1「デナリ」を感謝して使う
「そこで五時ごろに雇われた人々がきて,それぞれ一デナリずつもらった」― マタイ 20:9。
1 1919年以来,「デナリ」を感謝して使ってきたのはだれですか。このことはどんな預言的法則と一致していましたか。
この貴重な「デナリ」を感謝して使ってきたのはだれですか。それはキリスト教国の第一級の宗教指導者が「あとの者」とみなす人々です! 1919年以来のたしかな記録がこれを示しています。このことは一般の予想と反するものでしたが,昔,預言的に定められた法則にまったく一致していました。「このように,あとの者は先になり,先の者はあとになるであろう」― マタイ 20:16。
2 今日起きたことのひな型はどこにありますか。そのひな型を調べることは,今日の出来事にこの法則が示されていることを理解するのにどう役だちますか。
2 今日起きた事のひな型は1900年前のできごとの中に見られます。そのときのできごとは,先の者とあとの者の立場が逆になるという右の法則を示すものでした。それはまた,この預言的な法則をふたたび示す今日の出来事をあらかじめ表わすものでした。したがって,この法則が初めどのように働いたかを調べるなら,不思議と驚きの多い今の時代に起きた出来事にこの法則がふたたび示されているのを理解するのに役だちます。そしてわたしたちは,法則どおりだれの立場が逆転したかを見ることができます。それでこれから歴史のページをひもときましょう。
3,4 (イ)ペレアでイエスのもとに走り寄ってきた金持ちの若い支配者にはどんな問題がありましたか。(ロ)よいことについてイエスは何と言われましたか。イエスは若者にどの戒めを守るように命じましたか。
3 西暦33年のユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づいていました。神の国の偉大な伝道者イエス・キリストは祭りのためエルサレムに上る途中,ヨルダン川の東岸,ペレア地方にいました。一人の若者がイエスのもとに走り寄ってきました。彼は資産家であり,ユダヤ人の支配者でもありました。このような身分にあっただけでなく,イスラエル国民に対する神の律法契約の規定を良心的に守っていた彼は,国民の中で先の者または第一の者の一人とみなされました。彼はどんな問題があったのですか。彼はイエスに言いました。「先生,永遠の生命を得るためには,どんなよいことをしたらいいでしょうか」。これに答えたイエスは,神が善と寛大の権化であることを示しました。イエスは若い支配者に言いました。「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである」。イエスはエホバ神のことを言われました。
4 金持ちの若い支配者に良いかたがだれであるかを思い出させたのち,イエスはことばを続けて言われました。「もし命に入りたいと思うなら,いましめを守りなさい」。金持ちの若い支配者はイエスに尋ねました。「どのいましめですか」。ここでイエスは,預言者モーセをとおしてイスラエル国民に与えられた十戒に言及されました。「殺すな,姦淫するな,盗むな,偽証を立てるな,父と母とを敬え。また自分を愛するように,あなたの隣り人を愛せよ」。
5 イエスのことばに従えば,若者はどうすれば完全になれましたか。
5 金持ちの若い支配者は答えました。「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。イエスは,律法を守ろうとする若者の努力のすべても,まだ人間として完全でないことを示して言われました。「もしあなたが完全になりたいと思うなら,帰ってあなたの持ち物を売り払い,貧しい人々に施しなさい。そうすれば,天に宝を持つようになろう。そして,わたしに従ってきなさい」。返礼のできない貧しい人々に自分の資産を分け与え,そののちイエスのもとに来て弟子になりなさいというのです。人の尊敬を受ける金持ち,ユダヤ人のうち第一級の者,というこれまでの身分とは逆に,一般にさげすまれるイエスの,物質的に貧しい弟子となることが必要でした。
6 これに対する若者の答えを聞いたイエスは,富んでいる者について何と言われましたか。
6 イエスのことばどおり完全になるためとはいえ,それは高すぎる犠牲でした。「この言葉を聞いて,青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。それからイエスは弟子たちに言われた。『よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは,むずかしいものである。また,あなたがたに言うが,富んでいる者が神の国にはいるよりは,らくだが針の穴を通る方が,もっとやさしい』」。
