『死後の生存』についての聖書的研究 その1
1 英国の一軍人は,戦死者からの言葉を聞くと言いますが,そのことからどんな質問が生じますか?
『私たちは大丈夫です。』『私たちのことを悲しまないで下さい。私たちは運が良いのです。こんなに幸福なのは今が始めてです。』第二次世界大戦中に,このような言葉が,目に見えないところから伝えられてきました。それは悲しい言葉というよりは,むしろ悲しみを取り除き,慰めを与える言葉のようです。その奇妙な言葉は,誰から伝えられて来ましたか? 大戦中,国家のために戦つて戦死した人々からです! この言葉を1943年に聞いた英国の退役空軍司令官であるドウディング卿は,そのように断言しました。それは,戦争のために友人や親戚を亡くした人々や,世界大戦が終る前に死ぬかもしれぬ人々を元気づけ励ますためだつたのです。さらにドウディング卿は,こう言いました。『私はこの戦争中に死亡した人々から来る多くの言葉を聞いている。強調しておきたいことは,それらの言葉の調子が「私たちは大丈夫です。」とか「私たちのことを悲しまないで下さい。私たちは運が良いのです。こんなに幸福なのは今が始めてです。」ということである。』さらに言葉を続けて『地のかなたには,空軍の大きな組織があり,私は彼らからの言葉をひんぱんにうける。』彼はロンドンの一般聴衆の前に立つて,死んだ船員から送られたと信ぜられる手紙を読み,霊媒術についての信念を吐露しました。このことについての報告は,1943年9月1日,ロンドンからの電話でニューヨーク・タイムス紙に送られ,同紙は翌日『ドムディングは死者からの言葉を聞く』と題する記事を出しました。おそらく,多くの読者の心には,次のような質問が生じていることでしよう。戦死する者たちは運が良いのであろうか? 戦死しない者たちは運が悪いのであろうか?
2,3 牧師のした戦勝祈願の祈りと,軍人の言葉は,なぜ密接な関係を持つているのですか?
2 それから約9ヶ月以上経つて後,ニューヨーク市の聖パトリック大伽藍の神聖ミサで,ローマ,カトリックの神父トーマス・レスター・グラハムは,次の戦勝祈願の祈りを捧げました。『我らのためにかくのごとき英雄的犠牲を払う人々が,その十字架の道を歩む際,我々も彼らと共に歩んでいることを知つてもらいたく祈るものである。我々は彼らの母親,父親,妻,恋人のために祈る。そして,その重荷は軽くなり,愛する者たちと再会し,かつ戦死して二度と別れるこのとのないように祈る。最高の犠牲を為した者たちには,全能の神が彼らを殉教者と認めて御国に入れ,その魂に平和を与えるよう祈る。』彼は『死せる殉教者』のために教会は祈りを捧げるべきであると強くすすめました。―その翌日である1944年6月12日,日曜日,ニューヨーク・タイムス紙によつて報告さる。
3 英国空軍の前司令官の言葉にもせよ,カトリック牧師の祈りにもせよ,そのどちらも『死後の生存』という一般の信念に基いています。
4 多くの人は,人間の魂についてどんな信念を持つていますか?
4 一般にはこう信ぜられています。人間の魂は死なないものである。魂は死なずに,生き続けて不滅のものである。人間の体は死んで塵になつてしまうが,体の中の或る部分は体が死んでも生き残るにちがいない。それは目にも見えず,触ることもできないもので,『魂』または『霊』と呼ばれるものにちがいない。魂は体が死んでも生き続けるのであるから,それは朽ちて死ぬ人間の体とは違うものであり,体から分離されねばならない。魂は体が死ぬときに,体から分離してしまい,そして目に見えないものであるから,もはや人間の体に入る必要もなく見えざる霊界を自由に動き,地上よりも高い生命に上るのである。その魂は霊の世界のあらゆる神秘に入り,人間の体内に束縛されていた時よりも多くのことを知り,そして人間の目で見ることのできない非物質の世界で永遠に生きるであろう。
5,6 この信仰が昔からあり,かつひろく行われているということは,『魂』と『霊』という言葉に関して,何を強く証明していますか?
5 ローマ,カトリックを含めて,一般にキリスト教国内の宗教は,魂も霊もほぼ同じものであると主張しています。しかし,霊媒術者たちは,魂と霊を区別しています。『霊媒術の言葉で「霊」とは,全部の特質を持つ一個人のエーテル体を意味する。「魂」と「霊」のあいだには,明白な区別が為され,留意されねばならない。前者は漠然として,なんらの形をも持たぬ不明瞭なものであるが,後者は人間の肉体部分の全き対当物である。』― インドにおける霊媒術 ― 理論と実践,ヴィー・ディー・リシ著1946年第2版,第8頁。(英文)
6 『魂』と『霊』のあいだに区別が為されようと為されまいと,死後の生存を信ずる人々はこう主張しています。つまり,死んだ者は決して死んだのではなく,我々の目に見ることのできない霊の世界,いわゆる『来世』で生きているのであり,たとえ人間の体が死んだように見えても,死後の生存について惑わされてはならないというのです。これについての強い,揺がざる証明として,この信仰が,ひろく行き渡つていることと,そしい古い昔から信ぜられていたことが持ち出されています。リシはこの信仰を推奨して,前述の本の第1頁でこう述べています。
『来世の信仰と,死んだ魂と通信し得るという考えは,東洋と西洋の殆どすべての聖典に述べられている。最古の本リグーベダ(又は聖句のベダ)は,ピトリス(死去せる先祖たち,半ば神となりし父祖にして愛国者たち)について述べている。マハブハラタとラマヤナの中で,カウラバ家(パンダバスの100人のいとこたち)の妻たちが,どのように死去した夫たちと会見したか,またダシャラス王は死後どのようにシリ,ラマカンドラに表われたかを知ることができる。聖書の中には,死後の生存,および死者と生者とのあいだの通信について,多く述べられている。……死後の生存についてのこのすべての証拠を否認することは,はなはだしく悪い物質主義である。』
7 生きている人が,死んだ親戚や他の人々に対して為す世界中の一般の行いは,何を示していますか?
7 全地に亙つて死後の生存が信ぜられています。この信仰があるために,多くの人は,食物や,花や,線香や他の供え物を小さな祭壇の上に載せて,聖人や,死んだ親類に捧げているのです。そして,この信仰に基いて,日本の裕仁天皇は1945年の9月3日,正儀式の衣服に身をまとい,ふたりの弟に附き添われ,東京宮城の三神殿で崇拝をささげて,日本の敗戦を御自ら皇室の父祖たちに『告知』されたのでした。―ニューヨーク・タイムス紙。
8 『死後の生存』の教えを受けるときに生ずる質問に対して,霊媒術者や,他のものは,どのような解答を与えますか?
8 死後の生存についての教を認めると,当然の疑問が次から次に起きてきます。私たちは死者と連絡が取れますか? 私たちは死者の益のために何かをすることができますか? 死者は私たちに福利をもたらしますか,あるいは害をもたらしますか? 私たちは『来世』と連絡することができますか?『二つの世界』のあいだに連絡通信がなされますか? いろいろな宗教は自分たちの持つ他の信仰にうまく一致させて解答しています。しかし,『霊媒術』として知られている宗教は,確信を持つ肯定の答を与えています。ある霊媒術者たちは,ユダヤ人とクリスチャンたちの聖書は霊媒術に基いており,霊媒術を教えて支持していると主張していますが,霊媒術者たちは聖書とか他の有名な聖典に,その根拠を置いていません。彼らは強くこう主張します。霊の世界や死後の人間の生存についての証拠は,霊の世界からなされる耳で聞き,目で見,手で感ずる実際諸現象や,また生きている者が死者と連絡して,身元の分る死者から言葉をうける無数の例そのものである。リシは,霊媒術の原理の中のこのことをその本の7頁で記しています。『霊媒により,見えるものと見えないもののあいだ,つまり生者と死者のあいだの連絡通信の可能性』そして,さらにこうつけ加えています『前述の諸原理は,いかなる聖句,伝説,様式に基かず,観察した事実と現象に基いているということを留意するのは有益であろう。』
9 霊媒諸現象に対して,現代科学者は,どのような態度を取つていますか?
9 霊媒者たちは,十分の自信を持つています。それゆえ,冷徹で物質主義的な今日の科学者たちがその霊媒の諸現象を調査し試験するのをいとうどころか,むしろよろこんで調査させています。多くの商業的な霊媒術は,ごまかしと曝露されたものの,たくさんの厳密な調査をした結果,科学はその調査に失敗しています。見えざる界域に,生ける理智ある勢力があることを認めざるを得ません。レスター・ディビッドの書いた『彼らは戻らず』(英文)の記事の中で,アメリカ心霊協会会長ヒャワード・カーリントンの言葉が引用されています。『不幸にして,錯覚,ごまかし,そして迷信というものが,この論題に結びつけられているが,しかしそれにもかかわらず,現代科学の説明し得ない真実の心霊現象があるのである。』死人の出現つまり幽霊について,レスター・ディビッドは次の節でこう述べています。『アメリカ心霊研究協会は,この現象について配布した質問にたいして3万通の返答をうけた。それらの報告を研究した後,心霊協会はこう結論した。「死と死人の幽霊のあいだには,偶然だけと片づけることのできない結びつきが存在している。これは,証明された事実と我々は主張するのである。」』― 図解,メカニックス,1952年12月,166,167頁。(英文)
10,11 エクトプラズムについての出版された定義は,どのように『死後の生存』と結びつけられていますか?
