正しい態度は身の守りとなる
1 (イ)ペテロはいつクリスチャンたちに手紙を書いて,『エホバの日の臨在をしっかりと思いに留める』よう勧めましたか。(ロ)そのあと,エホバの「日」が来るまでどのくらいの期間がありますか。
西暦64年ごろ,使徒ペテロはクリスチャン会衆に手紙を書き送り,『エホバの日の臨在をしっかりと思いに留める』よう彼らに勧めました。クリスチャンたちがこのことばを初めて読んだのは,ローマ人がエルサレムを破壊する,つまり神の裁きの「日」がその都市に臨む6年ほど前のことでした。(使徒 2:14-21)それは,キリスト教世界と現在の事物の体制に対するエホバの裁きの「日」の臨在の1,900年以上前のことでした。それでもペテロのことばは,当時生きていたクリスチャンたちに適用しました。
2,3 過去19世紀にわたり,『エホバの日をしっかりと思いに留める』ことが油そそがれたクリスチャンたちにとって重要であったのはなぜですか。
2 神の最後の裁きの「日」からはるか昔に住んでいたクリスチャンたちが,なぜそのような思いをいだく必要があったのでしょうか。なぜなら,それ以外の態度は,この世とかかわりを持つわな,そしてこの世的なものに信頼と希望を置くというわなに彼らを導くからです。彼らの周囲のものはやがて破壊されるということを彼らは思いに留めていなければなりませんでした。そのうえに彼らは,神に対する忠実を,『世を,あるいは世にあるものを愛さない』ことによって証明しなければなりませんでした。というのは,時がたてば彼らは死ぬからです。その時の彼らの,霊によって生まれた油そそがれたクリスチャン,イエス・キリストの兄弟,としての履歴はどういうものになっているでしょうか。―ヨハネ第一 2:15。
3 油そそがれたクリスチャンたちが,過去19世紀間ずっと直面していた問題は,エホバのみ前における自分の現在までの経歴はどうか,キリストとともに統治する希望のある「王なる祭司」のひとりとなる資格を持つように,神の召しと選びを確かなものにしているだろうか,ということでした。(ペテロ第一 2:9。ペテロ第二 1:10。啓示 20:4,6)彼らがその召された天の地位にふさわしいかどうかをエホバが判断なさるのに,彼らが「エホバの日」に住んでいる必要はなかったのです。―ヘブライ 3:1。
4 わたしたちはなぜ今日,そして日ごとに,自分の生き方に真剣な注意を払う必要がありますか。
4 今日のわたしたちはどうですか。わたしたちはこの事物の体制の終わりが近い時に住んでいるので事情が違いますか。そうではありません。それは,わたしたちの上に「大患難」が臨むまで待つかどうかの問題ではありません。というのは,わたしたちがその時に生きているかどうかは,わたしたちにはわからないからです。聖書は,ヤコブの手紙 4章14節で,わたしたちに次のことを思い起こさせています。「あなたがたは,あす自分の命がどうなるかも知らないのです。あなたがたは,少しのあいだ現われては消えてゆく霧のようなものだからです」。問題を軽く見ているなら,頼りにならないわたしたちの心はいつわたしたちを真の崇拝から引き離すかわかりません。(エレミヤ 17:9)それにわたしたちは,「大患難」が来る前でさえ,わたしたちの油断をついてわたしたちに災いを及ぼすような事態がいつなんどき臨むかをも知りません。それはどんな場合でしょうか。いっしょに考えてみましょう。
終わりまで耐え忍ぶということの意味
5 (イ)「終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」というイエスのことばにはどんな意味がありますか。(ロ)ソロモンは,人の現在の命が「終わる」可能性についてどんな事実をわたしたちに思い起こさせますか。
5 イエスは,わたしたちが住んでいる今の時代を予示するものであった使徒たちの時代について語られたとき,こう言われました。「終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」。(マタイ 24:13)迫害,増加する不法,世の憎しみなどを耐え忍ぶことについてイエスは語っておられました。弟子の中には,迫害の間に殺される者もあるだろう,とイエスは言われました。しかし,こうしたことすべてを死に至るまで,あるいは世のこの激しい敵対状態の終わりまで耐え忍ぶなら,そのクリスチャンはその忠実さゆえに救われます。(マタイ 24:9-12)その人は,事物の体制の終わりまで生きていないかもしれませんが,その人にとっての「終わり」がいつになろうとも,その人はこの世のものであったかどうかについて裁かれるのです。(ヨハネ第一 2:15。ヤコブ 4:4)霊によって生まれた油そそがれたイエス・キリストの兄弟たちであろうと,地的希望を持つ「ほかの羊」であろうと,若者であろうと老人であろうと,わたしたちはみな,宗教的迫害が突発するなど,予期しない事態のために,きょうあすにも死にかねない者です。賢王ソロモンは,すべての人間が直面する事態についてこう述べています。『すべて人に臨むところの事は時あるもの偶然なるものなり 人はその時を知らず 魚のわざわいの網にかかり鳥の鳥あみにかかるがごとくに世の人もまたわざわいの時の計らざるに臨むに及びてそのわざわいにかかるなり』― 伝道 9:11,12。
