネ 19:30)

3 聖せい書しょは,「忍にん耐たいし[た]イエスのことをよく考かんがえてください」と勧すすめています。(ヘブライ 12:3)では,イエスはどんな試し練れんに耐たえたのでしょうか。忍にん耐たいできたのはどうしてでしょうか。どうすればイエスの手て本ほんに倣ならえるでしょうか。こうした重じゅう要ようなことについて考かんがえる前まえに,まず忍にん耐たいとはどういうものかを取とり上あげます。

忍にん耐たいとは何なにか

4-5. (ア)「忍にん耐たい」とはどういうものですか。(イ)避さけようのない苦く難なんの渦か中ちゅうにあるというだけでは忍にん耐たいしていることにはなりません。そのことをどんな例たとえで説せつ明めいできますか。

4 誰だれでも,「さまざまな試し練れんに悩なやまされ」ることがあります。(ペテロ第だい一いち 1:6)では,試し練れんに遭あっている人ひとは皆みな忍にん耐たいしていることになるのでしょうか。必かならずしもそうではありません。「忍にん耐たい」と訳やくされているギリシャ語ごの名めい詞しには,「困こん難なんに遭あっても持もちこたえ,くじけないこと」という意い味みがあります。聖せい書しょで言いう忍にん耐たいについて,ある学がく者しゃはこう説せつ明めいしています。「これは希き望ぼうに燃もえる不ふ屈くつの精せい神しんであり,単たんに諦あきらめて事じ態たいを受うけ入いれることではない。……忍にん耐たいする人ひとは逆ぎゃく風ふうに向むかって自じ分ぶんの足あしで立たち続つづける。苦くるしみのかなたにある目もく標ひょうを見み据すえて,最さい悪あくの試し練れんを栄えい光こうに変かえる」。

5 ですから,避さけようのない苦く難なんの渦か中ちゅうにあるというだけでは忍にん耐たいしていることにはなりません。聖せい書しょで言いう忍にん耐たいとは,試し練れんに遭あっても希き望ぼうを失うしなうことなく信しん仰こうを貫つらぬくことです。例たとえで考かんがえてみましょう。2人ふたりの人ひとが全まったく違ちがう理り由ゆうで同おなじ刑けい務む所しょに入いれられています。1人ひとりは犯はん罪ざい者しゃで,沈しずんだ表ひょう情じょうで渋しぶ々しぶ服ふく役えきしています。もう1人ひとりは信しん仰こうのゆえに収しゅう容ようされた本ほん物もののクリスチャンで,信しん念ねんを曲まげず,前まえ向むきな見み方かたをしています。自じ分ぶんが置おかれている状じょう況きょうを,信しん仰こうを実じっ証しょうする機き会かいだと考かんがえているからです。犯はん罪ざい者しゃの方ほうは忍にん耐たいしているとはとても言いえませんが,忠ちゅう実じつなクリスチャンの方ほうは忍にん耐たいの素す晴ばらしい手て本ほんです。(ヤコブ 1:2-4)

6. どうすれば忍にん耐たい力りょくが身みに付つきますか。

6 救すくわれるためには,忍にん耐たいが欠かかせません。(マタイ 24:13)しかし,私わたしたちは生うまれつき忍にん耐たい力りょくがあるわけではないので,忍にん耐たいすることを学まなぶ必ひつ要ようがあります。どうすればいいのでしょうか。ローマ 5章しょう3節せつには,「苦く難なんによって忍にん耐たい力りょくが身みに付つく」とあります。ですから,本ほん当とうに忍にん耐たいできるようになりたいなら,信しん仰こうの試し練れんから逃にげてばかりいるのではなく,試し練れんに立たち向むかわなければなりません。毎まい日にちいろいろな試し練れんを乗のり越こえていくにつれ,忍にん耐たい力りょくが身みに付つきます。試し練れんを1つ越こえるたびに,次つぎの試し練れんに取とり組くむための力ちからが付つくのです。もちろん,自じ分ぶん1人ひとりで忍にん耐たい力りょくを鍛きたえないといけないわけではありません。「神かみが与あたえてくださる力ちからに頼たよ」りましょう。(ペテロ第だい一いち 4:11)エホバは,私わたしたちがイエスという最さい高こうの手て本ほんから力ちからを得えて,信しん仰こうを貫つらぬけるように助たすけてくれています。では,イエスの完かん璧ぺきな忍にん耐たいの手て本ほんを詳くわしく調しらべてみましょう。