10 現代科学は,その調査の結果,いわゆる『エクトプラズム』を発見しました。つまり,エクトプラズムとは霊媒の体のいろいろな部分から出てくる物質で,特定の形をつくります。それは霊媒の体から出される原形質であるため,ウエブスターの辞典は,エクトプラズムの定義を『外形化した原形質』と述べています。マーカス・バフは,自著『彼らは信仰を見出せり』(1946年英文)の112頁で,エクトプラズムをこう説明しています。
『霊媒を隠す理由……は,形体出現の集会中,赤い燈火が使用されるからである。霊の勢力を集中するのに必要なエクトプラズムの発生には,うす暗いぼんやりした光さえも妨害を加えるのである。この力が結集されているときのあいだ,霊媒は小室に隠蔽される。そして,その力が結集されて完成されるとき,形態は薄暗い光線にも耐えることができ,小室の外に坐つている人々はそれを見ることができる。それは30秒から三,四分の長さにわたる。失神している霊媒も,時には観察者に妨害を与える。それは気持の良い,審美的な光景ではない。―特に形態出現の期間中には美しいものではない。エクトプラズムは霊媒の口や体から,透き通つた霧のような煙の物体になつて出て来るのであり,それによつて霊化学者たちは形をつくるからである。』
11 リシは(前述の本の第3頁で)こう述べています。
『欧州とアメリカで数人の科学者たちは,この科学で重大な発見をなした。ある人々は,霊媒の体から出てくる白い雪のような物体,すなわちエクトプラズムの発見に気づいている。無智の者や詐欺を行う者たちがどれ程この物体の存在を否定しようとも,大科学者たちはその物体の重量を測り,分析しているのである。』(2頁)『死後の生存についての証明は,主として霊媒の持つ生来の心霊力によつて得られる。それで,霊媒現象は現代霊媒術の基礎要素に認められる。毎日その影響をうける電気や磁力を定義したり,説明することのできないように,この力を定義したり,説明することはできない。』
12 パイパー夫人のなした霊媒術についての研究は,何を示していますか?
12 レオノア・パイパー夫人は,説明不能のことがらをなして,一躍大霊媒のひとりになりました。アメリカ心理学者ウイリアム・ジェームス,リチャード・ホヂソン博士,オリーバ・ロッヂ卿,ウォルター・リーフ博士,そして多くの他の人々を含めて心霊現象の研究家たちは長年に亙つてパイパー夫人を研究しました。探偵をも用いて,尾行させ,夫人が普通の方法で情報を得ているかどうかを調べてみました。しかし,その調べは失敗でした。なにも見出すことはできなかつたのです。パイパー夫人は深い昏睡状態に入り,それから書き始めます。名前,日づけ,あらゆる種類の事実についての事がらを述べ伝えますが,それらは夫人ひとりではとうてい知り得ることのできないものです。夫人は,目や耳や智力を普通に用いても決して知ることのできないような事がらを知つていたとウイリアム・ジェームスは書いていました。
13-15 報告されてくる異常な事柄を調査するとき,科学者たちはどんな証拠に直面しますか?
13 秘密の力,あるいは神秘な力についての他の証拠があります。その神秘の力により普通の人は超人間の事柄,つまり普通の人には到底不可能な事がらをすることができます。科学はこのことを説明することができません。ブーヅー教(ハイタイ人はボダンと言う)では,異常な事柄が行われました。例えば,フランス人の自然学者デズコーティルツは神秘力の現出に恐れを感じつつ,ひとりの女について述べています。その女は,自分の神の言われる通り燃える石炭を手に握りましたが,火傷をしなかつたのです。アフリカのゴールド・コーストでは,霊媒はウオエイと呼ばれ,神々や死人の代弁者の働きをすると言われます。ゴールド・コーストでは,霊媒が神秘力の支配をうけると,『自分の持つ声とは違う声,いかなる人間の声よりも大きな声で話す』と言われています。神秘力の支配をうけると,霊媒は体と手足を揺り動かし,何時間にも亙つて立ち続け動き続けます。その霊媒は,普通の人間には絶対できない忍耐の行為をしばしば行います。―エム・ジェー・フィールド著『ガ民族の宗教と医学』(英文)
14 ニューヨーク・タイムス紙の『インド・ボンベイ,1950年2月19日(合衆国通信)』に広告されているようなことがらに関して,医科学はぜんぜん説明することはできません。
『大群衆は45歳になる道者スアミ・ラムダスジが今日(日曜日)「空気の通わない」セメントの密室から堀り出され,なお生きているのを目撃した。彼は釘の寝床に横たわり,87時間のあいだ(つまり3日と15時間)その密室に埋葬されていたのである。彼は土曜日(2月18日)の午後4時より,今日(日曜日)の午前7前30分まで,水の中に「まつたく没して」いたのである。彼は水曜日(2月15日)の午後5時に木の棺の中に入つた。そして,釘の寝床の上に横たわつていたが,棺の側面からも釘が彼の肉に刺し込まれた。その棺は縦,横,深さがそれぞれ,8,8,6フィートのセメントの密室に入れられて封をされた。ラムダスヂの弟子たちは,夜も昼も寝室の傍に坐り,ベデイクの祈りを誦じ続けかつ聖火を燃し続けた。土曜日(2月18日)彼の弟子たちはその密室に小さな穴を開けてホースを突き入れ,それから空気を吸わなかつたラムダスヂを水の中に没してしまつた。弟子たちが石ノミでセメントを取りのぞき,なお失神しているラムダスヂを上座にひき上げた時,幾千人という目撃者は,それをじつと見ていた。弟子たちはラムダスヂの顔,胸,そして体をマッサージして,ついに彼は目を開き微笑んだ。心臓病専門のヂアル・ラストム・バキル博士はすぐにラムダスヂを診断した。ラムダスヂの呼吸は遅いが,それ以外にはどのところも正常であると医師は言つた。』
医科学によると,普通の人がそのようなことをすれば,二,三時間で死んでしまうということです。
15 インドとか他のところで行われている火中を歩むという例は,一般には神秘な影響または力によるといわれています。しかし,これには自然の普通法則をうまく用いるごまかしのあるのを科学は証明し得ました。それで,火中の歩きは実際の神秘界から取り除かれました。しかし,科学が調査すればする程,科学は真実の神秘力の証拠および人間のあいだに超自然の行と出来事をひき起す見えざる勢力の証拠に直面しています。
16 霊媒術に頼ることによつて,慰めや,事前の情報や,導きを得ようとする現在の傾向は,どれ程広範囲に亘つていますか?
16 迷信の気持を持とうと持たなかろうと,多くの人々は神秘な事がら,隠れた源を持つ勢力,そして異常の出来事に特別な興味と関心を持つています。悲しみに打ひしがれた多くの人々は,なんとかして死んでいる愛する者たちと連絡したいと欲しています。そういう人々が,死人と話を交せると言う霊媒を探し求め,一時の慰めを得ようとするのは自然のことであります。大多数の人間は,生活の不安定に悩んだり,大問題に面したり,また政治,商業,スポーツ,または他の事柄の結果は何であるかを知りたがり,将来についての導きを求めています。彼らは,将来を予言して彼らを導き,彼らから恐れを取り除いて危険から身を護り,そして彼らを成功に導くと約束する高い隠れた力に依存します。しかし彼らには,その力がいつたい何であるかは,はつきり分らないのです。教会員であつて,ふだんには霊媒術者とか心霊論者などとは言わなくても,霊媒術の行をする人は多くおります。アメリカでは,約13万1100人が霊媒論者あるいは霊媒社会の会員と主張していますが,しかしもつと多くの人々は霊媒術に手出しています。心霊術,霊媒術に頼るのはなにも悲しみに打ちひしがれて,慰めを求める一般の人々だけということではなく,又迷信深い芝居関係の人々だけということもなく,又いつも気苦労してひと儲けを狙う実業家だけではなく,全世界に亙り,高い政治界の人々もいまでは,心霊術,霊媒術に頼つているというのが流行です。
政治界における神秘力
17 最後のロシヤ皇帝がラスプチーンを庇護したことについて,一般にどう知られていますか?
