『わたしの神の家を喜ぶ』
「わたしたちは,わたしたちの神の家をなおざりにすべきではない」― ネヘミヤ 10:39,新。
1 イスラエル人が荒野で最初に建てた,真の崇拝のための建造物について説明しなさい。
3400余年前の昔,シナイ半島の寂しい荒野に壮麗な幕屋が建てられました。それは高さと幅がわずか4.5メートル,長さ13.5メートルのものにすぎませんでしたが,中庭の備えや,あらゆる調度を含めると,その価値は優に200万ドル(7億2000万円)を越えるほどのものでした。(出エジプト 38:29-31。1953年版,新世界訳聖書脚注,b,c)これは紀元前1512年,エホバによってエジプトの束縛から解放されたイスラエル人が神のご命令に従って建てた驚くべき幕屋でした。(出エジプト 36:2–38:20)このすばらしい幕屋はおよそ485年間イスラエルの真の崇拝の中心としての役割をはたしました。
2,3 (イ)前1027年,ソロモンはエホバをたゝえるどんな建造物の献堂式を行ないましたか。(ロ)エルサレムの宮に関する後代の歴史を述べなさい。
2 紀元前1027年,ダビデの子でイスラエルの王となったソロモンは,エホバをたゝえるための別の建物,つまり神の霊感によりその父に与えられた設計図に従って造られた宮の献堂式を行ないました。(歴代上 28:11-19)その宮の内部の聖所は幅9メートル,長さ27メートル,高さ13.7メートルでした。(列王上 6:2)おもに石灰岩とシーダー材で造られた宮は,金その他の宝石で飾られ,これまでの建造物中最も美しく,かつ高価なものの一つだったことには疑問の余地がありません。その造営に際しては50億ドル(1兆8000億円)余に相当する金銀が寄与されました。確かに全能の神はその宮を喜ばれました。ですからその献堂式でソロモンが感動的な祈りをさゝげたのち,「天より火くだりて燔祭と犠牲とをやき エホバの栄光その家にみてり」としるされているのです。―歴代下 6:12–7:3。
3 ソロモンの建立した宮は紀元前607年,バビロニア人の手で破壊され,その後,ユダヤ人は流刑に処せられました。(列王下 25:8-12)それから70年後,ペルシアのクロス王により解放され,エルサレムに帰還しました。そしてついに宮はゼルバベルの監督の下にその地に再建されました。(エズラ 1:1-4; 3:8-11; 6:14,15)その後,何世紀かを経て,ヘロデ大王がこの宮を少しずつ修復しました。イエス・キリストが地上におられた時,そこに立っていたのはその修復された宮でした。しかしユダヤ人がエホバに対して不忠実であったため,イエスの予告どおり,その宮は西暦70年,エルサレムがローマ人の手で滅ぼされるとともに灰燼に帰したのです。―マタイ 24:1,2。
4 幕屋や後代の宮に取って替わったのはなんですか。説明してください。
4 この宮はいみじくも「エホバの宮」,「まことの神の家」,「エホバの家」と述べられています。イエスもこの宮を「わたしの父の家」と呼ばれました。(歴代下 26:16,新。エズラ 3:8,新。ヨハネ 2:16,新)イスラエル人の用いた初期の幕屋や後代の建造物である宮は今日もはや存在していません。しかしはるかに輝かしい霊の宮がそれらに取って替わったのです。この宮に関してクリスチャンの使徒パウロはエペソの仲間の信者にこう告げました。「されば汝らはもはや,旅人また寄寓人にあらず,聖徒と同じ国人また神の家族なり。汝らは使徒と預言者との基の上に建てられたる者にして,キリスト・イエス自らその隅の首石たり。おのおのの建造物,かれにありて建て合せられ,いやましに聖なる宮,主のうちに成るなり。汝らもキリストにありてともに建てられ,御霊によりて神の御住となるなり」。(エペソ 2:19-22)この宮を構成する人々のうちには神の霊が住み,彼らは「活ける石」であり,建て合わされて「霊の家」となるのです。(ペテロ前 2:4,5。コリント前 3:16)この霊の宮を構成する人々はわずか14万4000人に限られており,そのうちのごく少数の残れる者が今日でも地上にいます。―黙示 7:4-8; 14:1-5。
