エホバの霊に導かれて成長をつづけなさい
「植える者も水をそそぐ者も,ともに取るに足りない。大事なのは,成長させて下さる神のみである」― コリント第1 3:7。
1 成長は何を示していますか。成長を見守るには何が必要ですか。
成長を見守るのはすばらしいことです。それは心を奪い,見守るほどにますます興味をひかれます。どの部分を見てもそれは奇跡です。成長の過程はそれを意図した者の知恵を物語っています。成長の原動力はなんですか。最後に完全なバランスを保つように成長を支配するものはなんですか。最後に成長がとまり,その結果,自然界のものにそれぞれきまった大きさや能力があるのは,何の働きによるのですか。植物の場合をとっても,各部分が大きくなり,成熟して,花が咲き,種ができ,実がなります。しかし一度に大きくなるのではありません。興味をひかれた人は,あきずにその成長を見守ります。「野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず,織りもしない。しかし,あなたがたに言うが,栄華をきわめた時のソロモンでさえ,この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」。(ルカ 12:27)この成長の美を観察するには花の一生を見守らなければなりません。
2 成長と時間との相互の関係を述べなさい。忍耐に関するどんな警告は時宜を得たものですか。
2 赤ん坊が生まれて家族の一員に加わります。赤ん坊は前から成長していたのです。「あなたは,身ごもった女の胎の中で,どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは,すべての事をなされる神のわざを知らない」。(伝道の書 11:5)しかし今はその成長を見ることができ,聞くことができます。何ヵ月かたつうちに赤ん坊はしゃべるようになり,歩き始めます。早いもので学校にあがったと思うと卒業の時を迎え,やがて就職し,結婚して家庭を持ち,子の親となります。しかしこのような成長にはやはり時間が必要です。成長を早めたり,あるいは止めたりして制御できますか。外から見ていると成長がおそいので,自分に対しても人に対してもがまんできないように感ずるかもしれません。霊的な成長の場合にはとくにそうです。赤ん坊を育てるならば,何年かのちには子供に成長します。「地はおのずから実を結ばせるもので,初めに芽,つぎに穂,つぎに穂の中に豊かな実ができる」。(マルコ 4:28)神のことば聖書は神の霊によって作られた霊的な食物です。関心を持つ新しい人をこの神のことばで養うならば,やがて奉仕者が生まれます。しかし注意しなければならない事があります。赤ん坊を育てるのにその成長を無視していつまでも赤ん坊の食べものをスプーンで与えているならば,たとえからだは大きくなっても自分で何もできない子供になることでしょう。つまり精神的に成長しなかったのです。霊的な食物の場合にも同じことが言えます。霊的な知識を実際に用いることを妨げ,また神の霊が人の心を動かし,行動を支配するのを待たず,気短かになるならば,円熟しつつある奉仕者ではなくて赤ん坊のような未熟な人が生まれます。
3 どうすれば成長をつづけることができ,またエホバの霊の感化を受ける道から迷い出るのを避けられますか。
3 成長がとまるならば,からだのどこかに非常に悪いところがあるのです。霊的な食物をとるのをやめると,成長がすぐにとまります。勉強をへらし,集会の出席を少なくし,宣教奉仕を後回しにしていると,神の霊の働いていないところに迷い出てしまいます。それを避けるために,勉強,集会,奉仕を増し加えて毎日少しずつ成長しなさい。ペテロは次のように書いています。「愛する者たちよ。それだから,あなたがたはかねてから心がけているように,非道の者の惑わしに誘い込まれて,あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。そして,わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて,ますます豊かになりなさい」― ペテロ第二 3:17,18。
4 (イ)成長の力の源に関する近視眼的な考えは,どんな聖書の原則によって拭い去られますか。(ロ)成長の目標はどこにありますか。