イエスはどんなことを忍にん耐たいしたか

7-8. 地ち上じょうでの生しょう涯がいが終おわる頃ころ,イエスはどんなことに耐たえましたか。

7 地ち上じょうでの生しょう涯がいが終おわる頃ころ,イエスは数かず々かずのひどい仕し打うちに耐たえました。最さい後ごの晩ばんに極きょく度どのストレスを感かんじている中なか,がっかりするようなことや屈くつ辱じょく的てきなことを経けい験けんしました。弟で子しの1人ひとりに裏うら切ぎられ,親しん友ゆうたちに見み捨すてられ,違い法ほうな裁さい判ばんにかけられました。その裁さい判ばんの時ときには,ユダヤ教きょうの最さい高こう法ほう廷ていの成せい員いんからあざけられ,唾つばを掛かけられ,こぶしで殴なぐられました。それでもイエスは威い厳げんや気き品ひんを失うしなわず,その全すべてを忍にん耐たいしました。(マタイ 26:46-49,56,59-68)

8 亡なくなる間ま際ぎわには,ひどく体からだを痛いためつけられました。激はげしくむちで打うたれたので,「幾いく筋すじもの深ふかい裂れっ傷しょうと相そう当とうの失しっ血けつ」が生しょうじたと考かんがえられます。そして杭くいに掛かけられ,「最さい大だいの苦く痛つうを味あじわいながらじわじわと死しに至いたる」ことになりました。大おおきなくぎを手て足あしに打うち込こまれた時とき,イエスがどれほどの激げき痛つうを感かんじたか想そう像ぞうしてみてください。(ヨハネ 19:1,16-18)杭くいが垂すい直ちょくに起おこされ,くぎに体たい重じゅうがかかり,ずたずたの背せ中なかが杭くいで擦すれた時ときにも,焼やけ付つくような痛いたみを感かんじたことでしょう。イエスは,この章しょうの冒ぼう頭とうで考かんがえたようなプレッシャーを感かんじながら,こうした極きょく度どの苦く痛つうに耐たえたのです。

9. 「苦くるしみの杭くい」を持もち上あげてイエスの後あとに従したがうとはどういうことですか。

9 キリストの弟で子しである私わたしたちは,どんなことを忍にん耐たいする必ひつ要ようがあるでしょうか。イエスはこう言いいました。「誰だれでも私わたしに付ついてきたいと思おもうなら,……苦くるしみの杭くいを持もち上あげ,絶たえず私わたしの後あとに従したがいなさい」。(マタイ 16:24)「苦くるしみの杭くい」という表ひょう現げんは,苦くるしみや屈くつ辱じょく,死しを表あらわしています。キリストの後あとに従したがう生いき方かたは楽らくではありません。クリスチャンとして聖せい書しょの基き準じゅんに従したがう私わたしたちは,世よの中なかの人ひとたちとは違ちがっているので,その人ひとたちから憎にくまれます。(ヨハネ 15:18-20。ペテロ第だい一いち 4:4)それでも,ためらうことなく苦くるしみの杭くいを持もち上あげ,手て本ほんであるキリストに従したがいます。たとえ苦くるしんで死しぬことになるとしても従したがい続つづけるのです。(テモテ第だい二に 3:12)

10-12. (ア)イエスが周まわりの人ひとたちの不ふ完かん全ぜんさを見みて悲かなしい気き持もちになったのはどうしてですか。(イ)イエスが忍にん耐たい力りょくを試ためされたどんな状じょう況きょうがありましたか。