5 地上の命の希望を持つ,エホバの賛美者は,宮級の人々とのいかなる交渉をも重視していることをどのように示していますか。
5 この霊の宮は,地方のエホバの証人の会衆と交わっているひとり,あるいはそれ以上の,イエス・キリストの油そそがれた追随者により代表されていると言うことができます。しかし今もなお地上に残っているこうした人々はごく少数であるため,ある地方の神のしもべたちの会衆は,地上の命の希望を持つ,エホバの献身した賛美者である。「大ぜいの群衆」だけで構成されています。彼らは黙示録の中で,神の王座の前に立ち,『昼も夜もその聖所にて神に仕えている』者として描写されています。(黙示 7:9,15)これらの人々は,この宮級の者たちとのいかなる交渉をも大いに重視し,このことを示すものとして,地上にいる油そゝがれたクリスチャンのすべてから成る一つの級,「忠実なさとい奴隷」と密接に協力しています。(マタイ 24:45-47,新)彼らは,キリストの「兄弟」すなわち油そゝがれた追随者たちに善を行なうゆえに,永遠の命をもって報われるでしょう。―マタイ 25:34-40,46。
貴重なものをもってエホバに誉れをもたらす
6,7 (イ)イスラエル人は幕屋や宮の造営のために寄付をする特権を差し伸べられたとき,どう答え応じましたか。(ロ)エホバのしもべたちは今,真の崇拝を支持する多くの機会にどんな仕方で答え応じますか。(ハ)こうして与える人が貧しくなりますか。
6 イスラエル人は金,銀,銅,羊毛,亜麻布その他を幕屋の造営のために寄付する特権にあずかりました。心から進んでそうしようとする人々は,それら『エホバにさゝげるもの』を喜んで出しました。事実,彼らはあまりにも多く出したので,寄付された資材は「エホバが為せと命じたまひし工事をなすに用ふるにあまりあ(る)」ほどになり,寄贈品を携えることを中止させねばなりませんでした。(出エジプト 35:4-9,20-29; 36:4-7)それから何世紀かたって,年老いたダビデは,エルサレムに建てられることになった将来の宮を喜ぶあまり,その造営のために金,銀,銅,鉄,色のついた小石,宝石など,おびただしい寄付をしました。しかしダビデはこう語りました。「わたしは,わたしの神の家を喜びとしており,わたしの特別な所有物である金や銀がほかにあるので,わたしはそれを神の家にさゝげ,その神聖な家のために備えたすべての物に加える」。こうして新たに膨大な量の金銀をさゝげたのです。そして仲間のイスラエル人は,そうした寄進をするように促され,惜しみなく寄付し,「彼らかく誠意よりみづから進んでエホバにささげたれば民はそのささぐるを喜べり ダビデ王もまた大に喜び」ました。―歴代上 29:1-9,新。
7 エホバのしもべたちは今日でも,真の崇拝のための建物を造る場合,同様の仕方で答え応じます。ものみの塔協会の本部やその支部の施設を拡張したり,会衆で新しい御国会館を建てたりする場合,そのいずれを問わずこうした企画を物質面で喜んで支持します。この点で彼らは,御国会館の建設に際してしばしば時間と労力とを費やし,個人的な助力を惜しみません。そしてエホバは彼らを繁栄させ,クリスチャンとしてさまざまな仕方で惜しみなく与えられるようにしてくださいます。(コリント後 9:8-12)神の国の事柄を推し進めるため,自分にできる範囲で寄付をして真の崇拝を支持する人が貧しくなることはありません。箴言 3章9,10節はこう述べているからです。「汝の貨財と汝がすべての産物の初生をもてエホバをあがめよ さらば汝の倉庫はみちてあまり汝の酒ぶねはあたらしき酒にてあふれん」。
8 エホバのしもべたちは,神の家をなおざりにしたいとは考えないゆえに,どんなことを行なってきましたか。