4 「成長させて下さるのは,神である」と述べたことばは,成長するための力の源を疑問の余地なく明らかにしています。聖書をある程度学んでのち神に献身し,水のバプテスマを受けたこと自体によって,生活全体が正しくなったわけではなく,忠実が保証されたわけでもありません。霊的な食物なしに熱意だけで全時間の宣教に飛び込んでも,成長はつづきません。エホバの証人の大会や集会に出席するならば強められることは確かですが,それだけで成長をつづけることはできません。円熟するために必要なすべてのものが,熱心な神のしもべとの交わりから得られるわけではありません。勤勉な神のしもべとの交わりは徳を高めます。しかし生命は人それぞれに受けるものであって,人のものが自分のものになることはありません。生命は,神からみ子キリスト・イエスをとおして与えられるものです。それは得るか失うかのどちらかであってそれ以外にはありません。霊的な食物をとり,また消化するのに近道や安易な道はないのです。エホバへの奉仕は怠惰な人のすることではありません。それは自分を楽しませるための週末の旅行のようなものではありません。心を変えて「新しい人格」を身につけることは,正確な「知識」によって可能になります。(コロサイ 3:10)パウロはテサロニケ会衆の兄弟たちの成長を見て喜び,次のように書きました。「兄弟たちよ。わたしたちは,いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない。またそうするのが当然である。それは,あなたがたの信仰が大いに成長し,あなたがたひとりびとりの愛が,お互の間に増し加わっているからである」。(テサロニケ第二 1:3)愛に成長することと信仰がこの人々の成長と密接に結びついていました。エペソ人への手紙 4章13節のことばに「わたしたちすべての者が,神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し」と述べられているとおり,信仰は正確な知識によってつちかわれます。エホバ神はキリスト・イエスによりこの成長への道を開かれました。「あなたがたは,イエス・キリストを見たことはないが,彼を愛している。現在,見てはいないけれども,信じて,言葉につくせない,輝きにみちた喜びにあふれている。それは,信仰の結果なるたましいの救を得ているからである」。(ペテロ第一 1:8,9)ペテロの第一の手紙 2章2節は,神のしもべの成長をひとことで述べています。それを心に留めてください。「今生れたばかりの乳飲み子のように,混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち,救に入るようになるためである」。
満ちたりた生活
5 どんな考え方をするとき,あらゆる環境とくに困難でない時エホバに奉仕する励みを得ますか。
5 次のことも理解しておかねばなりません。柔和な人々がエホバに奉仕するように心を動かされるのはなぜですか。恐れのためですか。中には恐れのために神への奉仕をはじめる人がいるかもしれません。しかし愛をつちかって恐れを捨てなければ,生命の道に成長する歩みは止まってしまいます。(ヨハネ第一 4:18)政府の弾圧,宗教団体からの迫害によって,神への奉仕に励む動機を得たり,あるいは非常な悪天候また前例を見ない国内の不穏な情勢のために宣教に一時的に熱をあげたりする人が中にはいます。しかし妨げや障害がなくなったとき,人はくる日もくる年もくる時代も,永遠にわたってエホバ神に奉仕しますか。まことの神エホバの崇拝は満ち足りた,充実した生き方ですか。このような見方をするほうが賢明です。ハルマゲドン後,エホバのみこころに敵対するものは存在しません。―マタイ 5:5。詩 37:10,11。イザヤ 65:21-23。黙示 21:3,4。
6,7 (イ)聖書的な訓練によってつちかわれた態度と,気の短い態度とをくらべなさい。(ロ)神のことばはどのように働きますか。
6 ここで二,三のことを考慮しなければなりません。人間は生きることを願い,したがって寿命をのばすことには関心を払っています。そして聖書は,終わりのない生命を従順な人類にさしのべているのです。聖書が現代に持つ意義を,理解した人は,いっそう成長するように動かされ,聖書を研究することで知られたエホバの証人と交わります。ある人はさらに将来を見,神の証人となってみ名を負い,それを全地に宣明してエホバのみ名の立証を擁護する大きな特権のあることを悟ります。しかし,このすべてにおいて人の心を動かし,人を行動させる真理の働きは静かです。モーセは神のことばについて次のことを述べました。「わたしの教は雨のように降りそそぎ,わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように,青草の上にくだる夕立のように」。(申命 32:2)エホバから授けられる教えをこのように描いたことばにつづいて,詩篇 72篇7節は「彼の世に義は栄え(る)」と述べています。慰めを与え,静かに成長を促す神のことばからは良いものが生まれます。
