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崇拝を行なうための唯一の真の神殿ものみの塔 1973 | 3月1日
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聖なる所の対型は何ですか。聖書の助けを用いてこの問題を解いてみましょう。
22 (イ)神殿の奥の幕は何を表わしていましたか。イエスはどのようにしてそれを通過しましたか。(ロ)したがって,その幕の外側もしくは東側にあるものはすべて,どんなものと関係がありましたか。
22 神殿の至聖所と聖なる所の間の奥の幕は,区分する線を表わしています。それはイエス・キリストがご自分の人間としての完全な肉体を犠牲としてささげて,それを永遠に捨てることによって通過しなければならなかった肉体の障害物を表わしています。さて,奥の幕の内側の仕切り室である至聖所は,神が霊によってではなく,みずから住んでおられる「天そのもの」を表わしているのですから,その幕の外側(あるいはその東側)にあるものはすべて,見えない天の何ものかではなくて,この地上にある何ものかを表わしているといえるでしょう。それは,この地上でエホバ神を崇拝し,エホバに仕える人たちの肉のからだと関係があります。したがって,このことは銅の祭壇にもあてはまります。ソロモンおよびヘロデの建てた神殿の場合,祭壇は奥の中庭,もしくは祭司の中庭に設置されました。その中庭では,大祭司や従属の祭司たちが犠牲を備える務めを行ないました。その祭壇は何を予表するものでしたか。
対型的な祭壇
23,24 (イ)イエスは,「世に」来たとき,犠牲に対する神の態度に関して何と言いましたか。なぜですか。(ロ)それで,何が取り除かれましたか。クリスチャンはキリストの犠牲を通して何によってきよめられましたか。
23 使徒パウロはヘブル書 10章の中でこの点を明らかにしています。神の大祭司としてのイエス・キリストがご自分の血の価値を携えて,わたしたちのために神のみ前に現われるべく,どのようにして天そのものにはいったかを述べたのち,パウロはこう続けます。
24 『それ律法は来らんとする善き事の影にしてまことの形にあらねば,年ごとにたえず献ぐる同じ犠牲にて,神にきたる者をいつまでも全うすることを得ざるなり。…これ牡牛と山羊との血は罪を除くことあたわざるによる。このゆえにキリスト世に来たるとき言いたもう「なんじ犠牲と供え物とを欲せず,ただわがためにからだを備えたまえり。なんじ燔祭と罪祭とを喜びたまわず,その時われ言う 『神よ,われなんじの〔意志〕を行なわんとて来たる』 我につきて書の巻にしるされたるがごとし」と。先には「なんじいけにえと供え物と燔祭と罪祭と(すなわち律法にしたがいて献ぐる物)を欲せず,また喜ばず」と言い,後に「視よ,われなんじの〔意志〕を行なわんとて来たる」と言いたまえり。その後なる者を立てんために,その先なる者を除きたまうなり。この〔意志〕に適いてイエス・キリストのからだのひとたび献げられしによりてわれらは潔められたり』― ヘブル 10:1-10〔新〕。
25 では,イエスがやって来て,犠牲としてご自身をその上にささげた祭壇とは何でしたか。
25 このことばから,神殿の中庭の銅の祭壇に相当する対型とは神の「意志」,つまり神がみずから整えた完全な人間の犠牲を喜んで受け入れようとする神の意志であることがわかります。神のこの「意志」は,巻物の書にしるされた事柄の中で予告されていました。(詩 40:6-8)神はアブラハムの息子イサクの不完全な人間としての犠牲を受け入れることを快しとはしませんでしたが,ご自分のひとり子,イエス・キリストの完全な人間としての犠牲を喜んで受け入れました。神は年ごとの贖いの日の動物の犠牲をいつまでも欲したり,是認したりしておられたのではありません。かえって,神はご自分の意志と目的に従って,人間の罪を贖い,ほんとうに「罪を除く」完全な人間の犠牲をまさしく欲しておられたのです。イエス・キリストは神の意志を行なうために来ました。そして,祭壇の上でなされるように,神の意志を基盤としてその上で,人間の犠牲としてささげられた完全なイエスは受け入れられ,また備えられたイエスの完全な人間のからだがささげられました。神の「意志」という祭壇の上でささげられたこの完全な人間の犠牲は,ほんとうにキリストの弟子たちを清めるものとなりました。パウロが,『この〔意志〕に適いてイエス・キリストのからだのひとたび献げられしによりてわれらは潔められたり』とつけ加えたのはそのためです。―ヘブル 10:10〔新〕。