8 イスラエル人は,幕屋や後代の宮,それとともにそうした場所で行なわれる祭司やレビ人の奉仕を支持する特権にあずかりました。たとえばネヘミヤの時代のユダヤ人は,神の家をなおざりにすべきでないことを悟り,神の律法を守ること,および寄付をして,エホバの聖所における清い崇拝を維持することを決意しました。(ネヘミヤ 10:32-39)今日のエホバの証人は神の家をなおざりにしていません。ひとつには,彼らは自分たちの御国会館を維持し,また御国の良いたよりの伝道の仕事を促進させるため,自分にできる範囲で寄付をします。(マタイ 24:14。マルコ 13:10)しかもこのことを喜んで行ない,自分たちの神の家を喜んでいることを表わします。それとともに,パウロの次のことばに一致してそうするのです。「おのおのをしむことなく,しひてすることなく,その心に定めしごとくせよ。神は喜びて与ふる人を愛し給へばなり」― コリント後 9:7。
9 宮にかゝわるいくつかの事例からみて,御国会館の修理が必要な場合,どうすべきですか。
9 時の経過とともに,ソロモンの建てた宮は多少の修理を要するようになりました。その一例としてユダの王ヨアシの時代を上げることができます。当時,責任を持つ人々はすみやかに行動しませんでしたが,ついに聖所は修理されました。(列王下 12:4-15)後日,ユダの王ヨシアも「エホバの家」の修理に心を用いました。(列王下 22:3-7)現代の神のしもべたちは,会衆の御国会館の維持に心を配り,修理が必要であれば,時を移さず修理にとりかかり,誠実かつ熱心にそうした仕事をします。
10 クリスチャンは御国会館の資産をどうみなすべきですか。
10 時に宮は略奪に会いました。たとえばユダの王アマジヤの時代のこと,イスラエルの王ヨアシはエルサレムを襲い,「エホバの家と王の家の庫とにあるところの金銀およびもろもろの器をとり かつ人質をとりてサマリヤにかへ(り)」ました。(列王下 14:11-14)おそらくこのできごとは,今日のエホバのしもべが御国会館でその施設や備品を使用する際に注意を払わせるものとなるでしょう。会衆全体の所有物である物品を不当にも私用に供する罪を犯すことがあってはなりません。御国会館の資産は第一にエホバの所有物として,次に,その崇拝の場所を用いているクリスチャン会衆の所有物として尊重しなければなりません。また,バビロンの王ネブカデネザルがエホバの宮から貴重な器物を取り去り,その輝かしい建物を破壊したことを忘れないでください。(列王下 25:8-17)クリスチャンはたとえわずかにせよ,御国会館もしくはそこにある物品を悪用して,そのような異教の独裁者をまねるようなことを決してしてはなりません!
清さの必要
11,12 (イ)イスラエルの民や祭司は清さに関してどんな要求にかなわねばなりませんでしたか。(ロ)バビロンの捕われから解放されたユダヤ人はなぜ清くなければなりませんでしたか。(ハ)イザヤ書 52章11節はクリスチャンにあてはまりますか。
11 御国会館を清潔にし,良い状態に保つことで自分の分を果たすのは一つの特権です。そのうえエホバに仕えることを願う人に肝要なのは身体的また霊的な清さです。イスラエル人は肉体的また宗教的な清さに注意を払いました。たとえば身体上のある種の流出のために汚れた場合には,衣服やからだを洗う義務がありました。(レビ記 15章)身体上の清さと,儀式上の清さは同じ事柄ではありませんでした。前述のように,互いに関連している場合もあります。人間の排泄物の処理については衛生的な手段が講じられました。(申命 23:12-14)幕屋や後代の宮には大きな水盤が置かれており,祭司はその水を用いて洗いました。それでエホバの聖所で奉仕する際には,霊的にも肉体的にも清められていたのです。(出エジプト 30:17-21。歴代下 4:6)ユダヤ人がバビロン捕囚から(紀元前537年に)解放されるよりも前に,イザヤは霊感を受けて彼らにこう告げました。「なんぢら去れよされよ かしこをいでて汚れたるものにふるるなかれ その中をいでよ エホバの器をになふ者よ なんぢら潔くあれ」。(イザヤ 52:11)考えてみてください! 何年も前にネブカデネザルがエホバの宮から運び去った神聖な器物をエルサレムに運び戻す特権に彼らはあずかったのです。神はご自分に対する奉仕に不潔な人間をお用いにはなりませんから,確かにそれら神聖な器物はエホバの清い崇拝者によってのみ携えられねばなりませんでした。