10 イエスは地ち上じょうで伝でん道どうした間あいだ,周まわりの人ひとたちの不ふ完かん全ぜんさにも悩なやまされました。イエスが地ち上じょうに来くる前まえのことを少すこし思おもい起おこしてみましょう。イエスは「優すぐれた働はたらき手て」として,エホバが地ち球きゅうとあらゆる生せい物ぶつを造つくるのを手て伝つだいました。(格かく言げん 8:22-31)ですから,エホバがどんなことを考かんがえて人にん間げんを造つくったかよく知しっていました。人にん間げんは神かみに似にた者ものとして,完かん全ぜんな体からだでいつまでも幸しあわせに暮くらすことになっていました。(創そう世せい記き 1:26-28)ところが,罪つみを犯おかして悲ひ惨さんな結けっ果かを身みに招まねいてしまいました。イエスは地ち上じょうに来きて,その現げん実じつを改あらためて痛つう感かんしました。自じ分ぶん自じ身しんが人にん間げんとなり,人にん間げんの感かん情じょうをじかに体たい験けんしたからです。アダムとエバが持もっていた本ほん来らいの完かん全ぜんさから人にん間げんが懸かけ離はなれてしまったのを目めの前まえで見みて,イエスはとても悲かなしい気き持もちになったに違ちがいありません。では,イエスは気き落おちし,罪つみ深ぶかい人にん間げんには見み込こみがないと考かんがえて諦あきらめてしまうでしょうか。それとも忍にん耐たいして人にん間げんを助たすけ続つづけるでしょうか。

11 イエスは,ユダヤ人じんが信しん仰こうを持もとうとしないことを嘆なげきました。ある時ときには人ひと前まえで涙なみだを流ながしたほどです。では,多おおくの人ひとが無む関かん心しんだからといって熱ねつ意いを失うしなったり,伝でん道どうをやめたりしたでしょうか。そんなことはありません。聖せい書しょによれば,「神しん殿でんで毎まい日にち教おしえ続つづけ」ました。(ルカ 19:41-44,47)またイエスは,パリサイ派はの人ひとたちの心こころが無む感かん覚かくなのを「深ふかく悲かなしん」だこともあります。その人ひとたちはイエスを訴うったえようとして,片かた手てがまひした男だん性せいをイエスが安あん息そく日びに癒いやすかどうかをじっと見みていました。では,イエスはその独どく善ぜん的てきな反はん対たい者しゃたちにひるんだでしょうか。全まったくそのようなことはなく,会かい堂どうの中ちゅう央おうで堂どう々どうと男だん性せいを癒いやしました。(マルコ 3:1-5)

12 親したしい弟で子したちの弱よわさも,イエスの悩なやみの種たねだったに違ちがいありません。第だい3章しょうで考かんがえた通とおり,弟で子したちには人ひとの上うえに立たちたいという根ね深ぶかい願がん望ぼうがありました。(マタイ 20:20-24。ルカ 9:46)イエスは,謙けん遜そんになる必ひつ要ようがあることを繰くり返かえし教おしえました。(マタイ 18:1-6; 20:25-28)それでも弟で子したちはなかなか考かんがえ方かたを変かえず,イエスと過すごす最さい後ごの晩ばんにも,誰だれが一いち番ばん偉えらいのかについて「激はげしい議ぎ論ろん」をしていました。(ルカ 22:24)では,イエスは弟で子したちには望のぞみがないと考かんがえて諦あきらめたでしょうか。そうはしませんでした。いつも弟で子したちの良よいところや可か能のう性せいに目めを向むけ,辛しん抱ぼう強づよく接せっし続つづけました。弟で子したちがエホバを愛あいし,エホバの望のぞむことを行おこないたいと思おもっていることを,イエスは分わかっていたのです。(ルカ 22:25-27)

