その2 ― クリスチャン・ギリシャ語聖書から得られる霊的な宝
新しい「参照資料付き聖書」
「ものみの塔」誌の1985年11月1日号では,1985年版の「新世界訳聖書 ― 参照資料付き」の内容が扱われました。そして,聖書の家令職という自分たちに与えられた務めに対して忠節な,エホバの油そそがれた残りの者が,この出版物の中で,聖書の忠実な翻訳に加え,世界的規模の霊的教育計画において用いるための付加的な参照資料を提供していることが示されました。その最初の記事は主にヘブライ語聖書の部分を扱っていました。この二番目の記事では,「参照資料付き聖書」がクリスチャン・ギリシャ語聖書の部分で,えり抜きの霊的な宝をさらにどのように提供しているかを考慮します。
「参照資料付き聖書」の序文(7ページ,第1欄,4節)には次のように述べられています。「原語の表現の持つ平明さ,情感,風格,また力強さなどをとらえるために,ヘブライ語およびギリシャ語の動詞の訳出に当たっては特別の注意が払われています。古代ヘブライ語やギリシャ語の時制の持つ趣,人々の考え方,推論の仕方,話し方,また他の人々との接し方などをそのまま伝える努力がなされました」。この点を実際に見てみることにしましょう。
継続的な行為を表わす動詞
クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちは言葉の選択に細心の注意を払いました。そのことはイエスの山上の垂訓の記述に示されています。原文の中では,継続的な行為を表わす動詞形が幾度か用いられており,この翻訳の中ではそれが忠実に表現されています。例えばマタイ 6章33節で,「新世界訳」はその冒頭の言葉を,「ですから,王国……をいつも第一に求めなさい」と訳出しています。この節に対する脚注は,これに代わる訳し方を挙げてこう述べています。「または,『求めていなさい』。……動詞のこの形は継続的な行為を示唆している」。
他の聖書翻訳の大半はこの動詞の継続的な側面を無視しています。例えば,「文語訳聖書」はこの箇所を,『まづ神の国……を求めよ』と訳出しています。しかし,そのような翻訳はイエスの諭しの厳密な意味をとらえ損なっています。イエスは,わたしたちが王国を1度か2度求めなければならず,次いで他の事柄へ移るようにという意味でこの言葉を述べておられたのではありません。むしろ,わたしたちはそれを継続的に求めなければならないのです。王国はわたしたちの生活の中で常に第一にされなければなりません。
マタイ 7章7節でイエスはこの継続的な形をその一節の中で3度用い,意味を強調されました。「求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます」。聖書のこのような注意深い訳し方は,一貫性という輝きできらめく真理の宝を差し伸べています。
否定形の巧みな用い方
聖書筆者たちは否定形を巧みに用いました。山上の垂訓の中でイエスがさらにお与えになった諭しが,「新世界訳」の中で注意深く訳出されていることに注目してください。マタイ 6章16節には,「断食をしているときには,偽善者たちのように悲しげな顔をするのをやめなさい」と,イエスの言われたことが記録されています。他のほとんどの翻訳はこの表現を単純な否定形に訳出しています。『なんぢら断食するとき,偽善者のごとく,悲しき面容をすな』。(文語訳)この訳し方は,『悲しげな面容をし始めてはいけない』ということを示唆しています。しかし,聖書筆者はここで,現在(継続的)時制で否定の命令形を用いました。ギリシャ語でそれには明確な意味があります。すなわち,その行動は現在行なわれており,終えられなければならないという意味です。「新世界訳」は他のほとんどの翻訳が無視しているこの細かな点に注目しています。そのような注意深い翻訳のそのほかの幾つかの例に注目してください。「あなた方は自分のために……宝を蓄えるのをやめなさい」。(マタイ 6:19)「自分が裁かれないために,人を裁くのをやめなさい」― マタイ 7:1。
否定形の問題を扱うに当たって,聖書筆者たちがアオリスト時制を使っている箇所での否定の命令形の用法に注目してください。ギリシャ語でこの時制は,問題になっている行動がどの瞬間にも,どんな時にも禁じられていることを示しています。それでイエスはご自分の話を聞く人々にこうお告げになりました。「それで,次の日のことを決して思い煩ってはなりません[すなわち,どの瞬間にも思い煩ってはならない]」。(マタイ 6:34)ここでも,大抵の翻訳は,「思いわずらうな」というような単純な否定形を使っています。(口語訳)しかし,そのような翻訳では原文の持つ力強さが十分に伝わってきません。これは注意深い翻訳がもたらす宝の一つです。