6 ものみの塔協会本部のメンバーのひとりに,最近どんな「偶然なるもの」がふりかかりましたか。しかし彼はその時まで何をしていましたか。
6 わたしたち個人の終わりがいかに早く来るかを示す,そして神のみ前に常に正しい立場を持つことと,神の恵みを得られる良い立場を持つことの重要さを強調する例はたくさんあります。少し前のこと,ものみの塔協会本部職員のひとりが,ニューヨークのある王国会館で別の兄弟といっしょに仕事をしていたところ,ひとりの若者が会館の中にはいって来て彼に近づき,質問をしました。それで証人はその質問に親切に答えました。ところが,宗教的敵意をいだいていたその若者は突然ナイフを取り出してその証人を刺し殺しました。証人がその時まで忠実に奉仕していたことを知るのは大きな慰めです。
7,8 マラウィの兄弟たちの経験からわたしたちは何を学ぶべきですか。
7 また,マラウィのエホバの証人たちの経験もあります。マラウィは,人びとが王国の音信に驚くべき反応を示した国です。1972年には,マラウィの人口194人につきエホバの証人ひとりという割合でした。その年の間に1,617人が新たにバプテスマを受けました。この国の中にはエホバの証人の会衆が447存在し,2万2,000人以上の証人がそれらの会衆と活発に交わっていましたから,エホバの証人はほんとうに繁栄していたと言えます。1967年に迫害があったことは事実です。しかしある人は1972年に,『これほど霊的に繁栄しているのだから,わたしたちに災いが臨むことはまずない』と考えたかもしれません。しかし,マラウィのエホバの証人の身に,ほとんど一夜にして,何がふりかかったでしょうか。この世の政治に対して中立を保つことに忠実であったため,彼らの家は焼かれ,一部の女性は強姦されました。また彼らは暴徒の襲撃を受け,ある者は拷問にかけられるかまたは殺害されました。ほとんどの証人は,命がけで隣国に逃亡することを余儀なくされました。
8 このことからわたしたちは何を学びますか。クリスチャンは毎日を,その日があたかも自分の地上での生活の最後の日であるかのように生きなければならないということです。真のキリスト教を生きる道とし,会衆内の兄弟たちと密接な関係を保ち,力をつくして活発にエホバに奉仕していなければなりません。もしマラウィの証人たちが無関心で,彼らの霊的状態をおろそかにしていたならどうなっていたでしょうか。試練が臨んだ時には霊的力を持つ人だけが堅く立つことができました。そしてマラウィの証人の大多数がそうしたことは,彼らの誉れです。
9 「大患難」が到来する時,わたしたちがエホバに喜ばれる者であるかどうかを決定するのは何ですか。
9 神は,わたしたちが賢明な道を歩み,また危険と,エホバの「日」の近いことを警告することによって他の人びとを助けられるように,わたしたちが知る必要のある事がらを啓示してくださいます。しかしエホバは,正確に何年に,または何日に,何時に,この世界に「大患難」をもたらし始めるかをわたしたちに告げてはおられません。(マタイ 24:36)エホバへの奉仕を活発にするかどうか,あるいは神に喜ばれる生き方をするかどうかを決定するのは,「大患難」の始まる正確な時にかんする知識の有無ではありません。神を喜ばせるには,終わりが近いということではなく,わたしたちのすばらしい天の父としての神に対する愛を真の動機として,常に奉仕しなければなりません。
神の選ばれる時機が適切であるのはなぜか
10-12 (イ)どういう意味でエホバの「日」は「わな」のように臨みますか。(ロ)自分が予期していたときに物事が起きないために信仰を失う人たちは,エホバの地位の卓越性を認識していないことをどのように示していますか。