7 これに対し,弟子は何と尋ねましたか。神の国にはいる見込みについてイエスは何と答えられましたか。
7 この金持ちの若い支配者のように律法をよく守る,国の第一級の人物が神の国にはいれないなら,ほかのだれがはいれますか。まして,以前漁師であったシモン・ペテロなどイエスの12使徒のように,平凡で,ありふれた者たちはどうですか。その場の者たちが驚いたのも無理はありません。「弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った,『ではだれが救われることができるのだろう』。イエスは彼らを見つめて言われた,『人にはそれはできないが,神にはなんでもできない事はない』」。これは一つには神が全能者であられるためですが,もう一つには,神がよいかたであり,寛大で愛のあるかたであられるからです。
8 イエスに従うためすべてを捨てた者は何を受けるとイエスは言われましたか。その時イエスはどんな法則を語られましたか。
8 金持ちの若い支配者はすべての資産をあとに残してイエスに従い,弟子となることを断わりましたが,シモン・ペテロおよびほかの使徒はそれを行ない,すでにイエスの弟子としていくらかの経験をしていました。しかし最終的にはどうなるのですか。シモン・ペテロはそれを知ろうとしました。「そのとき,ペテロがイエスに答えて言った,『ごらんなさい,わたしたちはいっさいを捨てて,あなたに従いました。ついては,何がいただけるでしょうか』。イエスは彼らに言われた,『よく聞いておくがよい。世が改まって,人の子がその栄光の座につく時には,わたしに従ってきたあなたがたもまた,十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。おおよそ,わたしの名のために,家,兄弟,姉妹,父,母,子,もしくは畑を捨てた者は,その幾倍もを受け,また永遠の生命を受けつぐであろう。しかし,多くの先の者はあとになり,あとの者は先になるであろう』」― マタイ 19:16-30。マルコ 10:17-31。ルカ 18:18-30。
9,10 (イ)金持ちの若い支配者にこの法則はどのようにあてはまりましたか。(ロ)イエスの弟子にこの法則はどうあてはまりますか。
9 ここに前述の預言的な法則が次の観点から適用されています。金持ちの若い支配者はユダヤ人の中で第一級の人物でした。そのうえ彼は,イスラエル国民が神と結んだ律法契約に含まれる神の戒めを忠実に守っていました。それゆえ彼は非常に有望な若者であり,その前途に多くのことを期待できました。
10 しかし彼が律法を守っていたのは,それによって自分を正当化し,正しいユダヤ人としての功績をたてるためでした。彼は物質主義的でもありました。そのような状況であれば,彼が神の国にはいり,イエス・キリストと共に位についてイスラエルの十二部族をさばくより,らくだがぬい針の穴を通るほうが容易でした。これと逆に,独善的なユダヤ人から見るなら,ペテロや仲間の弟子は,神の国で位につくという点でとうてい望みのない者でした。しかし,威勢を張るユダヤ教のパリサイ人が「アムハエレッツ」と呼ぶ,地の民であったとは言え,イエス・キリストの弟子は,第一の地位つまり神の国の位に座すでしょう。それはきたるべき事物の制度においてです。それだけでなく,今の時代においても彼らは自分の捨てたものの百倍を迫害と共に受けます。(マルコ 10:29,30。ルカ 18:29,30)著しい逆転ではありませんか。
11 イエスは自分の述べた法則と何を結びつけましたか。最後にその法則をくり返されたのはなぜですか。
11 ところで,「多くの先の者はあとになり,あとの者は先になるであろう」と言われたイエスは,このようなことを意味していましたか。そうです。そのすぐあとで,イエスはこの預言的な法則を一つのたとえ話で説明されました。彼はその話を「なぜなら」という接続詞で始め,あらかじめ述べた法則とそのたとえ話とを結びつけています。イエスは言われました。「[なぜなら,欽定訳]天国は,ある家の主人が,自分のぶどう園に労働者を雇うために,夜が明けると同時に,出かけて行くようなものである。彼は労働者たちと一日一デナリの約束をして,彼らをぶどう園に送った」。(マタイ 20:1,2)このたとえが先の預言的な法則を説明するためのものであったことは,イエスがたとえ話の結びに,「このように,あとの者はさきになり,さきの者はあとになるであろう」ということばを加えられたことによって確証されます。―マタイ 20:16。