7 気短かな人は,大地震,津波のような大災害,文字どおり地球をゆり動かす出来事を神が起こすならば,人々は仰天して神の組織に逃げ込むだろうと考えます。人々を仰天させて神の組織にはいるように仕向けるため,神が天を衣のように巻き,天を震わせるなどと考えるのは愚かなことです。そのようなことが起きるのはハルマゲドンの時です。その時に行動をおこして神のしもべに成長しようとしても,間に合わないでしょう。ナアマンのらい病をいやしたのは天から響くラッパの音ではなく,ヨルダン川に7回つかることでした。(列王下 5:1,14)ソロモンの時代に宮の建築はどのように行なわれましたか。それは静かに行なわれました。(列王上 6:7)イエスはどのように12使徒を選びましたか。やはりそれは静かに行なわれました。(マルコ 3:13-15)ふりかえって,神の忠実なしもべの成長を見ることができるのは特権です。今日,柔和な人々が円熟に成長するのを見るのも,言いつくすことのできない祝福です。しかしイザヤ書 55章10,11節によれば,成長になお欠くことのできないものがあります。その聖句は次のように述べています。「天から雨が降り,雪が落ちてまた帰らず,地を潤して物を生えさせ,芽を出させて,種まく者に種を与え,食べる者にかてを与える。このように,わが口から出る言葉も,むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし,わたしが命じ送った事を果す」。
神の霊の力を認める
8 (イ)イザヤ書 55章10,11節は,エホバのことばの働きをどのように強調していますか。(ロ)そこでクリスチャンの奉仕者は,神の求められる事柄をどのように,どんな態度で他の人に教えますか。
8 神のことばの力,それが成し遂げるもの,その目的を理解することは肝要です。神のことばは神の霊でみたされています。賢明な人はそのことを考え,神のことばと霊が成果を生み出すのを忍耐強く待ちます。そして霊の働きを妨げるようなことをしません。わたしたちが他の人のかわりに功徳を積むことができないのはそのためです。聖書の教え,戒めを授けて援助することは言うまでもありません。しかしどうすべきかを示したならば,すなわち種をまいたならば,あとは神の霊の働きによって実るのを待てばよいのです。「人はそれぞれ,自分自身の重荷を負うべきである」。(ガラテヤ 6:5)詩篇 118篇8節(文語)に「エホバに依頼むは人にたよるよりも勝りてよし」と述べられた原則を心に留め,エホバを信頼して真理の種をまきなさい。興味を持つ人と聖書研究を司会するとき,この問題はしばしば起こるかもしれません。わたしたちはその人々が神の約束の祝福にあずかるのを熱望し,バプテスマをすすめたとします。そしてわたしたちを喜ばせるためにその人がバプテスマを受けたとすれば,それはみたまの働きではありません。神の霊は心に働きます。そして心が人を行動させるのでなければなりません。「人は心に信じ」ます。(ローマ 10:10)「わたしの言葉を,心に留め,わたしの戒めを守って,命を得よ」。(箴言 4:4)自分は何をすべきかを,はっきり知らなければなりません。それは聖書の教えを植えつけることです。神のことばが何を教えているか,神の組織がどのように運営されているか,清い行ないの必要なこと,宣教の特権について少しずつ教えなさい。ことばの壁,つんぼ,盲目などの身体障害のために,それは容易ではないかもしれません。また宗教的な偏見,人種的な誇り,ナショナリズム,階級差別などが多くの人にとって壁となっています。しかし一度にひとつずつ,聖書の教えを明確に植えつけてゆくならば,みたまの働きによって芽が出ます。神の霊は何世紀もの間,成長を促す力でした。今日その働きを疑う必要はありません。ペテロは諸国民の人々が神のことばを受け入れたことを,エルサレムで報告しました。そのとき,ある人々は「彼をとがめ」ました。(使行 11:2)そこでペテロは,反論できない次の原則を述べてそれに答えました。「このように,わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を,神が彼らにもお与えになったとすれば,わたしのような者が,どうして神を妨げることができようか」― 使行 11:17。