10 「大患難」は突然に臨むということをわたしたちは知りました。それは「わな」のように臨む,とイエスは言われました。(ルカ 21:34-36)わなにかかる前の動物は,自分がわなのそばにいることにさえ気づかず,突然に捕えられて望みのない状態に落ち入ります。聖書は起こりもしない事態を警告しているのではありません。それはほんとうのことであって,しかるべき時にまちがいなく生じます。神はこの事物の体制を滅ぼす時を定めておられます。しかしある人びとは,事が自分の予想どおりに起きないために,また神の行動が遅いように思えてしんぼうできなくなり,信仰を失います。それは,人間の寿命が短いために,自分が持っている短い時間の中で物事を成し遂げようとしてあせるからです。その結果,限りのあるそのような人間経験にもとづいて神を裁く傾向に落ち入るかもしれません。―ハバクク 2:3。
11 一方,エホバは永久に生きておられます。あせりを感じられる必要はありません。エホバは状況をつぶさに調べて,ご自分が時の流れのどのあたりで行動すれば,関係者すべてに最大の益を与え,同時にご自分の目的を徹底的に遂行しうるかを的確に見定めることがおできになるのです。―箴 15:3。
12 ペテロはこの考えを次のように言い表わしています。「愛する者たちよ,この一事を見過ごしてはなりません。エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようであるということです。エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです」― ペテロ第二 3:8,9。
13 (イ)この事物の体制に対してエホバがまだ裁きを執行されていないことから,実際にだれが益を受けていますか。(ロ)「エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようである」ということはどのように事実ですか。
13 それで,エホバが手間取っておられるように見えるのは,エホバご自身の利益のためでもなければ,行動ののろさなどによるものでもありません。それはわたしたち人間のためです。エホバはこの世界をすぐに滅ぼすことができます。ペテロが指摘しているように,エホバは,人間が1,000年間になしうることよりも多くのことを,1日でなさることができます。たとえば,イエスは地上におられたとき,なえた手をいやし,見えない目を見えるようにし,からだの一部が腐敗していた死者をよみがえらせることさえされました。イエスはこうした力あるわざを即座に成し遂げられました。しかし,もしその人が普通の状態のもとで新しい腕を発達させるとしたらあるいはよみがえらされた人がからだの腐敗した部分を自然の過程で回復させるとしたら,どのくらいの時間がかかったかを考えてみてください。さらに,他の面から問題を見るなら,永遠に生きられる,そして幾時代も前もって目的をお立てになるエホバにとっては,1,000年の経過は,『夜の間のひとときにおなじ』です。(詩 90:4)エホバは,わたしたちのように時間に制限されることはありません。それでもしエホバが,わたしたちに遅く思えるような仕方で行動されるなら,それはわたしたちに対するエホバのご配慮であり,関係者すべてにとって最善の道であるということを念頭においていなければなりません。
14 わたしたちはエホバの「日」がいつ来るかを正確に知る必要はありません。なぜですか。しかしわたしたちは何をしているべきですか。
14 神のみ前における自分の立場を理解し,神を信仰している人は,心配する必要はありません。『あなたがたの労は主にあってむだではない』と,使徒は保証しています。(コリント第一 15:58)もしわたしたちが神の目的を知り,神のわたしたちに対する現在のご意志は何か,将来どんな希望があるかを知っているなら,できごとの起こる正確な時間表を知らなくてもよいわけです。エホバの「日」がいつ到来しようと,わたしたちは神のご意志を行なうことに忙しく働いているでしょう。それがあなたの決意ですか。
あなたは「しるし」を持っていますか
15 (イ)神の新秩序における地上で生きるよう救われる人すべてが持っていなければならない「しるし」とは何ですか。(ロ)世の中の悪い状態に対する人の反応についてのどんな質問は,その人が神の求める見方をほんとうに持っているかどうかを分析するのに役だちますか。