12 イエスのたとえが弟子たちに無意味でなかったのはなぜですか。
12 ぶどう園のたとえはその時の事情とイエス・キリストの経験とから出たものですから,その意味する出来事は,聞いていた12使徒の時代に現実に起きていたはずです。さもなければ,使徒たちにとってそのたとえは意味がなく,使徒たちはイエスがたとえで説明された法則を自分にあてはめて考えることができなかったでしょう。それでは,イエスのたとえにしたがえば,その法則はどのように実現していましたか。
「ぶどう園」
13,14 (イ)たとえ話の「家あるじ」はだれですか。ぶどう園は何でしたか。(ロ)ぶどう園が何をさすかについて,イエスはイザヤのどんな預言を心に留めていたと考えられますか。
13 ぶどう園のたとえの中で,「家あるじ」は象徴的な大ぶどう園の所有者であるエホバ神をさしています。ぶどう園はイスラエル国民です。当時イスラエル国民全体は,紀元前1513年にシナイ山で預言者モーセを仲立ちとして立てられた律法契約により,エホバ神と契約関係にはいっていました。
14 この象徴的なぶどう園について語られたイエスは,イザヤ書 5章1-4,7節のエホバ神のことばを心に留めておられたに違いありません。「わたしはわが愛する者のために,そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に,一つのぶどう畑をもっていた。彼はそれを掘りおこし,石を除き,それに良いぶどうを植え,その中に物見やぐらを建て,またその中に酒ぶねを掘り,良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ……それで,エルサレムに住む者とユダの人々よ,どうか,わたしとぶどう畑との間をさばけ。わたしが,ぶどう畑になした事のほかに,何かなすべきことがあるか……万軍〔エホバ〕のぶどう畑はイスラエルの家であり,主が喜んでそこに植えられた物は,ユダの人々である」,〔文語〕。
15 (イ)エホバはエジプトから携え出したぶどうの木をどこに植えられましたか。(ロ)ローマの「ペニー」(デナリ貨)はどうして流通するようになりましたか。当時それにはどれだけの価値がありましたか。
15 イエスはまた,詩篇 80篇8-11節をも心に留めておられたでしょう。その中で詩篇作者アサフは,イスラエル国民をエジプトのくびきから解放したエホバ神に語りかけています。「あなたは,ぶどうの木をエジプトから携え出し,もろもろの国民を追い出して,これを[パレスチナに]植えられました。山々はその影でおおわれ,神の香柏はその枝でおおわれました。これはその枝を海にまでのべ,その若枝を大川[ユーフラテス]にまでのべました」。イエス時代のユダヤ人は神から与えられた土地にまだ住んでいましたが,ローマ帝国に服属していました。それでローマの「ペニー」つまり(字義的には)デナリ銀貨が国内に流通し始めていました。デナリ貨一つはジェームス1世時代の英国貨幣になおせば8ペンス2ファージングスにあたり,米国貨になおせば17セントに相当します。イエス時代にこれはかなりの金額であり,一日12時間の労働に対する賃銀として支払われました。したがって,イエスのたとえ話の現実の意味において,「デナリ」は少なからぬ価値を表わしていました。
16 エホバ神の実りの良いぶどう園として仕えるなら,どんな報酬を得るはずでしたか。
16 エホバ神は,預言者モーセを仲立ちとしてイスラエルと律法契約を結び,人々にそれぞれの務めを定めることによって,ご自分のぶどう園に労働者を入れられました。至高の神の実りの良いぶどう園として仕えるなら,報いとして何を得ますか。イエス時代のユダヤ人の先祖にこの律法契約を提出された時,エホバ神ご自身がそれをこう言われました。「それで,もしあなたがたが,まことにわたしの声に聞き従い,わたしの契約を守るならば,あなたがたはすべての民にまさって,わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり,また聖なる民となるであろう」。(出エジプト 19:5,6)それで,律法契約を守るなら,ユダヤ人は人間として永遠の命を得るだけでなく,残る全人類を祝福するため神が用いる「祭司の国」となるはずでした。