17 ボルシエビキによつてニコラス・ロマノフが処刑された1918年の7月17日は,さして古い昔ではありません。そして,ロシヤの最後の皇帝であるニコラス2世を想い起します。『アメリカナ百科辞典』(第20巻315頁,英文)はニコラス2世についてこう述べています『彼は迷信深かつた。そのことは,最初の4人の子がみな女の子であつたことから男の子を得たいものと望み,易者,霊媒術者,道者,そして香具師たちに計つたことから分る。』彼は又,悪いことで有名なロシヤの僧グレゴー・ノビクと交渉を持ちましたが,そのことは良く知られています。グレゴー・ノビクのアダ名は『ラスプチーン』ですが,その意味は『淫逸で,放恣で,淫蕩で淫奔なること』というものです。彼は全くその通りの者だつたのです。ラスプチーンは百姓の家に生まれ,催眠術という生来の贈物を持つていました。彼は新しい宗派を始めましたが,それには踊ることと放恣が神秘集会に結びついていました。彼はロシヤ宮廷に招介され,それから幾年ものあいだに亙り,ニコラス2世に強い影響を及ぼしました。ニコラス2世は,他の人々の進言や非難をうけつけず,ラスプチーンを宮廷に許していたのです。
18-21 (イ)昔の時代に,占星術は一般人の生活にどれ程深く根づいていましたか?(ロ)占星術は,現代一般の生活でどのように用いられていますか?
18 今日では,政治科学だけで政治政府が運営されているのではありません。占星術も政治政府を運営しているのです。『占星術』とは,最初『星の科学』を意味しました。しかし,いまでは星の外観や地位によつて人間や地上の事柄を予言する星の研究を意味しています。あたかも,星は地上の人々と地そのものの上に隠れた神秘な影響を及ぼしているかのようです。ずつと昔に,カルデヤ人や,エジプト人や,ギリシャ人や,ローマ人や,アラブ人や他の人々は,占星術を行つていました。それは死後の生存にたいする信仰から生じたものであり,かつ星とは,死後,星と遊星の地位に移された著名な人々であつて,彼らはその星のところから地上の事柄に影響を及ぼすという信仰から発達したものです。
19 西暦13世紀に,インドの僧侶たちはシャムの王廷に占星術を紹介しました。それから後は,王も人民も,まず星の地位を学んで十二宮を確かめてから,いろいろな行をするようになりました。シャムの王は王宮づきの占星者を任命して,自分の顧問役となし,高い位をその占星者に与えました。モンクト王は,王宮づき占星者の奉仕を断つた唯一人の王でした。モンクト王自身著名な占星者であつて,自分自身で星の地位を読みたかつたのです。1932年に,シャムの絶対君主制はなくなりましたが,占星術者はなお存続し,前以上の強い力を政治界に及ぼしています。多くの立法者たちは,占星術者とひそかに話し合いをして,その星運を見てもらつて後に,政治運動を計画します。シャム人自身,そのことを観察してこう述べています。『政治家は,一番勝れた占星術者になり,占星術者は,もつとも成功する政治家になる。』政治家達は,占星術者とともに多く時間を費すため,星の地位を読める力が得られます。それで,星の地位から判断して,何時政治活動をすべきかを告げ得るために,占星術者は政治の分野で成功すると信ぜられています。実際のところ,全国民が占星術に頼つていると言えます。科学や宗教以上に,占星術はシャム人に強い影響を与えています。
20 占星術は現代の西洋支配者たちにも影響を及ぼし,しかも戦争を行うということにも影響を及ぼすのです。1952年1月号の『図解メカニックス』誌は次のように述べていました。『第二次世界大戦についての最も驚くべき,しかも殆ど知られていない事実の一つは,同盟国はヒットラーに対して占星術的戦争を実際に行つたということである。ナチの指導者は星占いを頼る(同時に彼はローマ,カトリック信徒であつた)と知つて,英国は心理学研究所を設立し,所長に有名な占星者ルイ・デ・ウオルを任命した。デ・ウオルはできるだけ緻密に「善」と「悪」日に従い,ヒットラーと幕僚たちの星占いの見当をつけたのである。それで,占星家たちがヒットラーに何を告げていたか英国はいつも知つていたのである。後日のデ・ウオルの談によると,占星術の戦が行われたのは,30年戦争以来始めての事である。』同盟国は占星術に頼ることによつてナチやイタリー国粋党や枢軸国連合軍を打ち負かすことができたというのではなく,むしろそれはクリスチャンと自称する支配者たちも利己的な益のためには,神秘な力によろこんで依存することを示しています。昔のカルデヤの王ネブカデネザルを想い出します。彼はキリスト前6世紀にパレスチナ征服を目ざして進軍していました。道の岐れ目にさしかかりました。一方の東の道はアモンの首都ラバに通じ,他方の西の道はエルサレムに達していました。聖書はこう述べています。『バビロンの王その道の首処その途の岐れに止りて占卜をなし,箭をふりテラピムに問い,肝を察べおるなり。彼の右にエルサレムという占卜いづ。云く破城槌を備え口をひらきて喊き殺し,声をあげて吶喊をつくり,門にむかいて破城槌を備え,塁をきづき雲梯を建つべし。』(エゼキエル 21:19-22)それにより,ネブカデネザルはエルサレムに向つて進軍し,エルサレムは滅亡しました。
21 アメリカの銀貨や切手には『神に依り頼む』と書かれています。しかし星占いが盛んで現在のように繁昌していることは,アメリカが動揺していて逡巡していることを示すものです。アメリカの首都ワシントンで,ジョン,アール,サンダースはそのように語りました。アメリカ自然歴史博物館の共同管理者であるサンダースは,1946年にこう述べました。『ワシントンでは,1万人の人々は毎週ワシントンにいる星占にお伺いを立てる。……ある著名な人々はいろいろな種類の易者たちを保護し扶助しているのである。星占いであるエバンジェリン,アダムスは1ヶ年に5万ドルを稼いだ。ジェー・ピー,モーガンレスリー,カーター夫人,メアリー,ガーデン,そしてリチャード,ハーディング,ディブスはエバンヂェリン,アダムスの常客であつた。ウインザー公爵は,星占いに計つた結果,数年前に旅行を断念した。ヒットラー(正式なローマ・カトリック信者ではあるが)は,バーチェスガーデンに多くの易者たちを集めて扶助していた。ムッソリーニ,ナポレオン,ヒットラー,ジュリアス,シーザー,アレキサンダー(大帝)― 各人は自分の星を信じて,その星について語つたのである。ハーディング大統領とその妻が,毎週白亜館で,占師に見てもらつたということは,いまでもワシントンで語られている。』彼は言葉を続けて,運勢の占いは,『いまワシントンで盛に行われている。そして,多くの著名な法律家たちは自分だけの易者を持つていると言われている。ひとりの議員は,毎週自分の事務所で星の運だめしをしてもらつている。その占いの命ずる通り,彼は或る議案に賛成したり,反対したりする。』―『週刊のアメリカ』(英文)1946年7月21日。
22-25 アメリカとカナダの民事指導者たちが,心霊論的または霊媒術的などんな行をしているということは,特別な注意を払うのにふさわしいものですか?