15 古代エルサレムがバビロニヤ人によって破壊される直前に,エホバはエゼキエルにひとつの幻をお与えになりました。その幻の中でひとりの象徴的な人がエルサレムを行き巡り,エルサレムで行われていた『もろもろの憎むべき事のために歎き哀しむ』人びとのひたいにしるしをつけました。(エゼキエル 9:4)それは今日行なわれているひとつのわざを予示するものでした。「ほかの羊」であることを公言し,神の新秩序におけるこの地上で生きることを望む人は,めいめい次のことを自問すべきです。『わたしはほんとうにしるしを持っているだろうか。わたしの生活は,わたしのひたいのしるしのようにはっきりと,わたしがほんとうにクリスチャンの人格を持つ証拠を示しているだろうか。わたしは自分が今目撃している,とりわけキリスト教世界で行なわれている悪事をほんとうに憎んでいるだろうか。そうした事がらが危険をもたらし,また自分にとって不都合であるというだけの理由で残念に思っているだろうか。それとも神のみ名が非難されているのでそれを嘆いているだろうか』。
16 (イ)道徳的に常に清い生活を送ってきていても,それ自体はその人が「しるし」を持っていることを意味しません。なぜですか。(ロ)それでも性の不道徳を避けることはなぜたいせつですか。
16 クリスチャン的人格の「しるし」を実際にあらわす人びとは,世を愛する者の部類にはいるような事を行なっている時にエホバの日が突如来ることのないよう,細心の注意を払います。あなたもそうですか。たとえば,放縦,淫行,姦淫などを実際にどう考えていますか。過去においてどんな生活をしていたにせよ,現在は,そうしたことを常習的に行なう者に対するエホバの裁きの正しさを心から認めていますか。(コリント第一 6:9-11。ヘブライ 13:4)もちろん,そのようなことを一度もしたことのない人たちもいます。しかしそのこと自体は,その人たちが生き残れる「しるし」をつけられていることを意味しません。「しるし」を持つ人というのは,不快な結果を招きかねないからそうした行ないを避けるというだけの人ではありません。悪事はエホバの義の道に対する違反であるゆえにそれを憎むのです。彼らは,忠実であったヨセフと同じように,淫行や姦淫が汚れた行為であるばかりでなく,『神に対する』『大いなる悪』であり『罪』でもあることを認めています。(創世 39:9)彼らが第一に関心を払うのは,エホバの見方です。性の不道徳がサタンの主要なわなのひとつであることを知っている以上,この罪を犯させて新秩序の門口が近づいている今この時に落伍させようとする誘惑の危険のある状況を避けるのは重要なことです。約束の地の境のモアブでイスラエルが示した例を忘れないようにしましょう。性の不道徳というわなにかかって2万4,000人のイスラエル人がそこで命を失いました。―民数 25:1-9。
17 ほんとうに「しるし」を持っているなら,正直であることについてどんな態度を取りますか。なぜですか。
17 正直であることについてはどうでしょうか。わたしたちはほんとうに真実を重んずるでしょうか。それとも都合の悪い状況から抜け出すために,あるいは自分が欲しいものを手に入れるために,真実を少しばかり曲げることをはばからないでしょうか。今日,実業界ではうそをつくことがあたりまえのようになっています。しかし,うそをつくことは最初どこで始まったでしょうか。悪魔は「偽り者であり,偽りの父」である,とイエスは言われました。(ヨハネ 8:44)ですから,うそをつく人は,実際には悪魔に仕えているのです。しかし,もしわたしたちが常に真実を語るなら,わたしたちは新しい人格を着たこと,ほんとうに「しるし」を持っていることを明らかにしているのです。「あなたがたは偽りを捨て去ったのですから,おのおの隣人に対して真実を語りなさい」と神のことばは述べています。(エフェソス 4:25)あなたは,窮地に立つとき,そこから抜け出す安易な方法として,うそをつく気持ちを起こしますか。それともあなたは,「うそと偽りとをわたしから遠くへ離れさせてください」と言った箴言の筆者のようですか。―箴 30:8。
18,19 神のみ前で正しい良心を持ちたいならば,集会に出席し,エホバの証人と交わる以上のことが求められていますが,なぜですか。
18 「エホバの日」の近い現在,多数の人びとが新しく真理の道にはいってきています。その人たちは以前は,自分の思いや肉体に害となる習慣を持っていました。しかし今ではバプテスマを受け,正しい良心を神に求めています。(ペテロ第一 3:21)もしあなたがそのバプテスマの段階を踏もうとしている人のひとりであるならば,あるいはしばらく前にその段階を経ているならば,思いと肉体に有害な影響のあることがわかっている事がらを引きつづき行なっていて,神から正しい清い良心をいただく,あるいは受けることができるでしょうか。清さにかんする聖書の高い標準に従って生きるよう努力するエホバの証人と交わるだけで,清い良心を得ることができるでしょうか。もしその一方で,証人たちが退けることを引き続き行なっているとすれば,あなたはほんとうにエホバの証人のひとりと言えるでしょうか。あなたはエホバの証人になることを望んでいますか。