26 クリスチャンの従属の祭司はその「祭壇」から食べますが,ユダヤ人の祭司にはそうする権利がないのはなぜですか。
26 また,パウロがあとの箇所で次のように述べたのもやはりそのためです。『われらに祭壇あり,幕屋につかうる者はこれより食する権をもたず。…このゆえにイエスもおのが血をもて民を潔めんがために,門の外にて苦難を受けたまえり』。(ヘブル 13:10-12)つまり,われらとは霊的な従属の祭司のクリスチャンたちのことですが,それらの人たちは神の「意志」という祭壇にささげられた罪を贖う犠牲を持っています。しかし,エルサレムのヘロデの神殿で仕える祭司たちは,この祭壇にささげられた犠牲を食べる権利はありません。なぜなら,彼らはエホバの真の大祭司で,エホバの新しい契約の仲介者であるイエス・キリストに対する信仰に欠けていたからです。
27 イエスはいつご自身を犠牲としてささげましたか。それで,犠牲を供える基盤となるどんなものが存在するようになりましたか。また,対型的などんな「日」が始まりましたか。
27 完全な人間としてのイエスは,巻物の書に述べられているように,神の「意志」という祭壇に供える犠牲となるため,いつご自身をささげましたか。それは西暦29年にヨルダン川で浸礼を受けるため,ご自身をバプテスマのヨハネに渡した時でした。エホバ神が,みずからを犠牲にしたイエスを受け入れたことは明らかです。なぜなら,イエスが水のバプテスマを受けたのち,エホバはご自分の聖霊をイエスの上に注ぎ,イエスをキリストつまり油そそがれた者とし,また人に聞こえるように天から,『これはわが愛しむ子,わが喜ぶ者なり』と述べたからです。(マタイ 3:13-17。ヨハネ 1:29-34)したがって,その時,神の対型的な祭壇が存在するようになり,またその上に,受け入れられうる罪祭が備えられました。その時以降,イエス・キリストは,ご自分の人間としての犠牲を死に至るまで管理しながら,対型的な祭司の中庭を歩んでゆかれました。大いなる対型的な贖いの日は始まりました。そして,神の大祭司,イエス・キリストは,チスリ10日の年ごとの贖いの日にエルサレムの神殿でアロンの家系の大祭司が行なったと同様の仕方で,神の真の霊的な「祭壇」で仕えていたのです。―ヘブル 8:1-6。
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宗教指導者たちによる評価ものみの塔 1973 | 3月1日
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宗教指導者たちによる評価
● デンマークの一流新聞の一つである,ベルリングスケ・ティンデ紙(1969年8月9日)は社説の中で,「教会が[エホバの]証人の熱意の半分でもよいから持って,キリスト教に関する知識を広めてくれたらと人は思うだろう」と書きました。また,ブルックリンの指導的なプロテスタント牧師は,自分の会衆に向かって次のように語りました。「わたしは,自分たちの宗教について語るエホバの証人に敬服する。…われわれは申し合わせたように,押し黙っている。宗教はわれわれが決して口にしない事がらの一つである。…証人たちは自分の信仰を明らかにしている。毎日,口で表明する。彼らはためらわずに話す」。
使徒パウロ伝道会の司祭で編集者である,J・B・シーリンは,かつて,エホバの証人は「われわれカトリック教徒に対して,挑戦を投げかけている」と書きました。なぜでしょうか。なぜなら,「証人たちは真の教会の特色を備えており,われわれカトリック教徒が,われわれの宗教のこれらの特色を無視している一方で,彼らは徹底的にそれを行なっている」からです。証人たちの熱意について述べたのちに,シーリンはこう質問しました。「大会出席者が朝早く起き,開催都市の町かどでカトリックのパンフレットを配布するようなカトリックの大会のことを聞いたことがあろうか」。
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