22 いたるところで,政治家たちは神秘心力に依存しています。神秘心力とは,物体に触れるか近づくかによつて,物体又はその所有者についての事実とか隠れた事柄を知る力です。1952年10月19日(アメリカ,コネクチカット州)ニュハベン『レヂスター』(英文)誌は,フルトン・アウスラーの次の言葉を出版しました。『私は神秘心力者たちが政府の要職につく人々に送つた報告を確かに見た。それに,要職につく立法者の妻たちと共に神秘心力者の集会にも行つたことがある。』
23 人気のあるラヂオ評論家ヅルー・ピアーソンが『ワシントン探報』という記事をアメリカ中に出版して,白亜館でなされている霊媒術について報告しているところで,それはなにも驚くに当らず,むしろ当然のものでありましよう。1953年8月24日,オレゴン・ジャーナル紙の中で,評論家ピアーソンは水晶球を持つ『著名の易者』が夏と春のうちに白亜館を訪問したと述べました。その易者とは,つまりジーン・デクソン夫人です。デクソン夫人は,アイゼンハワーの妻マミーの運を10年間占つてきました。しかし,マミーが白亜館に入つてからはデクソン夫人は時折り白亜館に召され,大統領夫人のために一番新しい易を立てていました。そして,『大統領自身のために水晶のぞき』をすらいたしました。デイクソン夫人は,三つの心霊手段 ― つまり,水晶球,手相,占星を用いると言いました。同夫人は自分の掌の中の星のような印を指して,それは『真の心霊者』の印であると説明しました。しかし,デクソン夫人の普通の仕方は,被術者の指先きに触れながら,それから肩越しに水晶球にのぞきこむことです。デクソン夫人は,アイゼンハワー一家や他の依頼者のことについて語るのを拒絶しました。白亜館に通じている人々は,デクソン夫人がアイゼンハワーのゴルフ得点を水晶球の中から読んで,大統領を驚かしたと言つています。
24 政治界について言えば,デクソン夫人はインドの分裂,1948年ハリー・エス・トルーマンがトーマス・イー・デューイに対して予想外の勝利を得たこと,1952年の大統領選挙で共和党が勝利を握りアイゼンハワー元帥の白亜館入りなどを予言しました。本職は不動財産仲介業であつて,デクソン夫人はその心霊術にたいして報酬を求めません。その神秘な力に対して自分のほまれを取ろうとはせず,かえつてこう言います『すべての事柄は予影されていると聖書は語つています。わたしは単に通信連絡の手段です。』大統領のいる白亜館に霊媒術が入つたと公表されても,それは問題にもならず,否定もされず,非難をもうけていません。
25 さてアメリカの北の国境を越えてカナダに行つてみましよう。カナダでも霊媒術は首相と深い結びつきを持つています。かつてカナダの首相であつた故ダブリユ・エル・マッケンヂイ・キングがひそかに霊媒術者であつたことは,あまり一般には知られていません。しかし,彼は1950年7月22日に死ぬ時まで,アイゼンハワー大統領と同じく長老派教会の会員だつたのです。ブルース・ハッチソン(1953年)の書いたキングの伝記『信ぜられぬカナダ人』の中で,著者はキングの持つていた深い霊媒術の確信をさらけ出しています。カナダの首相であつたキングは,霊媒に尋ね『死人と直接通信できる』ことを確信しました。彼は一般宗教の教える人間不滅の信仰を持つていましたが,霊媒術によつてその信仰はますます固くされ,その信仰を基にして,個人的のものにせよ政府のものにせよ,あらゆる問題に接して行きました。死期が近づくにつれて,彼は霊媒術,特に英国の霊媒術を奨励し,死人に物事を問いました。フランクリン・デー・ルーズベルト大統領が死んで1年後の集会で,キングは霊媒を通して死せるルーズベルトと話を交しました。そのとき,故ルーズベルトは,キングは政治界にいるベきであつて,カナダも世界もキングを必要としていると告げました。しかし,しばしば行われた霊媒術の集会で,キングは政府の事柄については霊たちに問おうとはせず,政府の事柄は自分自身で処理したいと霊媒たちに語りました。だが政治の事柄を取り扱うのに,自分のひそかに持つ霊媒術の確信によつて影響をうけたことはまちがいありません。一見して,死人たちと交りを結び得たことにより,地上の旅の終りに近づいても,それは真実の旅の初まりに過ぎず,それに実際のところ自分自身の真の形態を取るのに自由になるとますますキングは確信しました。著者ハッチソンはこう言つています。キングが死んだ時に,『彼は自分で信じていたように,ひとつの遍歴を完了して,第二の遍歴を始めた。』と著者ハッチソンは語つています。―86-88,423,424,450頁。
26 (イ)霊媒術者は,その実際の経験により『死後の生存』について,何を証明し得ると主張しますか?(ロ)そのような主張からどんな当然の疑問が生じますか?
26 全部のことが言われたわけではありませんが,しかし前述のことから霊媒術はひろく行き渡り,かつ多くの人が知る以上に人間社会に深く食い入つています。霊媒術がさらにひろがるための土台が置かれています。ある霊媒術者たちは自分の宗教についてきわめて有望視しています。そのことは,アーサー・フイドレイの本の題『真理の磐,すなわち来るべき世界宗教である霊媒術』(1949年,13番目の印象)からも分ります。あらゆるごまかしを取り除いて,霊媒術者たちは実際の実験や,また現出できる現象から自分たちの信仰を証明するようです。彼らが見えざる世界や,理智を持つ霊たちと確かに接していることは,証明されるものであり,疑うことのできないものです。しかし,次のような疑問が生じます。彼らが連絡をとつている霊とは,かつて地上で生存し,そして死んだ者たちの霊でしようか? 霊の世界と連絡することは,『死後の生存』を間ちがいなく証明しますか? それは,『不滅論』つまり人間の魂不滅を信ずる教理を支持するでしようか? 地上に住んでいる者たちは,死者と話をすることができるでしようか? 愛する者や,親戚や,親しい友人たちを失つた者たちが,死んだ者たちと連絡したいと希望して霊媒のところに行つたり,またはテーブル敲きとか,コックリ板とか,はいはい板とかオウヤ(オウはフランス語ではいを意味し,ヤはドイツ語ではいを意味する)のような霊媒的の手段を用いるのは慰めを得る正しい仕方でしようか?
27 これらの質問に対する安全かつ真実で満足を与える答をどのように知りますか?
27 これらの質問にたいする安全かつ真実で満足を与える答を,どのように知りますか? 昔の歴史的な記録が絶えず正しいと証明される1冊の本,また幾世紀にも亘つてその多くの予言が成就され,かつ西暦1914年以来現在の世界の出来事や状態にその予言が成就されている予言の本,そして,霊媒術者たち自身でさえその教えと信仰の裏づけを得ようとして引合に出す1冊の本を調べることによるのです。その本とは何の本ですか? それは,聖書です。
28 注意深い人は,霊媒術の唱える不確かなどんな説に注意すべきですか?
28 スエーデンから次の報告が来ています。『スエーデンの霊媒術者は,その信仰を証明するのに,ほとんど聖書を用いない。彼らの「実験」によつて,死の状態についての証明が与えられている。』しかし,ダブリユ・エッチ・エバンズの書いた『忙しい人の霊媒術』(英文)の本の14頁には,『霊媒術は聖書的事実を確証す』という副見出しが書かれています。すでに引用したヴィー・ディー・リシはこう述べています。『聖書の中には,死後の生存や,死者と生者とのあいだの連絡についての記事が多く書かれている。』その論を更に附加するものとして,アーネスト・トムソンは『霊媒術の教えと現象』(英文)の115-120頁の中でこのように述べています。
『すべての宗教は,「死後の生存」という概念に基いている。なぜなら,霊的将来の希望がないなら,神という考えは決して人間の心に生じなかつたことであろう。キリスト教宗教は,聖書に述べられている死後の生存という証拠に基いているのである。勿論,死人の中からイエスが再帰した証拠に基いているのである。……新約聖書中の主要な人物はイエスである。……彼の業は高度に発達した霊媒および神癒者の業と言える。……イエスは現在までの霊媒の中でもつともすばらしい霊媒にちがいない。荒野で「試錬」をうけた期間から復活をうけた時にいたるまで,彼の「超異常の力」により,イエスの話はまつたく深い印象を与えるものである。彼が千里眼と霊聴を持つていた事実は,「御使が来て彼に仕えた」という時に示された。彼が霊の民に霊聴を持つていただけでなく,彼のまわりにいた人々にも霊聴を働かしたのである。イエスは人々の考えを精神感痛法によつてしばしば悟つたのである。……モーセやエリヤの形が表われた時に,イエスは明らかにペテロやヨハネとヤコブを形態現出の霊媒に用いたのである。……デー・デー・ホームのように,イエスは軽くなつて浮くことができた。「夜明の四時ごろ,イエス海の上を歩みて彼らに到り給いしに。」……希望していた特定の現象をつくるのに,イエスが自分の「状態」をそれにふさわしいようにしたことは注意すべきことである。……弟子たちの霊媒の助けをうけて,イエスが十字架上で死んでから後「十一人の弟子たちに現われ,彼らの不信と心のかたくなさを叱つた」ときの二階の状態は,まつたく良いものであつた。」
聖書をなぜ引合に出すか?
29 霊媒術の主張を公正な態度で十分に調査する人は,どんな基礎的な質問に直面しますか?
29 霊媒術の著者たちが,自分の論議に聖書を持ち出して勝手に解釈している故に,私たちも是非聖書を調べなければなりません。そして,聖書は,霊媒術を支持するか? 聖書は霊媒術の本であるか? あるいは,聖書は死に残されて悲しみにあふれ,悲哀につつまれ,困惑し,暗やみを歩き,危殆に瀕している人類に別の希望を与えていますか?というような質問を直接調べねばなりません。まず最初に,霊媒術の教えの基礎になつているただ一つの土台を調べることにより,私たちは事態の真理をすぐに得ることができます。それは何ですか? 不滅論です。リシはこう述べています。『死後の生存についての知識は,一般に霊媒術と言われる。人類と同じ程古いその原理は,新しい方法によつて証明されている。(霊媒術の)欧州国際会議で確証されたが,その原理は次の通りである。1.最高の理智にしてあらゆるものの根源である神の存在,又魂の存在。2.魂は地上の生命のあいだ,流動体であるペリシピリットと呼ばれる中間要素によつて朽ちるべき肉体にすむびつけらる。3.魂の不滅と連続的段階により完全に向つて,魂が絶えず進化しつづけること。4.見えるものと見えないもののあいだ,すなわち生者と死者のあいだに連絡の可能性のあること。』それで,さしあたつての疑問は,魂は人間の体が死んでも生き残るか? 人間の魂は不滅であるか? 聖書は何と言つているか,ということです。
30,31 昔のエジプトの地で,エジプトの法術士とヱホバの代表者モーセのあいだに争いがなされましたが,そのことについての聖書の記録をなぜ注意深く考慮すべきですか?