19 神から恵みと命をいただくことを期待しているのであれば,清い良心は不可欠な要素です。したがって,わたしたちが行なうすべてのことにおいてまず第一に考慮すべきことは,これらの事がらは神のみ名にどのような影響を及ぼすだろうか,ということでなければなりません。第二は,これらの事がらは,神のみ名と王国を代表するクリスチャン会衆にどう影響するか,ということです。こうした考慮を払うならば,わたしたちが選ぶ道において正しい良心を保つのに役だちます。神がクリスチャン会衆を,「真理の柱また支え」とされたことを考慮する必要があります。(テモテ第一 3:15)わたしたちは,その会衆が教えることと一致した生き方をすべきです。エホバの日の臨在をしっかりと思いに留めることは,エホバの恵みという輝かしい宝とくらべて「多くのあくた」に等しいものに執着しないよう,わたしたちを保護するものとなります。(フィリピ 3:8)またそうすることによって人は正しい良心を保つよう努力することができます。他の人に宣べ伝えておきながら,自分自身が神に非とされることのないよう,自分の肉体を制御します。―コリント第一 9:27。
イエスは何に対する警告を弟子たちに与えたか
20-23 (イ)ルカによる書 21章34節から36節に示されているように,イエスは,わたしたちの信仰を弱めかねないどんな事がらについて警告をお与えになりましたか。(ロ)こうした日常生活に関係のある事がらが,そのように信仰を破壊する影響力を持つことについて説明してください。(ハ)神の霊に導かれることをほんとうに望むならば,わたしたちはどこにいるべきですか。
20 とはいえ,人の信仰をくつがえすものは必ずしも大きな事がらばかりとは限りません。主イエス・キリストは,毎日信仰によって生きることの問題を強調し,こう警告されました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:34-36。
21 イエスはここで,どんな事がらについて警告を与えておられるのでしょうか。イエスは,淫行,姦淫,盗みなどの罪について話しておられたのではありません。もちろん,そのようなことを行なっても神の王国から閉め出されます。しかしイエスは,食べること,飲むこと,日常生活の苦労など,わたしたちだれもが容易に影響を受けるありふれた事がらについて彼らに警告しておられたのです。こうしたことには,罪と言えるところまでふけるのが非常に容易です。そこにこれらの油断のならない危険がひそんでいます。自分は安全な道を歩んでいると考えちがいをしているときに,ふいに捕えられることがないとは言えません。この世の事がらに関係し,それがもたらす煩いに巻き込まれて,自分の霊性をひどくそこなうこともありえます。この世に属するものを自分に必要だと考えて,それを得ることに夢中になる恐れもあります。一般の人びとが持っているあらゆる便利品や生活を安楽にするもののなかでも,「いちばん上等のもの」を持たねば気がすまないと考えるようになるかもしれません。そして,それを手に入れるために世俗の職場で余分に働くのは悪いことではない,と考えるかもしれません。
22 その結果,その人は霊的生活をおろそかにします。勉強をするための時間を取りません。家族が霊的健康を保つよう必要な助けを与えません。クリスチャンの兄弟たちとの交わりの益も失います。したがって野外奉仕に対する熱意にも欠けています。たまにする奉仕でさえ,たいてい形式的なもので,他の人が弟子になるように助けようとする親切はありません。その人は,キリストが統治しておられることやエホバの日が近いことをほんとうは信じていないことを,実際に示しているのです。
23 一方,心から神に願い求めている人は,神の霊が自分の上にあること,自分がそれに導かれることを望みます。そして神の霊を持つ人びとと交わり,その人びとの真の友となり同労者となって,神の霊が活発に活動しているところに身を置きます。
宣べ伝えるわざに携わる正しい動機
24 イエスはどんな動機から「良いたより」を伝道されましたか。