姉妹が伝道で訪ねた家をすがすがしい表情で後にしている。いら立った女性が玄関先でにらんでいる。

厳きびしい反はん応のうをされてもやる気きをなくしてしまうことなく,熱ねっ心しんに伝でん道どうし続つづけますか

13. 私わたしたちもイエスと同おなじように,どんなときに忍にん耐たい力りょくを試ためされることがありますか。

13 私わたしたちも,イエスと同おなじように忍にん耐たい力りょくを試ためされることがあります。例たとえば,王おう国こくの良よい知しらせを伝つたえても,聞きいてもらえなかったり反はん対たいされたりするかもしれません。そんなとき,やる気きをなくしてしまうでしょうか。それとも熱ねっ心しんに伝でん道どうし続つづけるでしょうか。(テトス 2:14)仲なか間まのクリスチャンの不ふ完かん全ぜんさに悩なやまされることもあるでしょう。心こころないことを言いわれたり無む神しん経けいなことをされたりして,傷きずつくことがあるかもしれません。(格かく言げん 12:18)では,仲なか間まの短たん所しょに注ちゅう目もくし,愛あい想そを尽つかすでしょうか。それとも欠けっ点てんを大おお目めに見みて,相あい手ての良よいところを見みようとするでしょうか。(コロサイ 3:13)

イエスが忍にん耐たいできたのはどうしてか

14. イエスが忍にん耐たいするのにどんな2つのことが助たすけになりましたか。

14 侮ぶ辱じょくされ,がっかりさせられ,苦くるしい目めに遭あっても,イエスが忍にん耐たいして忠ちゅう誠せいを貫つらぬくことができたのはどうしてでしょうか。主おもに2つのことがイエスの助たすけになりました。1つは,上うえを見みて,「忍にん耐たい……を与あたえる神かみ」に頼たよったことです。(ローマ 15:5)もう1つは,前まえを見みて,忍にん耐たいし続つづければどんな良よい結けっ果かになるかを考かんがえたことです。この2つのことについてもう少すこし詳くわしく考かんがえてみましょう。

15-16. (ア)イエスが自じ分ぶんの力ちからに頼たよって忍にん耐たいしたのではないことが,どんなことから分わかりますか。(イ)イエスはどんなことを確かく信しんしていましたか。どうしてですか。

15 イエスは神かみの完かん全ぜんな子こでしたが,自じ分ぶんの力ちからに頼たよって忍にん耐たいしたのではありません。天てんの父ちちに頼たより,助たすけを祈いのり求もとめました。使し徒とパウロはこう書かいています。「キリストは,……自じ分ぶんを死しから救すくえる方かたに祈き願がんを捧ささげ,願ねがいを伝つたえました。大おおきな声こえで叫さけび,涙なみだを流ながしながらそのようにし」ました。(ヘブライ 5:7)パウロによると,イエスは神かみに願ねがいを伝つたえただけでなく,祈き願がんを捧ささげました。「祈き願がん」とは,普ふ通つう以い上じょうに心こころのこもった真しん剣けんな懇こん願がんのことです。元もとのギリシャ語ごは複ふく数すう形けいになっていて,イエスが何なん度どもエホバに助たすけを求もとめたことを示しめしています。実じっ際さい,ゲッセマネの庭てい園えんでイエスは繰くり返かえし熱ねつ烈れつに祈いのりました。(マタイ 26:36-44)

16 イエスはエホバが祈き願がんに答こたえてくださることを確かく信しんしていました。天てんの父ちちが「祈いのりを聞きく方かた」だということを知しっていたからです。(詩し編へん 65:2)イエスは人にん間げんになる前まえ,エホバが自じ分ぶんに尽つくす人ひとたちの祈いのりを聞きいてどのように行こう動どうするかを見みていました。例たとえば,預よ言げん者しゃダニエルが心こころからの祈いのりを捧ささげた時とき,エホバはダニエルが祈いのり終おわる前まえに天てん使しを遣つかわしました。(ダニエル 9:20,21)ですから,自じ分ぶんの独ひとり子ごが「大おおきな声こえで叫さけび,涙なみだを流ながしながら」祈いのるのを聞きいても何なにもしないなどということは考かんがえられません。エホバは確たしかにイエスの懇こん願がんに応こたえて天てん使しを遣つかわし,イエスが厳きびしい試し練れんに耐たえられるよう力ちからづけました。(ルカ 22:43)