9 神の霊が組織をとおして神の奉仕者に働くと言えるのはなぜですか。
9 黙示録 14章6節によれば,福音を全地に宣べ伝えるわざは,エホバの天使によって導かれています。(マタイ 24:14)それでこのわざは神の霊のうしろだてを得ています。わざは成し遂げられねばなりません。このわざを遂行するため,地上で働く人々に訓練が与えられています。これは収穫にたとえられているわざです。(マタイ 9:37)なすべきことは,勤勉な奉仕者から成るこの組織とともに成長し,ともに働き,協力し,霊の導きに従うことです。詩篇 26篇12節(文語)に「わがあしは平坦なるところにたつ,われもろもろの会のなかにてエホバを賛めまつらん」と述べられているような人になってください。組織の中にあって兄弟たちとともに働きなさい。そうすればエホバの天使と霊に導かれるでしょう。
昔も今もエホバの霊が成果をもたらす
10 (イ)初期クリスチャン時代に,問題はどのように組織によって解決されましたか。神の霊はそのことにどのように関係していますか。(ロ)今日同じ霊の力を得てこの同じ働きをしている組織がありますか。
10 神の霊は,初期クリスチャンの時代の会衆の組織にも働いていました。論争や問題はエルサレムの統治体の指示を仰いで解決したのです。統治体の決定は次のようにして諸会衆に伝えられました。「そこで,使徒たちや長老たちは,全教会と協議した末,お互の中から人々を選んで,パウロやバルナバと共に,アンテオケに派遣することに決めた。選ばれたのは,バルサバというユダとシラスとであったが,いずれも兄弟たちの間で重んじられていた人たちであった」。(使行 15:22)こうして諸会衆は割礼,淫行,血を食べることに関して,とるべき聖書的な道を短時間のうちに知らされました。その結果,神の霊によって会衆が成長したことは,使徒行伝 16章4,5節にしるされています。「それから彼らは通る町々で,エルサレムの使徒たちや長老たちの取り決めた事項を守るようにと,人々にそれを渡した。こうして諸教会はその信仰を強められ,日ごとに数を増していった」。さて今日でもエホバの組織は,兄弟たちが直面している問題に関して,聖書的な教訓を与えます。また組織からつかわされる円熟した奉仕者が会衆を訪問して兄弟たちを援助します。また100万人以上のエホバの証人が全世界で戸別訪問を行なっており,神のみ名,ハルマゲドンの戦い,大いなるバビロン」の正体など,大切な事柄について,世界中の証人が数週を経ずして全世界の無数の人々に知らせることができます。何が成し遂げられましたか。大ぜいの人が答え応じて,生命に至る道を歩みはじめました。昨年1965年だけでも6万4393人がバプテスマを受け,エホバに奉仕する喜びの生活を始めました。(1966年度エホバの証人の年鑑)過去50年間にエホバの証人が行なってきたことは人間の力や知恵によって成し遂げられたのではありません。彼らは神の霊に動かされ,またエホバの導きに従いました。教えられることを願ったその祈りは,詩篇 143篇10節にあるダビデの祈りと同じく答えられました。「あなたのみむねを行なうことを教えてください。あなたはわが神です。恵みぶかい,みたまをもってわたしを平らかな道に導いてください」。エホバの証人の新世社会は今日,霊的に繁栄した幸福な組織であり,エホバの祝福と支持を得ています。
11 他の人の成長を助ける時,どんな肝要な点を心に留めなければなりませんか。成長にはどんな事が関係していますか。