24 かつて地上に存在した最も偉大な伝道者であったイエス・キリストは,どんな動機をお持ちだったでしょうか。それはエホバとエホバの「羊」に対する愛でした。イエスは「群衆を見て哀れみをお感じになった。彼らが,羊飼いのない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていたからである」と,マタイは9章36節で述べています。イエスはただ彼らのことを気の毒に思われただけでしょうか。あるいはただ彼らのあわれな状態を弟子たちに話されただけでしたか。そうではありません。イエスは心から彼らを愛しておられたのです。その愛に動かされてイエスは彼らのために奮闘されたのです。マタイの記録のすぐ次の節(37,38節)にはこう書かれています。「そこで,弟子たちにこう言われた。『確かに,収穫は大きいですが,働き人は少ないのです。それゆえ,収穫に働き人を遣わしてくださるよう収穫の主人にお願いしなさい』」。そしてイエスとその弟子たちは実際に大きな収穫を得ました。使徒たちの活動の4章4節を見ると,その時までに信者になった人の数は約5,000人になっており,そのあと,使徒たちの活動 6章7節にはこう記されています。「その結果,神のことばは盛んになり,弟子の数はエルサレムにおいて大いに殖えつづけた。そして,非常に大ぜいの祭司たちがこの信仰に対して従順な態度を取るようになった」。
25,26 (イ)人びとが真理を学ぶ必要のあることを考えるとき,わたしたちはみなどんな質問に直面しますか。(ロ)アイルランドのある夫妻の経験からわかるように,わたしたちはどんな動機で伝道を続けるべきですか。
25 同様に今日も,必要はたいへん大きいと言わねばなりません。今ほど全世界の人びとが真理を切実に必要としている時はありません。それでわたしたちはみな次のような質問に直面します。わたしは散らされているエホバの「羊」を愛しているだろうか。悪い状態をただ非難したりけなしたりするのではなく,進んで何かを,その人たちの真の助けとなる唯一のことを行なうだろうか。愛をそのような方法で証明するほどわたしはエホバを愛しているだろうか。
26 エホバの証人の開拓奉仕者として妻とともに14年間アイルランドで奉仕したあるクリスチャンは,こう言いました。『来る日も来る日も,朝から晩まで戸別訪問をしましたが,反応を示す人はひとりもいませんでした。夜帰宅するとわたしは,なぜ自分はこれをしているのだろう,と自問しつづけました。そして答えはいつも,エホバを愛しているから,でした』。
27 伝道区域内で無関心や反対に会うなら,どんな聖書の助言を思い起こすと有益ですか。
27 あなたご自身はいかがですか。あなたの伝道区域で無関心や反対に会いますか。もしそうであれば,ヘブライ人への手紙 10章36節から39節までの使徒のことばを思い起こしてください。「あなたがたには忍耐が必要なのです。それは,神のご意志を行なったのち,約束の成就にあずかるためです。あと『ほんのしばらく』すれば,『きたらんとする者は到来し,遅れることはない』のです。『しかし,わたしの義人は信仰のゆえに生きる』,そして,『もししりごみするなら,わたしの魂はその者を喜ばない』とあります。しかしわたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではなく,信仰をいだいて魂を生き永らえさせる者です」。
28 それでわたしたちはエホバの証人であることの特権をどのように考えるべきですか。
28 こうした事がらを考えるなら,自分を吟味し,自分の精神を確かめてみるのは,わたしたちすべてにとって良いことです。バプテスマを受けたクリスチャンになったのであれば,自分が得ている名誉ある立場に対して消極的な態度を持つようになってはなりません。わたしたちはエホバのこのすばらしい恵みに動かされて,他の人びとに対する燃えるような関心や,他の人びとを助けたいという気持ちを持つべきです。その恵みは,魂をつくしてエホバに奉仕するようわたしたちを動かすはずです。(伝道 9:10)わたしたちは真理という宝を持ち,キリスト教の宣教という仕事を与えられているのですから,無関心な態度でりくつを言ったり,言いわけをしたりして責任を避けることはできません。
29 どんなことが,喜びと確信を持ってエホバの「日」を待ち望むことを可能にしますか。
29 エホバは預言者イザヤを通してわたしたちを励まし,こう言っておられます。『みよわれシオンにひとつの石をすえてその基となせり これは試みをへたる石とうとき隅石かたくすえたる石なり これに依頼むものはあわつることなし』。(イザヤ 28:16)イザヤの時代に人びとは偽りの平和と安全を信頼していました。しかし今日わたしたちは,王イエス・キリストが支配しておられること,真の平和と安全の輝かしい新秩序が近づいていることを知っています。信仰を働かせるなら,疑惑にゆさぶられることなく,しっかりと立つことができます。その新秩序に住むのに何が求められているかは明らかです。不動の信仰とそれに伴う「聖なる行状と敬神の専念」は,わたしたちの救いを保証します。こうしてわたしたちは,エホバの激しい「日」が到来する時,人の子の前に是認された者として立つことができます。