17. 忍にん耐たいするために天てんに目めを向むけるべきなのはどうしてですか。どのように祈いのれますか。

17 私わたしたちも,忍にん耐たいするために天てんに目めを向むけ,「力ちからを与あたえてくださる」神かみに頼たよる必ひつ要ようがあります。(フィリピ 4:13)完かん全ぜんなイエスが助たすけの必ひつ要ようを感かんじてエホバに祈いのったのであれば,私わたしたちはなおのことそうすべきです。時ときにはイエスのように何なん度ども祈いのる必ひつ要ようがあるかもしれません。(マタイ 7:7)祈いのれば天てん使しが来きてくれると期き待たいすることはできませんが,神かみに忠ちゅう実じつに仕つかえるクリスチャンが「昼ひるも夜よるも祈き願がんを捧ささげ,祈いのり続つづけ」るとき,愛あい情じょう深ぶかい神かみは必かならずその祈いのりに答こたえてくださいます。(テモテ第だい一いち 5:5)知ち恵えや勇ゆう気きや耐たえる力ちからを求もとめて熱ねつ烈れつに祈いのるなら,病びょう気き,家か族ぞくとの死し別べつ,迫はく害がいなどのどんな試し練れんも忍にん耐たいできます。(コリント第だい二に 4:7-11。ヤコブ 1:5)

姉妹が熱烈に祈っている。

忍にん耐たいするための助たすけを求もとめる熱ねつ烈れつな祈いのりに,エホバは必かならず答こたえてくださる

18. イエスは苦く難なんを乗のり越こえた先さきに待まっているどんな良よい結けっ果かに目めを向むけましたか。

18 イエスにとって忍にん耐たいする助たすけになった2つ目めのことは,前まえを見みて,苦く難なんを乗のり越こえた先さきに待まっている良よい結けっ果かに目めを向むけたことです。「イエスは,前ぜん途とにある喜よろこびのために……苦くるしみの杭くいに耐たえ」たと聖せい書しょに書かかれています。(ヘブライ 12:2)イエスの例れいから,希き望ぼう,喜よろこび,忍にん耐たいにどんな関かん係けいがあるかが分わかります。希き望ぼうがあれば喜よろこべて,喜よろこびがあれば忍にん耐たいできるということです。(ローマ 15:13。コロサイ 1:11)イエスは素す晴ばらしい希き望ぼうを持もっていました。神かみに忠ちゅう実じつであり続つづければ,天てんの父ちちの名なを神しん聖せいなものとすることに貢こう献けんでき,人じん類るいを罪つみと死しから救すくい出だせるという希き望ぼうです。さらに,王おうまた大だい祭さい司しとして,神かみに従したがう人ひとたちを幸しあわせにすることができるという希き望ぼうもありました。(マタイ 20:28。ヘブライ 7:23-26)イエスはそうした希き望ぼうのことをいつも考かんがえていたので,喜よろこびにあふれていて,その喜よろこびがあったので忍にん耐たいできました。