30 聖書の最初の5冊を取つてごらんなさい。予言者モーセがそれらの本を書きました。霊媒術者は聖書の予言者は霊媒であると主張していますが,予言者モーセが果して霊媒であるか否かについては,問題を論じて行く中に示しましよう。さて,このモーセが『エジプトのあらゆる智恵をうけて教えられた』ということに注意を払います。モーセはキリスト教時代より16世紀以前エジプト王宮の王のところで訓育されたからです。彼はエジプト王であるパロに仕えた賢人や不思議を行う人々と良く知つていました。モーセがパロの前に立つて,ヱホバ神の奴隷の民を自由に解放して去らさせよと要求し,そして神の力をうけつつ牧羊の杖を大きな蛇に変えたとき,モーセ自身の記録はこのように述べています。『パロも賢人と魔術士たちを呼んだ。エジプトの法術士たちはその秘術を用いて同じことをなした。』後日,モーセが水を血に変えたとき,パロの法術士たちもその奇蹟の真似をしました。モーセが奇蹟的に蛙を出したとき,パロに仕える者たちも同じことを行いました。しかし,モーセがエジプトの塵を蚋子に変えたとき『法術家たちはその秘術により同じことを為そうとした。しかし不可能なことであつた。蚋子は人と獣についた。ここにおいて,法術家たちは「これは神の指である。」とパロに言つた。』― 出エジプト 7:10,11,20-22; 8:6,7,17-19,新世。
31 それで,パロの賢人や魔術士や法術士たちは,自分たちの秘術をつくしてもとうていできないような不思議なことを,モーセは神ヱホバの力をうけて為し得ると認めました。神の霊力または霊感をうけて,人間の魂についての定義を始めて聖書に書いたのは他ならぬこのモーセです。それに又,このモーセがエジプトの神秘な力に頼つた人々と敵対したことから,モーセが霊媒であつたかどうかについても正しく理解することができます。
人間の魂とは何か
32,33 人間の魂について,キリスト教国の代弁者たちのする定義と,聖書による定義は,どのように異りますか?
32 キリスト教国の宗教的な教えは,人間の魂について不可思議なことを述べるので哲学者たちの説明が必要となります。それらの教えとはちがい,モーセは神が人間以前に創造したすべての魚や,鳥や,地上の動物を『魂』『生ける魂』と呼んでいます。(創世 1:20,21,24,30; 2:19,新世,ロザハム訳,ダーベー訳)それで人間が創造される時よりずつと昔に,幾十億という動物の魂または地的の魂は死にました。モーセは,それから最初の人間の魂がどのようにつくられたかをこのように述べています。『それからヱホバ神は土の塵から人間をつくられ,人間の鼻に生命の息を吹き入れられた。それで人間は生ける魂となつた。』(創世 2:7,新世。アメリカ標準訳,ダーベー訳)この聖句は,霊媒術の著者アーサー・フインドレイが自著の本『天界の端に立つ,すなわち科学的に説明された死後の生存』(英文)を宣伝して,人間は何処から来たかについて述べた言葉を否定するものです。フインドレイはこう語つています。『我々は天界内に止まる。我々が死ぬときに,外形も,記憶も,愛情も天界に移り行くのである。……将来も現在と同じであろう。播けば,それを苅らねばならない。我々は天界から来た。それで我々は天界に戻る。我々の肉体の生命は,我々の生命のほんの一部にすぎない。我々の生命は天界から来たために,死ぬときには天界に戻る。それで,真実にして触知し得る世界で,生命は機能しつづける』モーセは『天界』については何も語つていません。
33 また,人間の魂が創造されたことに関するモーセの霊惑の記録は,ヴイ・デー・リシの意見と一致せず,それに『流動体であるペリシピリット(取り巻いている霊)と呼ばれる中間要素』については何も述べていません。創造者であるヱホバ神は,最初の人間にただ一つの体を与えました。その体は,地中の塵にあるいろいろな要素から出来あがつたものです。その物質の体は,どのように生命を持つようになりましたか? 神が人間の鼻,つまりは人間の肺の中に『生命の息』を吹き入れたことによります。それは人間の中に見えない魂を吹き入れて,それから流動体すなわち地的な体と同じ形を持つ取り巻く霊気を用いて,その魂を物質の体に結びつけたのではありません。神はいわば生命の無い体に生命を与える力を吹き入れました。そしてその力は,人間の呼吸によつて保たれるべきでした。どんな結果が生じましたか? その体は生命を持ちました。それはどういうことですか? つまり,ひとつの魂,すなわち目に見えて,触ることができ,感情を持つ人間の魂ができたということです。『人間は生ける魂となつた。』その生る魂は,いわゆる『天界』から来たものではありません。何故なら,その魂は,以前に『天界』に存在していなかつたからです。神が体と生命の息を結び合せることにより,その魂は生命を持つようになりました。それで,人間の魂が何であるかについての説明は,次の簡単かつ明瞭な『魂の方程式』によつて示されるでしよう。
人間の魂=体+神からの生命の息
34 人間の魂について,クリスチャン筆者であつたパウロの定義は,モーセの書いたヘブル語聖書中の魂の定義と,どのように一致調和していますか?
34 これは,クリスチャン時代以前のヘブル人つまりユダヤ人だけの考えではありません。それは又真実のクリスチャンの考えでもあります。聖書の中の14冊を書いたクリスチャン使徒パウロは,モーセの書いたことを支持して,こう述べています。『聖書に「最初の人アダムは生ける魂になつた」と書かれている通りである。……最初の人は土の塵よりつくられた。』(コリント前 15:45,47,新世)それで,最初の生ける人間の魂は,最初の人間アダムでした。生ける人間の魂とは生ける人間です。その理由により,ヤングの聖書英訳(1862年)は,ここのところで『魂』の代りに『人間』という言葉を用いているのです。
35-37 すばらしい聖書の現代訳は,魂と魂の創造者についての正確な知識と理解を得させるのに,どのように聖書研究者を助けていますか?
35 聖書は,魂についての絶対権威を持つものです。聖書のヘブル語部分では,(『魂』と訳される)ネペシという言葉は,約800回出ています。聖書のキリスト教ギリシヤ語部分では(『魂』と訳されている)プスケという言葉は102回出ています。どの場合にしても,新世訳はこのギリシヤ語を『魂』と訳しています。まだ完結していない新世訳も,ヘブル語のネペシをいつも『魂』と訳しています。それで,聖書を読む人は魂の創造者が霊感の聖書の中でその言葉をどのように用いているかを知るでしよう。
36 生ける人間そのものは,人間の魂であると,聖書は認めておりかつ教えている故,人間の魂は血を持つと聖書が述べているのは全く当然なことです。―『罪なき貧しき者の魂の血』(エレミヤ 2:34,欽定訳)― 神御自身もこう言われています。『あなた方の魂の血を私は求めるであろう。』(創世 9:5,新世)実際のところ,魂の創造者である神は,人間の魂が血の流れに是非依存しなければならぬと示しているため,こう言われています。『肉の魂は,血の中にある。』さらに『あらゆる肉の魂は,その血である。a』『血は魂である。b そして,あなた方は血とともに魂を食べてはならない。(本当に魂を食べてはならない)』(レビ 17:11,14そして申命 12:23,新世)人間の魂は,血や脂を食べることができます。しかし,神の律法はそのことを禁じています。『火祭としてヱホバに捧げる獣の脂を食べてはならない。これを食べる魂は,その民の中より絶たねばならない。どんな血であつても,血を食べてはならない。その者は民の中より絶たれねばならない。』― レビ 7:25,27,新世。
37 人間の魂は動物の体を食べることができます。『死んだ体または獣によつて引き裂かれたものを食べる魂』(レビ 17:15,新世)人間の魂は物質の食物を強く求めます。『あなたの方の魂は肉を食べようと強く求める故に,あなた方が求める時には肉を食べることができる。』(申命 12:20,新世)また果物については『あなた方はあなた方の魂を満足させるために,充分の葡萄を食べねばならぬ。』(申命 23:24,新世)あるいは蜂の蜜をも食べることができます。―シンゲン 27:7。
38 人間の魂についてのいろいろな事柄は,魂に関して常に一致している聖書の教えをどのように理解させますか?