17 (イ)イエスは律法契約とどんな関係にありましたか。また律法によりどのような者であることが示されましたか。(ロ)イエスが自分の天の父をぶどう園の農夫になぞらえたのはなぜ適切でしたか。
17 天から来た神の子イエスは律法契約のもと,ユダヤ国民の中に生まれました。彼は律法契約を完全に守った唯一のユダヤ人でした。それでイエスは,他のユダヤ人すべてと異なり,その契約の律法による罪の定めを受けず,むしろその律法により全く罪のない完全な人,永遠の命の権利を保つ者であることが示されました。律法契約を完全に守ったイエスは地上で王また祭司となる資格がありました。生まれながらに,エホバ神の植えられた「ぶどう園」であるユダヤ国民に所属していたイエスが,自分の天の父エホバ神をぶどう園の農夫になぞらえたのは非常に適切でした。イエスは使徒に言われました。「わたしはまことのぶどうの木,わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは,父がすべてこれをとりのぞき,実を結ぶものは,もっと豊かに実らせるために,手入れしてこれをきれいになさるのである。わたしはぶどうの木,あなたがたはその枝である」。(ヨハネ 15:1,2,5)しかし,律法契約下にいた不完全なユダヤ人と異なり,イエスとその「枝」は,大いなる農夫エホバ神の栄光のため豊かに実を結ぶ霊的なぶどうの木でした。
18-20 (イ)「ぶどう園」に最初に雇われたのはモーセ時代の人ですか。それともどの時代の人ですか。(ロ)最初に雇われた者の中にどんな人々がいますか。彼らが自らを「先の」者とみなしていたことはイエスのどんなことばにうかがえますか。
18 イエス時代のユダヤ人は生まれつき律法契約下におかれていました。エホバ神によりエジプトから導き出され,パレスチナの地に植えられた者たちの子孫だったからです。イエスのぶどう園のたとえは12使徒の時代に最初の成就を見ており,モーセを仲立ちに直接律法契約を結んだ昔の先祖にあてはまりません。したがって,大いなる家あるじが「ぶどう園」で12時間働かせるため「朝早く」雇った人々は,紀元前16世紀の,ユダヤ人の先祖ではありません。夜明け,つまり朝6時ごろに雇われた労働者は,使徒時代のユダヤ人を表わしていました。
19 これらの者が一日12時間の労働者であることは,ペテロ,アンデレ,ヤコブ,ヨハネなど西暦30年春まで漁師であった使徒と異なり,神のことに全時間働く者であることを表わすと思われます。それで,これら全日労働者はイスラエル国民の中の宗教指導者をさしています。その中には大祭司アンナスとカヤパ,下位の祭司や宮のレビ人,公式の書記,パリサイ派やサドカイ派の人々,モーセの律法に精通した者などが含まれています。イスラエルにおいてユダヤ教の奉仕に常に携わっていたゆえ,彼らは初めに雇われた者です。彼らはまた一流また第一級の国民でもあったでしょう。彼らが自らをそのようにみなしたことはイエスのことばに示されています。
20 「律法学者とパリサイ人とは,モーセの座にすわっている。(彼らは)宴会の上座,会堂の上席を好み,広場であいさつされることや,人々から先生と呼ばれることを好んでいる」― マタイ 23:2,6,7。
21,22 (イ)それでは,部分時間の働き人はだれですか。(ロ)部分時間の働き人の受ける賃銀が不明であったことはイエスのたとえ話にどう示されていますか。
21 彼らは満一日の働きに対し全額の賃銀を期待していました。彼らはその条件でエホバのぶどうの園つまりイスラエル国民に奉仕することに同意していました。彼らのあとに,つまり全時間の働き人より低い立場でエホバの奉仕にはいった残りの者はすべて部分時間の働き人です。したがって彼らが全額の賃銀を受けるかどうかは明らかでありません。それでイエスはぶどう園のたとえの中で,家あるじについて言われました。
22 「それから九時〔第三時〕ごろに出て行って,他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして,その人たちに言った,『あなたがたも,ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。そこで,彼らは出かけて行った。主人はまた,十二時〔第六時〕ごろと三時〔第九時〕ごろとに出て行って,同じようにした。五時〔第十一時〕ごろまた出て行くと,まだ立っている人々を見たので,彼らに言った,『なぜ,何もしないで,一日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので,その人々に言った『あなたがたも,ぶどう園に行きなさい』」― マタイ 20:3-7,〔新世訳〕。