12 使徒パウロはイザヤ書 52章11節の意味を詳しく説き,この句をクリスチャンにあてはめてこう書きました。「不信者とくびきを同じうすな,釣合はぬなり,義と不義と何のあづかりかあらん,光と暗と何の交際があらん,キリストとベリアルと何の調和かあらん,信者と不信者となんの関係かあらん。神の宮と偶像と何の一致かあらん,我らは活ける神の宮なり,すなはち神の言い給ひしがごとし。曰く『われ彼らのうちに住み,また歩まん。我かれらの神となり,彼らわが民とならん』と。このゆえに『〔エホバ〕いひ給ふ,汝らかれらのうちより出で,これを離れ,けがれたる者にさはるなかれと』」。(コリント後 6:14-17,〔新〕)解放された忠実な昔のユダヤ人の残れる者はバビロンから出てゆき,その偽りの偶像崇拝を離れて,その不浄による汚れをぬぐい去り,心を清めました。同様にクリスチャンは,世界にまたがる偽りの宗教帝国である大いなるバビロンを離れており,その不浄によって汚されてはいません。(黙示 18:1-8)彼らは自分たちの神エホバの家を喜び,霊と真理とをもって神を崇拝します,―ヨハネ 4:23,24。
13 パウロはどんな理由で,不道徳なひとりの男を会衆から追い出すようコリントのクリスチャンに求めましたか。
13 献身したクリスチャンはすべて道徳的また霊的な清さの必要を悟っていなければなりません。昔のコリントのクリスチャン会衆は会衆内のひとりの不道徳な男を大目に見ていたため,パウロは,その邪悪な人間を追い出して,彼を「肉の滅びのためにサタンに引き渡しなさい。主の日に霊が救われるためである」と,その地の仲間の信者に勧めなければなりませんでした。「少しのパン種がかたまり全体を発酵させる」ゆえに,そうした処置がその悪行者に対して取られねばならないことをパウロは知っていました。(コリント前 5:1-6,新)文字にしるされた神のみことばに基づく会衆の霊を救うには,彼を会衆から放逐することが必要だったのです。
14 (イ)クリスチャンはなぜりっぱな行状を保たねばなりませんか。(ロ)イエスの弟子たちはどんな資質によって見分けられますか。パウロはその資質をどのように定義しましたか。
14 クリスチャンがりっぱな行状を保つのは肝要なことです。(ペテロ前 2:12)その行ないは,その人の交わっている会衆に影響するからです。また,詩篇作者の次のことばを心にとめるのは有益なことです。「エホバよ なんぢの帷幄のうちにやどらん者はたれぞ なんぢの聖山にすまはんものはたれぞ 直くあゆみ 義をおこなひ そのこころに真実をいふものぞその人なる」。(詩 15:1,2)パウロの願いは,ピリピのクリスチャンが「イエス・キリストによる義の果をみたして,神の栄光とほまれとをあらは(す)」ことでした。(ピリピ 1:9-11)彼は,愛のほかには何をも人に負わないようにとローマの仲間の信者に勧め(ロマ 13:8),また霊感の下にコリントのクリスチャンにあてて手紙を書き,このすばらしい資質をみごとに要約し,愛は寛容であり,親切で,ねたむことがないと述べました。愛は誇らず,高ぶらず,不作法をせず,自分の利益を求めず,慣らず,恨みをいだかず,また不義を喜びません。愛は真理を喜び,すべてを忍び,すべてを信じ,すべてを望み,すべてを耐えます。「愛はいつまでも絶ゆること」がありません。(コリント前 13:4-8)イエス・キリストの弟子たちは,そのあいだに見られる愛によって見分けられます。(ヨハネ 13:34,35)そしてクリスチャンは,自分が神の霊の家を喜んでいること,また神の霊の家と,エホバ神との自分の関係とを大切にしていることを,敬虔な行ないすべてによって示します。
『いざエホバの家にゆかん』
15 イスラエル人は毎年行なわれるどんな祭りを祝うためにエホバの聖所に集まりましたか。そこに出席することからどんな益を得ましたか。