38 人間の魂は生きていて,理智を持つ人間そのものです。それは目に見えてかつ触知することのできる物質の人間であつて,人間の体内にある目に見えず,かつ触ることもできないエーテル体のようなものではありません。それで,人間の魂は自分自らを裂くこともできれば,獅子によつて裂かれます。あるいは生命を奪う剣の下から救われ,または深い坑に落ち込んでしまいます。そして,深い坑から引き上げられることもあり,牢獄から救い出されることもできます。(ヨブ 18:4,欄外。詩 7:2; 22:20。ヨブ 33:18,30。エレミヤ 18:20。詩 142:7)人間の魂を金で買うこともできます。人間の魂を誘拐して,売ることもできます。人間の魂を野獣のように狩り立てることもできます。(レビ 22:11。申命 24:7。出エジプト 4:19,新世)最初の人間の魂であるアダムとエバが地上に創造された後,他のすべての人間の魂は生まれました。人間は『天界』から来たのではありません。人間は父親の体つまり腰と,母親の胎から来たものです。ヤコブの妻であつたレアについてこう書かれています。『かくして彼女はヤコブにこれらの者を産んだ。合わせて16人である。ヤコブとともにエジプトに来た者は,ヤコブの子の妻をのぞき,ヤコブの上腿から出た者である。全部で六六人であつた。』(創世 6:18,26,新世)『そして,ヤコブの上腿から出たすべての魂は七十人であつた。』(出エジプト 1:5。新世)それで,魂とは人間の体からはつきり分離しているものではなく,まして夢の中とか,死ぬ時に体から出て行くものではありません。また体が死ぬ時に別の世界に移つて行つて,他の体に生れ変るというものではありません。
39 聖書は,体と魂のあいだの相異を示していますか? そしてどのように?
39 さて次の質問が起ります。聖書は体と魂のあいだの相違を示していますか? たしかに示しています。しかも聖書の初めの部分である創世記 2章7節の人間創造のところで示されています。エデンの地の塵からヱホバ神のつくられた人間の体は,人間の魂ではありません。それは,生命を持たない無活動の体であつて,見ることも,聞くことも,味うことも,香を嗅ぐことも,愛することも,考えることもできなかつたものです。体を生気づけて,その感覚器官と力を用いさせるために,神は生命の息を完全な人間の体の中に吹き入れて,体と生命の息をむすび合わせられました。かくして,以前には存在しなかつた生ける人間の魂がつくられました。それで,人間の体は人間の魂の必要な部分であつて,人間の魂は人間の体から離れては存在しません。聖書は私たち人間が楽しむ生命のことを,しばしば魂と語つています。イエスはこう言われました。『人が私のところに来て……その魂を憎まないなら,その者は私の弟子になることはできない。』(ルカ 14:26,新世)『自分の魂を愛する者は,それを失う。しかし,この世にあつて自分の魂を憎む者は,これを保つて永遠の生命を得る。』(ヨハネ 12:25,新世)『彼らは死の危険をうけても,自分の魂を愛さなかつた。』(黙示 12:11,新世)『私は正しい羊飼である。正しい羊飼は,羊のために自分の魂を棄てる。』― ヨハネ 10:11,新世
40 聖書の中で用いられている『魂』という言葉が,人自身を指すどんな例がありますか?
40 魂と体を切り離すことができません。それでもし『私の魂』という表現が用いられるとき,それは実際に『私自身』という意味です。イエスは金持ちについての譬話を言われました。その金持ちは,善い物を沢山貯えてからこう言いました『私は魂に言おう。「魂よ,お前は長年に足る良い物を貯えているぞ。気楽にし,食べ,飲め,楽しめ」すると神は彼に言われた「分別の無い者よ,今夜お前の魂は取りさられる。」』人間としての魂または生命がないとき,金持ちは自分の貯えた善い物をどうして楽しむことができますか?(ルカ 12:16-21,新世)神でさえも,『私の魂』という表現を用いられています。『見よ,私の選んだ僕,私の愛し,私の魂のよろこぶ者』(マタイ 12:18,新世。イザヤ 42:1)『私の義しい者は信仰によつて生きるであろう。もし彼がひるむならば,私の魂は彼を悦ばない。』(ヘブル 10:38,新世)『私の魂はあなた方の新月と定められた祝とを憎む。』(イザヤ 1:14,改定訳)これと同じく,『あなた(汝)の魂』という表現は,『あなた自身』を意味し,『彼の魂』は『彼自身』を意味します。例えば,『万軍のヤウエ,彼の魂を指して誓われたり。』(エレミヤ 51:14。アモス 6:8。ロザハム訳,欄外)『さらば汝幸いをえん。汝の魂生きん。』(エレミヤ 38:20。欽定訳。イザヤ 55:2,3)それで,『魂』という言葉は,人自身を指すのに用いられています。
41,42 死人を生命に戻したエリヤ・エリシャ・イエスの行によつて,霊媒術者の偽りの主張は,どのように間ちがいのものと曝露されましたか?
41 予言者エリヤはひとりの子供を生命に復帰させましたが,その際の彼の言葉は,人間の魂が体とは分離しているもので,ただ『ペリシピリットまたは流動体』と呼ばれる要素で人間の体に結びつけられているとは証明しません。そして人間が死ぬときに魂は離れ出て非物質の霊の世界にある分離独立した外部の存在に移るということを証明していません。聖書にこう書かれています。『その家の主母なる女の子,疾にかかりしが,その病はなはだ劇しくして気息その中に絶えてなきにいたれり。しかして(エリヤ)三度身を伸してその上に伏しヱホバに呼はりて言うわが神ヱホバ,願くはこの子の魂を中に帰らしめ給えと。ヱホバエリヤの声を聴きいれ給いしかば,その子の魂中に帰りて生きたり。』(列王記略上 17:17。21,22)子供の魂は,目に見えない霊の世界に生きていたと,聖書は述べていますか? また,子供は死んでかえつて幸いであり,地上にいた時よりも霊の世界にいる方がずつと幸福であると聖書は述べていますか? そのようなことは一つも書いてありません。子供の母親は,エリヤに霊媒になつて載きたいと願い出ましたか? そして,霊媒のエリヤを通して死んだ子と連絡し,その子と話を交しましたか? いいえ,そうではありません。もし子供が死んでかえつて幸福になつたら,エリヤが祈りを捧げて,子供を人間に生き返えさせたのは不正を行つたことであり,かつ非常な利己主義です。
42 エリヤの後継者エリシヤが,生命に戻したシュナミ人の子についても同じことが言えます。イエスや使徒たちが,地上の人間の生命に戻した死人たちについても同じことが言えます。すなわち,ヤイロの娘,ナインの寡婦の子,マリヤとマルタの弟であるラザロ,ヨッパのドルカス(タビタ),そしてトロアスのユテコです。(列王紀略下 4:8-37。マタイ 10:1-8。ルカ 8:41-56; 7:11-15。ヨハネ 11:1-44。使行 9:36-41; 20:6-12)予言者エリヤの祈りの真意はこうです。すなわち,離れ去つた魂が霊の世界から子供の体の中に戻つて来てもらいたいというのではなく,人間としての子供の生命がヱホバ神の力により戻つて来てもらいたいということです。そうして,その死んだ体が再び生き返つて,生ける人間の魂になるようにということです。このことと一致して,アメリカ翻訳は,この聖句をこう訳出しています。『この子供の生命が再び体に戻らんことを』『それで,主はエリヤの声を聴いた。そして,子供の生命は再び戻り,生き返つた。』『「見よ,あなたの子供は生きた」とエリヤは言つた。』(列王紀略上 17:21-24,アメリカ訳。またモハット訳)ユダヤ人がヘブル語を話して,ネペシはネペシを持つているとか,ネペシはネペシ(『魂』)の中にあると言うのは,極めて難しいものです。しかし,それと同じく人間の魂は魂を持つていると言うのも難しいものです。―レビ 17:10-14,新世。
人間の霊
43,44 リシの定義と,対照してみるとき,聖書は人間の霊をどのように示していますか?
43 しかし,この場合に,伝道之書 12章7節の聖句『しかして塵は本のごとくに土に帰り,霊はこれを賦けし神にかえるべし。』は適用されませんか? そうです。そして,ヤイロの娘を生命に返した時のイエスのルカ伝 8章54,55節(改訳)の記録『その手を取つて,イエスは「子供よ,起きよ」と言つた。そして子供の霊は戻つて,すぐに立ち上つた。』は適用されませんか? そうです。すると,このことから,エリヤが寡婦の死んだ子を生命に返し,イエスがヤイロの娘を生命に返す以前,彼らの霊は霊の世界に生きていたということなのでしようか? そして,その霊は賦け主の神に戻り,神と共に存在したということでしようか? いいえ,そのようなことはありません。『霊』とは,リシの説明するごとく,『全部の特質を持つ一個人のエーテル体で……人間の肉体部分の全き対当物』ではないからです。聖書によると,霊(ヘブル語でルアフ,ギリシヤ語でニューマ)は,神の見えざる活動力で,生命を惹き起し,生かさせるものです。
44 ヨハネ黙示録 11章8-11節(新世)にこう書かれています。『彼らの屍は,大いなる都の大道に横たわるであろう……そし三日と半日の後に,生命の霊は神から来て彼らの中に入つた。そして彼らは立ち上つた。』また,骨の充ちた谷についてのエゼキエルの幻にもこう述べられています。『主ヤウエ,これらの骨にかく言いたもう。視よ,我汝らの中に,霊を入しめて汝らを生しめん。……我見しに,筋その上に出きたり,肉生じ,皮上よりこれを蔽いしが,霊その中にあらず。彼また我に言いたまいけるは,人の子よ霊に予言せよ,,人の子よ予言して霊に言え。主ヤウエかく言いたもう。霊よ,汝四方の風より来り,この(呼吸をしない)殺されし者共の上にいきふきて是を生しめよ。我命ぜられしごとく,予言せしかば,霊これに入りてみな生き,その足に立ち甚だ多くの群衆となれり。』― エゼキエル 37:5-10。ロザハム訳。またヤング訳,リーザ訳。
45,46 (イ)人間の生命を存続させて,回復させることについて,全能の神は何をなされると聖書は示していますか?(ロ)このことは,イエスの場合に,どのように明白に示されましたか?