クリスチャンとしての活動に参加する
「参照資料付き聖書」の脚注には動詞の別の訳し方が挙げられていますが,これにより,聖書の一節の新たな意味合いが明らかになることも少なくありません。例えば,フィリピ 1章27節にある「ただ,キリストについての良いたよりにふさわしく行動しなさい」という,フィリピ人へのパウロの諭しを取り上げてみましょう。これは他の翻訳に見られる訳し方とあまり変わりません。例えば,新国際訳は,「キリストの福音にふさわしく振る舞いなさい」と訳しています。また,新英訳聖書は,「あなたの振る舞いがキリストの福音にふさわしいものであるようにしなさい」と述べています。しかし,「参照資料付き聖書」には,「行動しなさい」という語に対する脚注があり,その諭しがフィリピ人にとってどんなことを意味したかについてずっと深い理解の扉が開かれます。その脚注は,「ふさわしく行動しなさい」という語の別の訳し方として,「または,『ふさわしく市民として行動しなさい』」という訳を挙げています。
ここで「行動しなさい」と訳されているギリシャ語の言葉は,「市民」を意味する語に由来しています。フィリピ人は良いたよりの宣明に,「市民」として参加するようにと言われたのです。ここで覚えておかなければならないのは,ローマ市民が概して国事に積極的に参加したことです。また,ローマの市民権は高く評価されていました。フィリピの場合のように,イタリア外の諸都市では市の住民がローマ政府から市民権を授与されていたため,特にそうでした。ですから,「参照資料付き聖書」の脚注がわたしたちの理解を助けているように,パウロはここでクリスチャンが不活発で,単なる名目だけのクリスチャンになってはならないことを告げていたのです。クリスチャンはやはりクリスチャンとしての活動に参加し,それによって自らが良いたよりにふさわしいことを証明しなければなりません。このより深い理解は,「わたしたちについて言えば,わたしたちの市民権は天にあり……ます」というフィリピ人に宛てたパウロの後の言葉と調和しています。―フィリピ 3:20。
アブラハムはイサクを「ささげようとした」
すでに見たように,ギリシャ語の動詞を日本語に注意深く訳出すると,より明快な理解が得られます。ヘブライ 11章17節にある重要な聖句について考えてみてください。文語訳聖書はこの節を次のように訳出しています。『アブラハムは試みられし時イサクを献げたり,彼は……その独子を献げたり』。この訳し方からすると,『献げたり』という動詞がギリシャ語でどちらの場合にも同じ仕方で現われたように思えます。
ところが,これら2か所に現われるギリシャ語動詞の形は異なっています。最初に現われる『献げたり』という動詞は完了(完結した)時制であるのに対し,2番目の『献げたり』は未完了(過去における継続)形になっています。ギリシャ語でこれらの動詞の時制には幾つもの微妙な意味合いがあり,「新世界訳」はこの聖句を次のように訳出してその意味合いを出そうとしています。「アブラハムは,試された時,イサクをささげたも同然でした。……自分の独り子をささげようとしたのです」。この動詞が最初に出てくる所には脚注があり,そこには,「または,『アブラハムは,試みられた時,イサクを(いわば)ささげました』」という別の訳し方が載せられています。また,2番目の動詞に対する脚注は,未完了形のこの動詞を表現することのできる2番目の方法として,「または,『ささげることに取りかかった』」という訳し方を挙げています。ですから,この節は「独り子をささげることに取りかかったのです」と訳出することもできます。このようにして,このギリシャ語動詞はその行動が意図された,あるいは試みられたものの,完遂されはしなかったということを示しています。これは実際に起きた事柄と調和しています。―創世記 22:9-14。
『その間にあった……壁』
「参照資料付き聖書」の脚注はまた,聖書に関する学問の他の文献から取られた有益な情報をも提供しています。例えば,エフェソス 2章14節でパウロの用いた,『その間にあった……壁』という言葉を考慮してみましょう。「参照資料付き聖書」の脚注は次のようになっています。「神殿境内にあったもので,神聖なものとはされていない異邦人の崇拝者たちを隔てて,神聖なものとされていたユダヤ人の崇拝者だけに開かれていた奥の中庭に入ることを阻んでいた壁を指す。ミシュナ(ダンビーの訳,1950年,592ページ)によると,その石の障壁は『ソーレグ』と呼ばれた。この壁は高さ1.3㍍であったと言われている。付録9ヘ参照」。