あとの,もしくは「第十一時」の労働者
23 第11時の労働者はだれですか。それ以前にだれも彼らを雇わなかったのはなぜですか。
23 第11時つまり午後5時ごろ(日没の1時間前)に雇われたのは最後に雇われた者です。これら第11時の労働者によって表わされる者たちは,イスラエル国民の宗教指導者により,神がご自分の奉仕に用いる最後の者とみなされていました。彼らは神の奉仕に招かれる見込みのいちばん少ない者でした。それで,第11時に至るまで,イスラエルの宗教指導者に関するかぎり,『だれも彼らを雇いません』でした。これら身分の低い人々に対する宗教指導者の軽べつ的な態度はそのことばに表われています。「役人たちやパリサイ人たちの中で,ひとりでも彼〔イエス〕を信じた者があっただろうか。律法をわきまえないこの群衆は,のろわれている」。(ヨハネ 7:48,49)これらの人々は神に仕えて働きたいと思っていました。しかし盲目的な宗教指導者のゆえに彼らは何をすべきかを知らず,仕事をあてがわれていませんでした。一日をほとんどむだに過ごした彼らは,だれかが来て,神の奉仕に用い,神の宗教上の「ぶどう園」での奉仕に割り当ててくれるのを待たねばなりませんでした。
24,25 (イ)大いなる家あるじはいつ,どのように第11時の労働者を奉仕に招きましたか。(ロ)労働者を「ぶどう園」につかわすのに神の家令はどのように用いられましたか。彼らはどれくらいの間そこで働きましたか。
24 モーセの律法契約下にあるイスラエルのぶどう園で働く日は終わりに近づいていました。大いなる家あるじ,またぶどう園の所有者であられるエホバ神はそのことを知り,イスラエルに代理者をつかわして,第11時の労働者をご自分の「ぶどう園」での奉仕に呼び入れられました。西暦29年春,神は「整えられた民を〔エホバ〕に備える」ため,浸礼者ヨハネをつかわされました。(ルカ 1:13-17,〔新世訳〕)約6ヵ月後,大いなる家あるじは御子イエスをつかわしました。このイエスは家令,もしくは働き人のかしら,神の「ぶどう園」の「管理人」となりました。
25 イエスは浸礼者ヨハネの集めた弟子を受けつぎ,さらにご自身でも弟子を集め,それらをイスラエル人の「ぶどう園」での仕事につかせました。たとえば,イエス・キリストは12使徒だけでなく,70人の福音伝道者をも「ぶどう園」の作業に派遣されました。イエスは彼らすべてに,神の天の御国について伝道することを教え,人々に「神の国はあなたがたに近づいた」と言わせました。(ルカ 9:1-6; 10:1-11)女たちさえイエスや使徒たちの伝道に加わり,「自分たちの持ち物をもって一行に奉仕し」ました。(ルカ 8:1-3)こうして彼らは,割礼のある生来のイスラエル国民がまだエホバ神の「ぶどう園」であった時代に,エホバの御国奉仕にいくらかの時間を費やしました。彼らは所有者により最後に雇われたぶどう園労働者であり,西暦33年のイエスの死の時までイスラエルで働きました。
26 神の律法どおり,一日の仕事の終わりになにをする時が来ましたか。何部分時間の労働者はせいぜいどれだけの賃銀を受けるはずですか。
26 一日12時間の作業が終わるように,生来のイスラエルの「ぶどう園」における律法契約下の仕事は終わりました。そして労働者に賃銀を払う時が来ました。一般民の日用の費えをまかなうため,古いモーセの契約下の神の律法では,週や月の終わりでなく,一日の終わりにその日の賃銀を払うことが定められていました。(レビ 19:13。申命 24:15)全時間つまり日中12時間「ぶどう園」で働いた者は,家あるじとの約束どおり,必ず「デナリ」一つを受けるはずです。あとから来た部分時間の働き人は何を得ますか。何を得るにしても,家あるじが第3時に雇った者に告げたとおり,それは「相当な賃銀」です。普通なら,一日の12分の1だけ雇われた労働者はごくわずかの賃銀しか期待できません。
27 たとえ話の働き人はどんな順番で賃銀を受けましたか。どれだけ? ある者はどんな態度をとりましたか。