45 ヱホバ神は,生命を与える霊,または生命を与える目に見えない活動力の源です。それで,死体が元の土に戻るとき,その霊,つまりその体に活気を与えたその活動力はかの源に戻ります。その霊は,体内における機能を中止します。それで,その人間が再び生きるための力は,生命の源である神に依存しています。神はアダムとエバに死を宣告したため,ふたりから生ずる子孫はみな罪に定められています。そして,人間が死ぬときに神は,その生命の力を要求します。なぜなら,人間はアダムとエバからの罪を相続したため死に定められているからです。神の公正な律法は,人間からその生命の力または霊を要求します。そしてそれは神に戻ります。神がその罪をなくして,取り除くとき,救われたアダムの子孫たちにその霊である見えざる活動力を与えて再び生かしめます。それで,霊感をうけた詩篇は,神に向つてこう述べているのです。『なんぢ御面をおおいたまえば彼らはあわてふためく。なんぢ彼らの霊を取り給えば,かれらは死にて塵にかえる。なんじ御霊をいだしたまえば,すべてのものみな造らる。なんぢ地のおもてを新にしたまう。』― 詩 104:29,30,ロザハム訳。またヤング訳,リーサー訳。
46 イエスがヤイロの娘の手を取つて『子供よ,起きよ』と命じたとき,子供の中に入つたのは,呼吸によつて持続されるこの生命の力です。神はイエスの言葉を聞き,その生命を与える活動力を働かして,子供の体を生かせて再び呼吸を為させ,そして地の塵に戻らさないようにしました。イエスがカルバリ上の杭にかかつて死ぬ時,『父よ,あなたの御手に私の霊を委ねます。』と神に言われたのは,そのような霊あるいは生命力を意味して言われたのです。(ルカ 23:46,新世)それから3日目に,神はイエスを死人から復活してその霊または活動力を恢復させられました。(使行 2:22-28,32-36)それで,伝道之書 12章7節を用いて,死んだ人間の不滅の霊は霊の世界にあり,いままでにない大きな生命や,知識や,自由を楽しんでいるとか,また善い霊も悪い霊もみな神に戻つたなどと教えることはできません。むしろ,すべての人間は死の宣告下にあつて,年を取つて死なねばならぬことを証明しています。そして,人間が死ぬとき,神の正義の律法は彼らから生命の力を要求するため,その体は塵に戻るということを証明しています。
47 聖書によると,人間の生命は,なぜ地の下等動物の生命よりも勝れていますか?
47 この面から見るとき,アダムから相続した死の処罰のために,人類は死んでしまう下等動物と似ています。動物は罪の処罰をうけて死ぬのではなく,ただ永遠に生きるということを創造者が定めなかつたためです。霊感をうけた賢人は,人間の霊は下等動物の霊のようであると示し,こう述べています。『我また心に謂けらく,是事あるはこの世の人のためなり。すなわち神はかく世の人を検してこれにその獣のごとくなることを自ら暁らしめたまうなり。世の人に臨むところの事はまた獣にも臨む。このふたつに臨むところの事は同一にして是も死ねば彼も死ぬるなり。みな同一の呼吸に依れり。人は獣に愈る所なし。みな空なり。みな一の所に往く,皆塵より出で皆塵にかえるなり。誰か人の魂の上に昇り,獣の魂の地に下ることを知らん,』(伝道之書 3:18-21)このことから,動物を生かさせる霊,すなはち目に見えない活動力は,人類を生かさせるものと同じものということが分ります。それで,人間が下等動物より勝つている事柄は,ただ人間の将来についての神の定め,或は神の取り極めだけです。神の過分の御親切により,人間は下等動物よりも勝れたものを楽しみます。なぜなら,信仰を持つ従順な人類が,死ぬことの無い正義の新しい世で永遠の生命を楽しむようにと神は御意を定められ,かつ御準備をされたからです。それで人が死んで体が塵に戻るなら,そのような永遠の生命を楽しむことができません。というのは,その時神に戻る霊は,すべての特質を持つ死ぬべき体の目に見えない不滅の対当物ではないからです。人間の霊についてのそのような考えは,要するに『死後の生存』という教えを支持しようとするため,霊媒術者たちがつくり出した勝手な理論に過ぎません。彼らの『来世』は神の正義の新しい世界ではありません。
人間の魂は不滅ですか?
48 霊媒術者の主張のために,聖書は果して人間の魂不滅を教えているか,いないかということを,なぜはつきり確めねばなりませんか?
48 人間の魂が生きるためには,(1)人間の体と(2)神からの目に見えない活動力すなわち霊が,その体に組み合わされて体の呼吸を始めさせ,生かせねばなりません。このようにして生命を持つ人間は人間の魂です。(創世 2:7)人間の魂は,地の大気を呼吸して,地上の食物を食べねばならず,また人間の魂は引き裂かれたり,牢獄の中に入れられたり足械をつけられたり,剣で切られたり,坑の中に落されたりすることから見るとき,(詩 105:18。エレミヤ 4:10。ルカ 3:35)人間の魂は決して死なない不滅のものですか? 霊媒術は主として人間の霊不滅の信仰に基いています。『死後の生存』という霊媒術の教えは,魂の不滅に基いています。そして,聖書の中には,死後の生存ということや生者と死者のあいだの連絡ということが多く書かれていると,言います。霊媒術がそのように主張していることから,聖書は人間の魂不滅を教えていて,死後の生存を可能にしているか?という特別な質問を調べなければなりません。
49-53 不滅という言葉は,聖書に幾回出ていますか? それぞれの意味は何ですか?
49 聖書の中には,もちろん不滅という言葉が書かれています。しかし,人間の魂は不滅を持つていると聖書は述べていますか? 聖書を見てごらんなさい。『不滅』という言葉は只の一度もヘブル語聖書中に出ていないのに驚かれることでしよう。そして,キリスト教ギリシヤ語聖書の中では,『不滅』と訳されているギリシヤ語の言葉アタナシアは,僅か3回しか出ていません。いまその3回を検討してみましよう。
50 『朽ちるものは朽ちぬものをつけ,死ぬものは不滅をつけねばならない。しかし,朽ちるものが朽ちぬものをつけ,死ぬものが不滅をつけるとき,聖書(イザヤ 25:8)に書かれている言葉「死は永遠に呑まれる」は成就するであろう。』(コリント前 15:53,54,新世)ここで使徒パウロは,クリスチャンがうける死からの復活を論じています。そして,忠実なクリスチャンたちが死から,どのように甦り,またどんな体を持つかを示しています。彼らはもはや不滅性を持つているとか,不朽性を持つているなどと,パウロは言つていません。彼はロマ書 2章6,7節で,神は『その業に従つて各人に報いる。耐え忍んで善き業を行い,栄光と誉と不朽性を求める者たちには,永遠の生命を与える。』(新世)とクリスチャンたちに告げています。不朽性と不滅性は,将来に与えられる報いであつて,忠実なクリスチャン達が死人から復活されるときに与えられるのです。この復活および不朽性と不滅性をつけることは,死んだときになされるのではなく,イエス・キリストの再臨のときになされ,そのときイエスは御自分の忠実な弟子たちを死からよみがえします。『丁度アダムにいる者はみな死んでいるように,キリストにいるものはみな生かされるであろう。しかし,めいめいはそれぞれの順序がある。キリストは最初の実であり,後にキリストの臨在されるあいだ,彼に従う者たちとなる。死人の復活もそれと同じである。それは朽ちるものに播かれて,朽ちぬものによみがえされる。……私たちは変化をうけるであろう。』― コリント前 15:22,23,42,52,新世。
51 人間の魂について何も言われていないのに注意しなさい。前に二度出ているアタナシアつまり不滅という言葉は,人間の魂が生まれつき不滅であるということを教えているどころか,それとは全然逆のことを教えています。
52 残つている第3番目のアタナシアつまり不滅という言葉は,次の引用聖句の中に述べられています。『私たちの主イエス・キリストの現われる時まで,責むべきところのない正しい仕方でいましめを守りなさい。幸にしてただ一人の力ある方は,その定めの時になつて表われる。キリストは王の王であり,主の主であられる。彼はただひとり不滅を持つ。』(テモテ前 6:14-16,新世)ここで,使徒パウロはテモテに次のことを語つています。つまり,王や主として支配する地上の主権者で,不滅を持つていると主張しても,彼らの中のひとりとして不滅を持つている者はいない。しかし,『幸にしてただ一人の力ある方』イエス・キリスト,すなわち王の王,主の主だけが,死から復活された後に不滅を持つている,というのです。異教のバビロン人や,エジプト人や,ギリシヤ人や,ローマ人やヒンヅー人は,生まれつき不滅を持ち,かつ人間の魂は不朽であるという異教の教理を教えたのです。不滅にして「不朽の神」は,イエス・キリストを死人からよみがえして,彼に初めて不滅と不朽を与えました。このイエス・キリストはまた,神の御国についての良いたよりを伝道することにより,不滅と不朽に関する真理を始めて明らかにした方です。『さて,それは私たちの救い主キリスト・イエスの現われることにより明白にされた。彼は死をなくし,かつ良いたよりを通して生命と不朽を明らかにされた。』― テモテ後 1:10とテモテ前 1:17,新世。
53 この第3番目のアタナシア即ち不滅の使い方から,地的権力者にせよ,独裁者にせよ,王にせよ,主にせよ,あらゆる人間は生まれつき人間の不滅の魂を持つているなどということが,全く否定されています。ローマ・カトリック訳聖書の出所不明な経外書の『旧約聖書』の中に,『不滅』そして『不朽』という言葉はたしかに出ています。しかし,これらのところからも,人間の魂が生まれつき不滅であるということを示してもいなければ証明もしていません。例えば,伝道之書 17章29節(ドーエイ訳)は,明白に『これらのものは,すべて人の中にあらず。人の子は不滅にはあらず。』と述べています。また,伝道之書 6章16節と智恵之書 1:15; 2:23; 3:1,4; 4:1; 6:19,20; 8:13,17; 15:1,3を見てごらんなさい。これらの聖句は,みな不滅が将来に得られる褒賞であり,生まれながらに持つているものではないと,示しています。
人間の魂は死にますか?