11 エホバの霊の働きは,心にエホバの霊を受けた兄弟たちを見ても認めることができます。人はエホバ神への奉仕に献身する時,成長することを望みます。また他の人を助け,会衆の運営に必要な多くの務めをいくらかでもはたす責任を喜んでひき受けます。進歩のはやさは人によってまちまちです。しかしエホバの霊は人をいらだたせません。それで会衆の監督には忍耐が必要です。責任をはたすという点で兄弟の成長を認めるならば,忍耐は容易になり,成長を見守ることは喜びとなります。他の人を訓練するには時間をとることが必要であり,また人は初めから上手にやれるわけでもありません。しかしみたまの働きによってやがて真の助け手が生まれます。気をもんでも神の霊の働きは促進されません。何をどのようにするかを教えたならば,あとは成長と進歩を待つことができます。まちがいをし,失敗しても,やりなおして改善することに努めればよいのです。木の成長にしても毎日眺めて暮らすならば,どれほどの成長が見られるでしょうか。兄弟の進歩の場合,それはひとつの方向に限られていないことに留意してください。戸別訪問の宣教に訓練を授ける円熟した奉仕者は,まず聖書の話を一緒に準備し,それから実際の戸別伝道に連れだって行きます。そして神のことばから福音を伝えることに上達するため,宣教の時間をふやすように計画することをすすめるかもしれません。しかし奉仕がそれほどふえたように見えない時,落胆しますか。しかしその人は以前よりも多くの時間を子供たちとすごし,子供たちに毎日,神のことばを教え,少なくとも毎週,家族と聖書を研究して,前よりも良い父親となっていることを考えなければなりません。その人は職場でも前以上によく働き,要求以上につくしているので,やとい主からはなんの苦情も出ません。その人は進歩しているのです。そしてローマ人への手紙 13章8節の戒めに注意を払っています。「互に愛し合うことの外は,何人にも借りがあってはならない」。
励み
12 自分自身また他の人が成長していないようにみえても,どんな保証から励みを得ますか。
12 わたしが聖書を教えているあの人はいっこうに進歩しない ― あなたはこのように言ってあきらめてしまいますか。進歩がおそいという理由で,兄弟を教えることをやめてしまいますか。自分に失望して,自分はエホバに用いられる器ではない,わたしはさっぱり進歩しないし,他の人のように上手にできないと考えますか。しかし考えてごらんなさい。エホバは活動力である霊を送り,宇宙の宝石のような地球すなわち動物,鳥,魚が住み,人間の住みかである肥沃な美しい地球が造られました。では霊の働きによって人間が改革され,成長を促されるのは容易なことではありませんか。しかし次のことを考慮しなければなりません。まず,それには時間が必要です。伝道の書 3章11節はこう述べています。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお,人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」。第2に,それは心の中で起きることです。エレミヤ記 31章33節は次のように述べています。「然どかの日の後にわがイスラエルの家に立んところの契約はこれなり即ちわれ我律法を彼らのうちにおきその心の上にしるさん我は彼らの神となり彼らはわが民となるべしとエホバいひ給ふ」。(文語)コリント人への第二の手紙 3章3節に「あなたがたは自分自身が,わたしたちから送られたキリストの手紙であって,墨によらず生ける神の霊によって書かれ,石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを,はっきりとあらわしている」と述べられています。第3にそれは力によらず,霊の働きです。しかも喜んで従う心に霊の働きを受けなければなりません。「従順な子供として,無知であった時代の欲情に従わず」。(ペテロ第一 1:14)「あなたの心を教訓に用い,あなたの耳を知識の言葉に傾けよ」― 箴言 23:12。
13 土壌は成長と関係がありますか。どんな種類の土地がすすめられていますか。
13 成長というこの問題と関連して,土壌のことを考えてごらんなさい。ルカによる福音書 8章5節から15節にイエスの次のたとえ話があります。「種まきが……まいているうちに,ある種は道ばたに落ち,踏みつけられ……ほかの種は岩の上に落ち,はえはしたが水気がないので枯れてしまった。ほかの種は,いばらの間に落ちたので,いばらも一緒に茂ってきて,それをふさいでしまった。ところが,ほかの種は良い地に落ちたので,はえ育って百倍もの実を結んだ」。さて,種のまかれた土はどんな状態でしたか。道ばた,岩,いばらの間があり,良い地がありました。良い地がどんな地であったかは15節に述べられています。「良い地に落ちたのは,御言を聞いたのち,これを正しい良い心でしっかりと守り,耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」。人はそれぞれ固い岩のような心,あるいはいばらの地のような心あるいは良い心のどれかを持つことに定まっているのですか。そうではありません。固い土も耕し,岩も肥沃な土壌に代え,いばらも除いて焼き捨てることができます。それは心の持ち主しだいです。