27 ところが,支払いの時は驚きのときとなりました。イエスの言われた普通と異なる法則が適用されたのです。イエスのたとえ話のつづきを聞き,その点に注意してください。「さて,夕方になって,ぶどう園の主人は管理人に言った,『労働者たちを呼びなさい。そして,最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように,賃銀を払ってやりなさい』。そこで,五時ごろに雇われた人々がきて,それぞれ一デナリずつもらった。ところが,最初の人々がきて,もっと多くもらえるだろうと思っていたのに,彼らも一デナリずつもらっただけであった。もらったとき,家の主人にむかって不平をもらして言った,『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに,あなたは一日じゅう,労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。そこで彼はそのひとりに答えて言った,『友よ,わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは,この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分のものを自分がしたいようにするのは,あたりまえではないか。それともわたしが気前よくしているので,ねたましく思うのか』。このように,あとの者は先になり,先の者はあとになるであろう」― マタイ 20:8-16。a
夕方と賃銀支払いの時
28 たとえ話の最初の成就において,一日の仕事が終わる「夕方」はいつ来ましたか。
28 たとえ話の最初の成就において,夕方が来て作業時間が終わったのは,イエス・キリストが押えられ,カルバリの刑柱上で死なれた時です。イエスは西暦33年過ぎ越しの晩に捕えられ,翌日の午後死にました。死の約6ヵ月前,使徒たちに,「神のみわざが,彼の上に現れるためである。わたしたちは,わたしをつかわされたかたのわざを,昼の間にしなければならない。夜が来る。すると,だれも働けなくなる。わたしは,この世にいる間は,世の光である」と言われたイエスは,この時のことをあらかじめ語っておられました。(ヨハネ 9:3-5)あしかけ三日(西暦33年ニサン14-16日)死んでおられたイエスは,その間イスラエルつまり神の「ぶどう園」で働けませんでした。(伝道 9:5,10)11人の忠実な使徒も働けませんでした。羊飼いのいない羊のごとく散らされていたからです。彼らがその後集まったのはしめきった家の中でした。敵対するユダヤ人を恐れたためです。(ヨハネ 16:32。マタイ 26:31。マルコ 14:27。ゼカリヤ 13:7。ヨハネ 20:19,26)彼らが公に仕事を再開したのは五旬節が来てからです。
29 (イ)イエスの死と共に生来のイスラエルは何でなくなりましたか。なぜ?(ロ)その後3年半の間イスラエルに恵みを施された大いなるぶどう園所有者は,その時すでに何をもっておられましたか。
29 イエス・キリストは国民のうち「先の」者であるユダヤ教指導者の扇動によって殺されました。そのときイスラエル国民は神の「ぶどう園」ではなくなりました。イエスが杭の上で死んだのはイスラエル国民との律法契約を終わらせるための神の手段でした。あがないの犠牲としてイエスが死んだことにより,「数々の規定から成っている戒めの律法」は廃棄されました。『わたしたちを責めて不利におとしいれる証書は,その規定もろとも』ぬり消されました。それは,言わばキリストの刑柱に釘づけにされて取り除かれました。(エペソ 2:15。コロサイ 2:14)確かにエホバは,その後も3年半の間,生来のイスラエルに特別の恵みを与え,御国にはいる最初の機会をさしのべられましたが,この国民が神の「ぶどう園」でなくなっていたことは変わりません。神は今,霊的な「ぶどう園」を始めておられました。その中で,み子イエス・キリストはぶどうの木,弟子たちはその枝です。(ヨハネ 15:1-8)それで,生来のイスラエルからなる神のぶどう園での12時間の作業時間は,カルバリでのイエスの死をもって確かに終わりました。
30 賃銀支払いの時はいつ来ましたか。神は賃銀支払いのためご自分の家令をどのように用いられましたか。