15 昔,エホバの聖所で他の人々とともに集まるのは,どんなに大きな喜びだったでしょう! イスラエル人は,種入れぬパンの祭り,刈り入れの祭り,そして取り入れの祭りを祝うため,年に3回そうする特権にあずかりました。(出エジプト 23:14-17)エルサレムに立つ宮が見えはじめると,群衆はこの町に近づくにつれ,期待の念のいよいよ高まるのを感じました。その都は海抜790メートル余の高所に位置していましたから,それは確かに「きよき山のうへにていたくほめたゝへられ」るべきものでした。(詩 48:1,2)宮では人々は,エホバのみことばの朗読を聞き,勤めを行なう祭司たちを見,エホバをたたえる歌をうたうレビ人の歌声やさまざまな楽器の音に耳を傾けることができたのです。昔の幕屋におけるさまざまな奉仕は霊的にもきわめて有益なものでした。ですから,ダビデが次のように叫んだのも不思議ではありません。「人われにむかひていざエホバのいへにゆかんといへるとき我よろこべり」― 詩 122:1。
16 クリスチャンは神のみことばの教えを受けるために集まるとき,どんな益にあずかれますか。
16 今日,クリスチャンは特定の幕屋や宮で年に3回集まるわけではありません。しかし毎週それぞれの御国会館に集まって聖書の研究や討議をし,またしばしば大会に集まります。そして神のみことばの教えを受けるために集まるとき,愛と良いわざとに関して互いに励まし合います。(ヘブル 10:24,25)彼らはこうした集会に出席して,19世紀前のアンテオケのクリスチャンと同様に励みを受けるのです。ルカはこう報告しています。「ユダとシラスは,預言者でもあったので,多くの話をして兄弟たちを励まし,かつ力づけた」。(使行 15:30-32,新)仲間の信者と交わる人はまた,自分を霊的にとぐことになります。ですから聖書はこう述べています。「鉄は鉄をとぐ かくのごとくその友の面をとぐなり」― 箴言 27:17。
17 クリスチャンの集会で話を聞いたり,質問に答えたりすることに関して,どんな助言が与えられていますか。
17 クリスチャンの集会から最大の益を得るため,集会を司会するしもべが質問をしたなら,よく考えてください。質問に関して注解をする際には,考えを自分のことばで表わすことに努めてください。聖書の出版物中の答えとなる箇所をそのまま読むだけではたいてい不十分です。その意味するところを理解することが大切です。ピリポが伝道したエチオピヤの宦官は,イザヤの預言を読んでいたのですから,それに関するある質問には答えることができたかもしれません。また,そこに述べられている事柄は読むことができました。しかしその中にしるされているメシヤに関する預言の意味は理解できませんでした。ピリポがその聖句からはじめて,「イエスの福音を宣伝(へ)」るまでは,深い意味はわからなかったのです。(使行 8:26-39)今日でも同様で,クリスチャンの集会で深く考え,他の人々の述べることばを注意深く聞く人は,聖書のむずかしい事柄を理解できるようになります。ゆえに,聖書の話や実演その他の仕方により,そうした集会で供給される知識に関して活発に論ずるのはなんと賢明なことでしょう。
18,19 内気なためクリスチャンの集会で考えを述べるのに困難を感ずる人にはどんな励みがありますか。
18 しかし注解する,つまり考えを述べるのに困難を感ずる人もいます。そのような人は内気で,どちらかといえば黙っており,他の人に話をさせます。ところが,このような人も,同じような気持ちをいだく他の人が霊的に進歩しているのを見て励みを得ます。パウロは愛の心からテモテにこう命じました。「神がわたしたちにくださったのは,憶病の霊ではなく,力と,愛と,健全な心との霊で……ある。ゆえに,わたしたちの主に関する証し……を恥しく思ってはならない」。(テモテ後 1:7,8,新)「わたしたちのために日ごとに荷を負われ」,「あなたの足がよろめくのを許されるはずがない」エホバは,クリスチャンの集会や他の場所であなたが信仰を言い表わすのを確かに助けてくださるでしょう。―詩 68:19,新; 121:3,新。