パウロはエフェソス 2章14節の文脈の中で,『その間にあった……壁』,すなわちイエスの時代のヘロデの神殿にあったソーレグが,モーセを通して締結された律法契約によってユダヤ人と異邦人との間にかつて存在していた法的な隔てを表わしていたことを見事に論じています。しかしこの手紙が書かれた時点で,両者を分け隔てるこの壁,すなわち律法契約は,神聖なものとする力を備え,異邦人をも清めるキリストの犠牲により取り除かれていました。(コロサイ 2:13-15)信者になった異邦人がクリスチャンのユダヤ人の会衆に加わるようになった西暦36年以来,そのような異邦人は霊的な「神のイスラエル」の一部として油そそがれ,神聖にされた者になりました。(ガラテア 6:16)今や清められたそれら異邦人も,神殿の奥の中庭を歩んでいた人々の予表していた,天的な聖なる所級の一部でした。異邦人のクリスチャンはもはや,異邦人の中庭として知られた外の中庭に押しとどめられることによってエホバに対する自分たちの関係において不利な条件を負うことはなくなりました。
良いたよりを「家から家へと」宣明する
全世界的な規模で行なわれている効果的な家から家への宣べ伝える業のゆえに,エホバの証人を批判してきた人は少なくありません。しかし,使徒と初期のクリスチャンたちの残したはっきりとした型があるのです。使徒 5章42節には,それらの人々の活動について,「彼らは毎日神殿で,また家から家へとたゆみなく教え,……良いたよりを宣明し続けた」と書かれています。
「参照資料付き聖書」の脚注には,「家から家へと」という句についての注解が載っています。そこにはこう書かれています。「字義,『家ごとに』。ギ[リシャ]語,カト オイコン。ここで『カタ』は対格単数形を伴い,配分的な意味で用いられている。R・C・H・レンスキは自著,『使徒行伝の注釈』(米国,ミネアポリス,1961年)の中で,使徒 5:42に関して次の注解を加えている; 『使徒たちは一瞬といえ,その祝福された業をやめることはなかった。彼らは「毎日」それを行ない,しかもそれを,サンヘドリンや神殿警察が見聞きできる「神殿で」公然と,そして言うまでもなく,[カト オイコン]にも行なった。これは配分的な,「家から家へ」の意味であって,単に副詞的な,「家で」の意味ではない』」。
有用な欄外参照
聖書を読んでいると,聖書筆者が聖書の別の箇所からある聖句を引用していたり,聖書の別の聖句に言及したりしている箇所にしばしば遭遇します。そのような場合に,「参照資料付き聖書」は非常に有用なものとなり得ます。その欄外参照のシステムにより,研究者は同じ事柄が扱われている他の箇所に目を向けるよう促されます。
マタイ 4章3節から11節に記録されている,敵対者サタンとのイエスの対決について考えてみましょう。4節の中で,イエスはサタンの最初の誘惑に対して,「『人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない』と書いてあります」と述べて反論されました。欄外参照は,イエスがここでわたしたちの持つ聖書の申命記 8章3節にある聖句を引き合いに出していたことを示しています。サタンはイエスに対して2番目の誘惑を提起し,「『神はあなたに関してご自分の使いたちに指図を与え,彼らはその手に載せてあなたを運び,あなたが石に足を打ちつけることのないようにする』と書いてあります」と主張して,自分の誘惑の言葉を裏づけようとしました。サタンはこの言葉をどこで見つけたのでしょうか。欄外参照によると,研究者は詩編 91編11節と12節に注意を向けるよう促されます。確かに,サタンは聖句を引き合いに出して,「光の使い」のように行動していました。(コリント第二 11:14)イエスはそれに対して,「『あなたの神エホバを試みてはならない』とも書いてあります」とお答えになりました。これもやはり聖書からの引用でしたが,正しく適用されていました。その聖句は,どこから引用されていたのでしょうか。欄外参照は申命記 6章16節にわたしたちの注意を向けています。3度目に誘惑された時,イエスは再び聖句を引き合いに出されました。どこからでしょうか。欄外参照によると,申命記 6章13節からです。「参照資料付き聖書」にある12万5,000の欄外参照には,ほかにも同様の有用な機能の数々があります。
こうした実例から,新しい「参照資料付き聖書」が,「新世界訳」による霊的真理の数多くの正確な訳し方を明らかにすることにより,「新世界訳」の美しさを際立たせていることがお分かりになるでしょう。