30 それでは,賃銀支払いの時はいつでしたか。イエスが復活した時,つまり死の三日目にあたる西暦33年ニサン16日ですか。イエスはその後40日の間弟子たちにだけ現われ,彼らを復活の証人とされましたが,その時ではありません。(使行 1:1-8; 10:40-42)イエスの昇天後十日に至るまで,これら恵みを受けたイエスの弟子たちは公の場に出ませんでした。ついで到来したのは西暦33年の五旬節であり,それと共に支払いの時が来ました。ぶどう園のあるじ,もしくは主人であられるエホバ神が,自分の家令,雇い人のかしら,また「管理人」に賃銀の支払いを命じたのはこの時です。神は天の栄光を受けたイエス・キリストを家令もしくは「管理人」とされました。五旬節の日に働き人に聖霊を注ぐのにこのイエスを用いられたからです。(ヨハネ 1:32-34; 14:16,17; 15:26; 16:7。ルカ 24:49。使行 1:4-8; 2:32,33)働き人に賃銀を払うにあたり,天のイエス・キリストは,地上にいた時に語った例外的な法則に従いました。
31 五旬節の時,賃銀を最初に受けたのはだれですか。その時まで彼らはどのような地位にありましたか。
31 では,五旬節に最初に賃銀を受けたのはだれですか。刈り入れた小麦の初穂をささげる五旬節にエルサレムにいた人々のうち聖霊を注がれた者たちです。それは生来のイスラエルのぶどう園につかわされた「あとの」者であり,「管理人」また家令であるイエス・キリストと働いた人々です。これらはまた,大いなる家あるじ,またぶどう園の主人であるエホバ神から,全額の賃銀つまり象徴的な「デナリ」を受けるという面で,イスラエル国民の宗教指導者が「あと」とみなす者でした。
32 働き人のうちだれが最初に賃銀を受けたかはどのように明らかにされましたか。その光景を目撃したのはだれですか。
32 ユダヤ人の期待と逆に,最初に支払いを受けたのは,エルサレムの宮で五旬節を祝うユダヤ人や改宗者の群衆と離れ,ある2階の部屋に静かに集まっていた120人の人々,つまりさげすまれたイエス・キリストの12使徒およびほかの弟子たちでした。神の「ぶどう園」の働き人のうちだれが最初に賃銀を受けたかは奇跡によって明らかにされました。その奇跡は120人の弟子に聖霊が注がれると同時に起きました。そして,ユダヤ人と改宗者3000人以上がその場に来て,その不思議な光景を目撃しました。―使行 1:5; 2:1-13,41。
33 彼らが目撃したことの意味をペテロはどう説明しましたか。聖霊の賜物を求めた者は何人いましたか。
33 「ほかの人たちはあざ笑って,『あの人たちは新しい酒で酔っているのだ』と言った」。そこで使徒ペテロが最初に立ち上がり,霊に満たされたキリストの弟子たちは酒に酔っているのでなく,ヨエルの預言(2:28,29)の成就としてこのことが起きていると語りました。また,復活し,天の神の右に上げられたイエス・キリストが約束の聖霊を受け,ヨエル書 2章28,29節の成就として,地上の弟子たちに聖霊を注いでいることも述べました。そののち12人の使徒全員は,ほかのユダヤ人も悔い改め,イエス・キリストの名によってバプテスマを受けて弟子となるなら,この約束の聖霊の賜物を受けられることを説明しました。その場で聞いていた約3000人はそれに従い,霊的なイスラエルの会衆,神の新しい「ぶどう園」に加わりました。―使行 2:37-42。
34 それで「デナリ」とは何ですか。受ける者はそれをいつ,どこで使いますか。
34 このように,象徴的な「デナリ」は聖霊の賜物そのものではありませんでした。それは聖霊を受けることに伴う特権,つまり霊的なイスラエルの一員となり,ヨエル書 2章28,29節の成就として預言し,油そそがれた者としてメシヤによる神の国の福音を伝道する特権でした。これらの者はエホバの霊的なぶどうの木,主イエス・キリストの,実を結ぶ枝になります。これらの者はイエス・キリストを仲立ちとして,エホバ神と象徴的なぶどうの枝の会衆の間に結ばれる,新しい契約にはいります。(エレミヤ 31:31-34。テモテ第一 2:5,6。ヘブル 8:6–9:15)それで,象徴的な「デナリ」はこの人々にとって生計,神の新秩序における永遠の命を意味するものでした。そしてこれはこの地上で使うものであり,天で使うものではありません。
35 「朝早く」雇われた者は何を見聞きしましたか。彼らも「デナリ」を受けられたのはなぜですか。
35 生来のイスラエルの神のぶどう園で働くため,最初に,つまり「朝早く」雇われた者についてはどうですか。これら「先の者」であるユダヤ人の大祭司,下位の祭司,レビ人,書記,モーセの律法に通じた学者などはやがて,イエスの弟子たちが生来のイスラエルの神のぶどうの園での,あとからの仕事に対して賃銀を受けたことを聞き,また自分でも見ました。彼らはイエスの弟子が象徴的な「デナリ」を使っているのを見ました。望むなら,彼らも全額の賃銀を受けることができました。しかもエホバ神はその後約3年半の間,引き続きイスラエル国民のみを取り扱われました。