19 流暢に活せない人は多少モーセに似ています。エホバが彼を起用してイスラエル人をエジプトから解放しようとなさった時,モーセはこう言いました。「わが主よ 我はもとことばに敏き人にあらず 汝がしもべに語りたまへるにおよびてもなほしかり 我は口重く舌重き者なり」。しかしエホバは事情を正して,モーセにこう言われました。「我なんぢの口にありて汝の言ふべきことを教へん」。次に神はモーセの兄アロンをモーセに同行させるよう取りはからい,そしてモーセにこう保証されました。「我なんぢの口と彼の口にありて汝らのなすべき事を教へん」。(出エジプト 4:10-17)確かにアロンはモーセの代弁者として仕えましたが,モーセもひとりで相当話をしました。たとえば,アロンの死後,モーセは死ぬ少し前,イスラエル民族に何度か話しました。それらの話は聖書の申命記に収められています。(民数 20:22-29; 33:37,38。申命 10:6; 34:1-8)それでエホバに助けを求め,クリスチャンの集会で自分の信仰を言い表わしてください。これはあなたが神の家を喜んでいることを示す一つの方法です。ダビデは言いました。「われなんぢ[神]の名をわが兄弟にのべつたへ なんぢを会のなかにてほめたゝへん」。(詩 22:22)あなたも同じように感じられるなら,クリスチャンの集会であらゆる機会をとらえて討議にあずかり,そのことを示してください。
ひねもすエホバをほめたゝえなさい
20 神の家を喜ぶ人々は今どんな種類の犠牲をエホバにさゝげますか。なぜですか。
20 何世紀もの昔,ダビデはエホバについてこう叫びました。「われ日ごとに 汝をほめ世々かぎりなく聖名をほめたゝへん」。(詩 145:2)あなたもそのように感じられますか。もしそうであれば,いつもエホバをほめ,その御名をたゝえてください。イスラエル人は,神の家を喜んだ時,動物および収穫物両方のふさわしい犠牲を忠実にエホバにささげました。今日,神の家を喜ぶ人々は,それとは異なった種類の,御心にかなった犠牲をさゝげます。エホバをほめ,その御名をたたえたいと願うゆえにそうします。昔,身を誤ったイスラエルは次のように勧められました。「イスラエルよ汝の神エホバに帰れよ 汝は不義のために仆れたり 汝らことばをたづさへ来り エホバに帰りていへ もろもろの不義はゆるして善ところを受納たまへ かくて我らは唇をもて牛のごとくに汝にさゝげん」。(ホセア 14:1,2)エホバのしもべたちは今や『彼らの唇をもて牛のごとくに』さゝげ,次の勧めのことばに心を用います。「わたしたちは常に,〔イエス・キリスト〕を通して賛美の犠牲を神にささげよう。すなわち,神の御名を公に宣明するくちびるの実である」。(ヘブル 13:15,新)御国の伝道と教える仕事の場合のように,彼らは喜んでことばを出してエホバを賛美します。こうした賛美のことばを定期的にエホバにさゝげ,神の家に対する喜びを表わして下さい。
21 では,人はどんな方法で,自分が神の家を喜ぶ者であることを示せますか。
21 物質で作った壮麗なエホバの幕屋や宮はもはや地上のどこにも存在しませんが,それよりもさらに輝かしい霊の宮をあなたが喜んでいることを示してください。そして霊の宮級の人々と十分に協力してください。また,貴重なものをもってエホバに誉れをもたらし,霊的な清さを保ち,クリスチャンの集会に出席し,かつ参加し,喜びをもってひねもすエホバを賛美しましょう。そうすることにより,神の家に対するあなたの喜びを引き続き明らかにしてください。ダビデは次のように言明しましたが,エホバとその崇拝そして神の家に対し,ダビデと同じ心構えをもってください。ダビデはこう言いました。「われひとつのことをエホバにこへり 我これをもとむ われエホバの美しきを仰ぎ その宮をみんがためにわが世にあらんかぎりはエホバの家にすまんとこそ願ふなれ」― 詩 27:4。
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神の民は,ともに集まって,愛と良いわざに励まし合うことを喜びとしています。こうして霊的な面で鋭敏になります