54 聖書の新世訳は,人間の魂が死ぬということを,どの程度に示していますか?
54 人間の魂は,生まれながらに不滅であるという教えは,聖書の中に述べられていません。それでは,人間の魂は滅びるべきもので,死ぬものと,聖書は言うべきであります。聖書はそう述べていますか? たしかにそう述べています。しかも,子供でも理解できるような分り易い言葉で述べられています。霊媒術者や,ローマカトリック信者や,キリスト教国の他の宗教は,人間の魂が死なないもので不滅のものであると示す聖句をひとつも提出できません。それで,人間の魂が死ぬべきものと証する聖句をひとつでも提出するなら,全く十分なはずです。しかし,そのことを証する多くの聖句を提出することができます。創世記 1章20節の後にあるヘブル語ネペシとギリシヤ語プスケをいつも『魂』と翻訳している聖書の新世訳は,他のいかなる翻訳にも勝つて,人間の魂が死ぬという聖書の教えを良く示しています。
55-57 最初の人間の魂の死に関する聖書の教えの4つの基礎的原理とは何ですか?
55 エデンの最初の庭,つまりパラダイスで,完全な人間の魂であるアダムとエバは死ぬ必要はなかつたのです。この二人の完全な人間は,地上のパラダイスで永遠に生き得たのです。どのように? ヱホバがエデンの園で供給された自然の食物を食べることによつて,その人間としての有機体を保ち,かつ見えないところからヱホバが彼らに語つて供給される霊的な食物を従順に食べることにより,その心と気持を養うことによるのです。しかし,神は彼らに警告を与えられ,たとえ彼らが神の御準備を用いて,地上で永遠に生き得る能力を持つていようとも,しかし,彼らは死ぬべきもの,死に得るものと語られました。創世記 2章は,最初の人間の魂であるアダムをつくられた神の創造について述べてから,さらにこう述べています。それからヱホバ神は,その人間を取つてエデンの園に定住させ,人間に園を耕させ管理させた。ヱホバ神は,また次の命令を人間に与えられた。『園にあるどの木からも,満足するまで食べてもよい。しかし,善と悪を知る木については,その木の実を食べてはならない。なぜならば,その木の実を食べる日にお前は必らず死ぬであろう。』(創世 2:15-17,新世)もし魂であるアダムが神の命令に従わないなら,魂であるアダムは死ぬでしよう。もし魂であるアダムが神の命令に従つて,この禁ぜられた木をのぞき,エデンの園にあるすべての木の実を食べるなら,魂であるアダムは従順であるかぎり生き続けることができます。人間の魂は,永遠に生き続ける機会を持ちました。といつて,それは霊の世界の中ではなく,エデンの地的パラダイスの中で,人間としての完全さを保ちつつ生き続けることです。
56 アダムが神の命令に背いて,妻の手から禁ぜられた木の実をうけとり,そして食べた後に,神はアダムに死の宣告を与えて,こう言われました。『地に戻るまで,顔に汗を流してお前は食物を食べるであろう。なぜならば,お前は地から取られたからである。お前は塵であるから,塵に戻るであろう。』(創世 3:17-19,新世)神が次のように言われなかつた事に注意して下さい。「お前の体は塵に戻るが,お前の霊は体から自由に解放されて,私の住む見えざる世界で,意識を保ちつつ生き続けるであろう。なぜなら,お前の霊は不滅であり,私には亡すことができないからである。」神はそのようには言われずこう言われました。「お前(お前の体ではなく,魂であるお前)は,土から取られたのであるから土に戻るであろう。お前(魂)は塵であり,お前(死の宣告下にある魂)は塵に戻るであろう。」
57 生ける魂であるアダムは,活気づけられた塵,又は生気づけられ,かつ生命を与えられて生命力を持つ塵の形であつて,それが人間の形につくられたものに過ぎません。他の陸上の動物とまつたく同じものです。死の宣告を実施するため,神はエデンの園から人間を追放しました。なぜ?『ヱホバ神は言われた。「人間は私たちの一人のようになつて,善と悪を知るようになつた。それで,人間が手を出して生命の木の実を取つて食べ,永遠に生きることのないようにするため ―」そうヱホバ神は言われて,人間をエデンの園から追い出して地を開墾せしめられた。人間は地から取り出された(いまは,その地に戻らねばならない)ものである。このようにして,神は人間を追い出され,エデンの園の東にケルビムと剣の燃える刃とを置かれた。その燃える刃は,生命の木への道を守るために絶えず自転していた。』(創世 3:22-24,新世)神は生命の木からアダムを遠ざけました。それは,アダムの体だけが死んでも,その霊は霊の世界で生き続けて霊の世界で不滅の旅を始め,前よりも多くのことを知つて,より一層自由になり,かくして創造者に背いて死ぬことにより,実際の益を受けるなどということのないためです。神はエデンの園からアダムを追放して,生命の木から遠ざけましたが,それは人間の魂であるアダムが,どんな場所であろうとも生きることができず,その存在を止めて,丁度獣と同じく『必らず死ぬ』ためだつたのです。
58 アダムが930歳で死んだということは,どのように説明されますか?
58 人間の魂であるアダムは,人間の完全さを失つたものの,エデンのパラダイスの外にある呪われた地で,幾世紀ものあいだ生き続けました。『かく,アダムは息子,娘の父親になつた。アダムの齢は,九百三十年で,そして死んだ。』(創世 5:4,5,新世)アダムが罪を犯して,神が彼を罪に定めてエデンのパラダイスから追放したその日に,アダムは神の目から見ると死んでいる者であり,罪の中に死んでいる者でした。アダムは,不従順の父親になり,不従順の子どもを生じました。この理由のために,使徒パウロはクリスチャンたちにこう告げたのです。『あなた方は過ちと罪の中に死んでいた。その過ちと罪の中にあなた方はかつてこの世の組織制度にしたがつて歩み,また空中の権威を持つ支配者,すなわち不従順の子らにいま働きかけている霊者にしたがつて歩んだのである。』(エペソ 2:1,2,5,新世)その見方から見ると,アダムと同じくエバも『生きてはいても,死んでいるのである。』(テモテ前 5:6,新世)しかし,アダムとエバが罪の中に死んでいるということだけでは,全く死んだということにはなりません。彼らが呼吸するのを止めて,その霊つまり生命を生ぜしめる活動力が,与え主である神に戻つた時,最初の人間の魂であるアダムとエバは死にました。アダムは,千年より70年少い年数だけ生きました。もし,使徒ペテロの『ヱホバにとつて一日は千年のようであり,千年は一日のようである。』(ペテロ後 3:8,新世)という時の計算法を使うならば,アダムとエバはその禁ぜられた木の実を食べた『日に』確かに死にました。アダムは,人類存在の最初の千年の日に死にました。(次号につづく)
[脚注]
[425ページの図版]
科学は「エクトプラズム」というものを発見した
[427ページの図版]
あなたの星占い
月 火 水 木
[429ページの図版]
ウイヤ
[430ページの図版]
霊媒術
1 魂