19. 試し練れんに遭あうとき,どんなことを考かんがえると希き望ぼうによって喜よろこべて忍にん耐たいできますか。

19 私わたしたちもイエスと同おなじように,希き望ぼうに目めを向むけるなら喜よろこびに満みたされ,忍にん耐たいできます。使し徒とパウロはこう書かきました。「希き望ぼうによって喜よろこびましょう。苦く難なんに遭あっても忍にん耐たいしましょう」。(ローマ 12:12)あなたは今いま,何なんらかの試し練れんに遭あっていますか。もしそうなら,前まえを見みてください。忍にん耐たいすればエホバの名ながたたえられるということを忘わすれないでください。神かみの王おう国こくによって実じつ現げんする希き望ぼうのことをいつも考かんがえましょう。新あたらしい世せ界かいでパラダイスの素す晴ばらしさを存ぞん分ぶんに味あじわっている自じ分ぶんをイメージしてください。エホバが約やく束そくした通とおり,エホバの名なが完かん全ぜんに神しん聖せいなものとされ,どこにも悪あくがなく,病びょう気きも死しもない世せ界かいになります。そういうことをイメージすると心こころが喜よろこびであふれ,どんな試し練れんに遭あっても忍にん耐たいする力ちからが湧わいてきます。神かみの王おう国こくでいつまでも幸しあわせに暮くらせることを考かんがえると,今いまの世よの中なかで経けい験けんするつらいことはどれも「つかの間まで軽かるいもの」に思おもえるようになります。(コリント第だい二に 4:17)

イエスの歩あゆみに「しっかり付ついて」いく

20-21. エホバは私わたしたちに何なにを期き待たいしていますか。私わたしたちはどんな決けつ意いを抱いだくべきですか。

20 イエスは,弟で子したちがいろいろ大たい変へんなことを忍にん耐たいしなければならないということを知しっていました。(ヨハネ 15:20)それで,自みずからが手て本ほんを示しめして弟で子したちを力ちからづけたいと思おもっていました。(ヨハネ 16:33)とはいえ,不ふ完かん全ぜんな私わたしたちは,完かん璧ぺきな忍にん耐たいの手て本ほんを残のこしたイエスと全まったく同おなじようにはできません。エホバは私わたしたちに何なにを期き待たいしているのでしょうか。ペテロはこう書かいています。「キリスト[は]皆みなさんのために苦くるしみ,その歩あゆみに皆みなさんがしっかり付ついてくるよう手て本ほんを示しめしました」。a (ペテロ第だい一いち 2:21)イエスはずっと忍にん耐たいして「歩あゆみ」,いわば私わたしたちのために足あし跡あとを残のこしてくれました。私わたしたちはその足あし跡あとを完かん璧ぺきにたどることはできませんが,イエスの歩あゆみに「しっかり」付ついていくことはできます。

21 では,ベストを尽つくしてイエスの手て本ほんに倣ならうことを決けつ意いしましょう。イエスの歩あゆみにしっかり付ついていくよう努ど力りょくするなら,きっと「終おわりまで」耐たえ忍しのべることでしょう。今いまの体たい制せいが終おわるのが先さきか,自じ分ぶんの今いまの人じん生せいが終おわるのが先さきかは分わかりませんが,はっきりと言いえることがあります。私わたしたちが終おわりまで忍にん耐たいするなら,エホバは永えい遠えんにわたって祝しゅく福ふくしてくださるのです。(マタイ 24:13)

a 「手て本ほん」と訳やくされているギリシャ語ごの言こと葉ばは,直ちょく訳やくすると「下したに書かいたもの」という意い味みになります。ギリシャ語ご聖せい書しょの筆ひっ者しゃの中なかでこの言こと葉ばを使つかっているのは使し徒とペテロだけです。この言こと葉ばは「子こ供どもの練れん習しゅう帳ちょうにある『お手て本ほん』,子こ供どもができる限かぎり正せい確かくにまねをするための完かん璧ぺきな文も字じ」を指さしているようです。

イエスの弟で子しとして考かんがえたいこと

  • キリストの弟で子しとして苦くるしい目めに遭あったとしても,どのように考かんがえることができますか。(マタイ 5:10-12)

  • イエスは弟で子したちにどんなことを予よ期きするよう言いいましたか。イエスの助じょ言げんに沿そってどんな心こころ構がまえができますか。(マタイ 10:16-22)

  • 反はん対たいや迫はく害がいに遭あうとき,どのようにイエスの手て本ほんに倣ならえますか。(ペテロ第だい一いち 2:18-25)

  • 私わたしたちが苦くるしみに耐たえ続つづけられるのは,どんなことの証しょう拠こですか。(ペテロ第だい一いち 4:12-14)

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