36 (イ)しかし彼らはだれを通して「デナリ」を受けねばなりませんでしたか。(ロ)それを受けるため,それまで得てきたどんなものを捨てねばなりませんでしたか。
36 しかし,これら宗教指導者は全額の賃銀である「デナリ」を,神の家令つまり栄光を受けたイエス・キリストをとおして受けねばなりません。そのためには,主イエス・キリストが金持ちの若い支配者に命じたとおりのことをしなければなりません。(マタイ 19:21)それはつまり,エルサレムの宮,各地の会堂,サンヘドリンなどにおける名誉,権力,物質的利得の地位を捨て,「モーセの座」にすわってラビととなえられていたことを改め,またローマ政府によって許された地位を離れることでした。これらは西暦33年の五旬節に至るまで,イスラエルの神の「ぶどう園」での奉仕に対する良い報酬として,彼らが得ていたものでした。彼らがヨエル書 2章28,29節の成就として,聖霊の賜物を得ることを大いなる家あるじである「ぶどう園」の所有者と約束をしていたのは確かです。しかし今,イエス・キリストによって注がれる聖霊を受けて油そそがれた者となり,「あと」の人々,第11時の働き人である使徒と共にイエス・キリストの弟子としての仕事をするため,これまでイスラエルで得てきた宗教上の利益すべてを放棄することは,彼らにとって大きすぎる犠牲に見えました。
37 彼らはただの「デナリ」を受けることに満足しましたか。彼らの態度は「あとの」労働者に対してどう表われましたか。
37 彼らは神からの賃銀として,聖霊とその奇跡の賜物,およびそれに伴う御国の特権以上のものを求めました。それで彼らは象徴的な「デナリ」以上を求めました。それゆえ,これら「先の」労働者は「ぶどう園」の所有者に不平を言い,ただの「デナリ」を受けることをいやがりました。金持ちの若い支配者が使徒ペテロと対象的であったのに似ています。彼らの不平と不満は「ぶどう園」に「あと」に雇われた労働者であるキリストの弟子に対する迫害となって表われました。―マタイ 20:10-12。
38 「先の」労働者すべてが「デナリ」を断わったかどうかを何が示していますか。ある者は何を捨てませんでしたか。
38 もとより,クプロ生まれのヨセフ・バルナバのごとく,宮のレビ人で「デナリ」を受け入れた者もいます。(使行 4:36,37)そして,神の奉仕に「デナリ」を使ったことを理由に,12使徒が投獄され,エルサレムのサンヘドリンで裁かれたのちも,使徒行伝 6章7節の記録どおり,「神の言は,ますますひろまり,エルサレムにおける弟子の数が,非常にふえていき,祭司たちも多数,信仰を受けいれるように」なりました。またユダヤ人の大祭司と親しい間柄にあったタルソのサウロも,パリサイ人でありながら「デナリ」を受け入れました。(使行 9:1-22。ピリピ 3:4-6)しかし,「先の」労働者であるユダヤ人の宗教指導者の大部分は,生来のイスラエルにおけるそれまでの宗教上の特権を捨てず,モーセの律法に基づく報酬を受けて,「デナリ」を断わりました。
39 彼らはこの種の宗教上の奉仕をいつまで続けましたか。しかし,イエスの弟子は何を使いつづけましたか。
39 彼らは宗教上のこの種の奉仕を西暦70年まで続けました。しかしその年,彼らはエルサレムの宮を取り上げられました。彼らは宮での仕事を失いました。そしてローマ人は彼らの土地と国民とを奪いました。それは彼らがイエス・キリストを受け入れたためでなく,これを退け,「デナリ」を断わったためでした。(ヨハネ 11:47,48)エホバ神がイエス・キリストの弟子をよくあしらわれたので彼らの目はよこしまになりました。他方,使徒ヨハネを含めイエス・キリストの弟子たちは,神の国の奉仕をなしとげ,自らの永遠の命を得るため,迫害にめげず自分の「デナリ」を使いつづけました。―マルコ 10:29,30。黙示 1:9。
[脚注]
a 欽定訳とドウェー訳のマタイによる福音書 20章16節にある,「招かれる者は多いが,選ばれる者は少ない」の句は,4世紀のシナイおよびバチカン1209番聖書写本になく,現代の聖書翻訳から除去されています。
[268ページの図版]
デナリ貨
[269ページの図版]
「あなたがたも,ぶどう園に行きなさい」
[272ページの図版]
「それぞれ一デナリずつもらった」