14 エホバの霊の下に成長するため,各人の願いまた目標が肝要なわけを説明しなさい。
14 あなたの願いはどんな事ですか。わたしたちは与えられた一代の生命の一部をすでに生きてきました。これをどのように用いることを望んでいますか。神に仕え,崇拝をささげることを誠実に願っているならば,なすべきことは成長することです。神の健全な霊に導かれて成長しなさい。神のことばがひろまるところには,成長が見られます。(使行 6:7)あなたの願いや目標はそのことと関係があります。成長するには,神に仕えるかぎり忍耐づよく耕し,水をそそぎ,育てなければなりません。成長期のよい時期を利用することが必要です。いばらがいつのまにか根をおろすことのないように,生活の中で神を第一にします。詩篇 92篇12節から15節はこのように育つことを述べています。「義しきものはしゅろの樹のごとく栄えレバノンの香柏のごとくそだつべし エホバの宮にうえられしものはわれらの神の大庭にさかえん かれらは年老いてなほ果をむすび豊にうるほひ緑の色みちみちてエホバの直きものなることを示すべし,エホバはわが厳なりエホバには不義なし」― 文語。
成長しつづけなさい
15 ひとたび成長を始めたならば,安心できますか。答えの理由を述べなさい。
15 紀元前903年から774年までの間にユダを治めたヨアシ,アマジヤ,ウジヤ各王の統治は,成長しつづけることの必要をよく示しています。これらの王はいずれもさい先の良い出発をしましたが,その成長はまもなくとまり,かえって災いがふえはじめました。神の預言者を殺したヨアシは,反逆した自分自身のしもべに殺されました。「エホバを棄てた」ヨアシはエホバの保護を受けませんでした。(歴代下 24:24)アマジャはエホバから離れ,エドム人の偶像崇拝に転じました。ウジヤは高慢になり,潜越になってらい病を身に招きました。(歴代下 24:1-26:23)エホバを崇拝することは,もともと利己的な動機から発した願いですか。それとも箴言 4章4,22節の教えを守って常に成長を目ざす,わたしたちの心からの願いですか。「わたしの言葉を,心に留め,わたしの戒めを守って,命を得よ。それは,これを得る者の命であり,またその全身を健やかにするからである」。
16 エホバのしもべは成長するにつれてどう変わってきましたか。成長して行くならばどんな将来がありますか。
16 真理の水を初めて飲み,成長しはじめた時のことを回顧してごらんなさい。少しずつ進歩して,聞く者から語る者になり,受ける者から与える者になり,小さな種であったのが実を結ぶ木に成長したのです。あなたは固い決意を抱いて変化を成し遂げました。節度のある飲食は束縛感を与えるよりも本当に楽しむことを教えました。聖書の教える高い道徳の水準を受け入れたあなたは,多くの清い友を得ました。快楽を追って疲れや失望を味わうことをやめ,かわって平衡のとれたプログラムに従って神のことばを学び,成長しつつある他の奉仕者とともに集会に出席し,神の国の福音を公に伝道することに加わり,また真に有益なリクリエーションに時をすごすようになりました。それがすべてですか。そうではありません。このすべては一,二年でも成し遂げられます。根は深くなり,幹は太く,枝は丈夫に,実は豊かになって行きます。前途には何年も何世代もあり,終わりのない時があるのです。成長する時が無限に,永遠にわたってつづくのです。聖書を読み返すごとにビジョンは大きくなり,視界は広くなり,認識は深くなります。神の霊に導かれる限り,パウロのことばのように「御霊はすべてのものをきわめ,神の深みまでもきわめ」ます。(コリント第一 2:10)ゆえに初めから現在に至るまで,そして将来もずっと詩篇 1篇1節を座右の銘として生きるようにしましょう。「悪しき者の謀略にあゆまず,つみびとの途にたたず嘲るものの座にすわらぬ者はさいはひなり かかる人はエホバの法をよろこびて日も夜もこれをおもふ かかる人は水流のほとりにうえし樹の期にいたりて実をむすび葉もまたしばまざる如く,そのなすところ皆さかえんそはエホバはただしきものの途をしりたまふ」― 詩 1:1-3,6,文語。