うたげへの招きに応ずる
1,2 (イ)ダビデは全イスラエルの王として,どの町で治めましたか。そしてどなたの位に坐りましたか。(ロ)ダビデ王の予影したかたは,どこに坐って治めますか。従って宴を楽しむ地上の人々には何が要求されますか。
イザヤ書 25章6節の預言通り,万軍のエホバは天の御国の崇高な場所である「この山」において,地上のすべての民のために宴を設けられます。3000年前,当時のエルサレムの町のシオンの山から治めたダビデ王は,エホバの名によって治めました。ダビデはその国の真実の王である万軍のエホバを代表していたので,シオンの山のダビデ王は「エホバの位」に坐ると言えました。その位をついだのは,ダビデの賢い息子ソロモンです。(歴代上 11:4-9; 29:23,文語)ダビデ王の予影した神のみ子イエス・キリストは,西暦1914年以来,天のシオンの山において即位し,エホバの位すなわち神の右に坐しています。(詩 110:1,2。使行 2:29-36。黙示 3:21)イエス・キリストによって,神は宴を設けます。
2 このゆえに,神の国の領域である地に住む人々は,この宴に与ることを望むならば,神の愛するみ子の天の国に忠誠と献身と従順を示さなければなりません。しかしそのために,地を離れて天に行く必要はないのです。
3 神はだれのために,この宴を設けますか。彼らはなぜこの宴を必要としていますか。
3 万軍のエホバはみ子イエス・キリストを用いて,すべての人のためにこの宴を設けます。これには次のような理由があるのです。ほとんど6000年のあいだ,人間はすべて死の道をたどってきました。人が死ぬと,食べること,飲むことは終わります。食べたり飲んだりするには,生きていなければならず,また健康でなければなりません。また同時に生きつづけるには,食べること,飲むことが必要です。全人類は最初の人から罪と死を受けついでいます。最初の人は子供をもうけて父親となる前に創造主である神に罪を犯し,神から死に定められました。(ロマ 5:12-14)創造主に対する反逆の罪のゆえに,最初の人とその妻はエデンの園にあった楽園の完全な住み家を追われ,その外で死ぬことになりました。こうして人間の罪の結果,地の荒廃,ききん,かんばつ,空腹と飢餓が生ずるようになったのです。クリスチャンの使徒パウロは次のように述べています。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」― ロマ 6:23。
4 神はどのようにみ子によってこの宴を可能にしましたか。み子はどのようにご自身を食物にたとえましたか。
4 人類を罪から救い,罪のもたらした死を取り除くために,エホバ神はみ子が地上に完全なイエス・キリストとなって犠牲の死を遂げるようにされました。イエス・キリストは子供を持たず,従って完全な人類の父となる権利さえも犠牲にしました。イエスを生んだ国民は,むかし奇跡的な食物によって40年間養われました。そこでイエスはご自分の完全な犠牲をこのような食物にたとえています。「わたしは命のパンである……わたしは天から下ってき生きたたパンである。それを食べる者は,いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは,世の命のために与えるわたしの肉である」― ヨハネ 6:48-51。
5 「命のパン」はいまどこにありますか。ゆえに食べて永遠に生きるため,地上の人々は何をしなければなりませんか。
5 さて天に戻った神のみ子イエス・キリストは,ご自身が人間となってささげた犠牲の価値すなわち「命のパン」を持ち,み父の天の国においていま治めています。ゆえにこの地の人々が地上において食べて永遠に生きるには,天のシオンの山にある神の国を認めなければならないとしても,それは当然ではありませんか。いま支配している神のみ子イエス・キリストを王として受け入れ,動くことのない忠節と従順を表わすことが必要です。信仰を抱いてその事をしなければなりません。
6 (イ)「命のパン」を食べること自体,どうしてうたげにあずかる事であると言えますか。(ロ)宴に関するイザヤの預言の成就には,どんな面がありますか。
6 人が信仰を抱いて天からの「生命のパン」を食べ,永遠の生命を得る結果になれば,それだけでも宴に与ったと言えるでしょう。どんなに多くのごちそうを並べた宴会であっても,それを食べて永遠の生命が得られるわけではありません。しかしみ子の手にゆだねられた神の国に従う人々は,信仰によって食べる以上のことをします。すなわち文字通りにも肉体を養う食物を食べ,平和と健康と幸福に恵まれて永遠に生きるからです。宴に関するイザヤの預言には,霊的な面にかぎらず文字通りの意味にとれる面もあるのです。忠節で従順な人々は,いわば「髄おほき」肥えたものを文字通りに食べるでしょう。それは心を強くし,顔をつややかにします。久しく貯えたすんだぶどう酒は,その人々の心を喜ばせます。(詩 104:14,15)これらのものは人をすこやかにします。
7 ソロモンに関して述べた詩篇 72篇は,神の愛するみ子の下で地におとずれる繁栄をどのように預言していますか。
7 神の愛するみ子が王となって治める地におとずれる繁栄を,預言は次のように述べています。「彼は刈り取った牧草の上に降る雨のごとく,地を潤す夕立のごとく臨むように。彼の世に義は栄え,平和は月のなくなるまで豊かであるように。彼は海から海まで治め,川から地のはてまで治めるように。国のうちには穀物が豊かにみのり,その実はレバノンのように山々の頂に波打ち,人々は野の草のごとく町々に栄えるように」。(詩 72:6-8,16)このような豊じょうはソロモン王の治めた世に見られました。しかしソロモンの予影したイエス・キリストは大いなるソロモンです。(マタイ 12:42)ゆえにキリストの国の下において地の産物の豊かさは,ソロモン王の時をしのぐでしょう。
楽園は復興して全地に及ぶ
8 杭にかけられて死ぬとき同情心を示した人にイエスの言われた言葉と一致して,地は御国の下でどのように変化しますか。
8 全人類の空腹をみたし,そのからだを養うのに十分な食糧がそのとき生産され,従って地上の状態は今日とは全く異なったものになります。神が最初の男と女を住まわせた地上のパラダイスに,食糧不足はありませんでした。二人は罪のない,完全な状態におかれていました。天のシオンの山から治めるキリストの国の下で,この楽園は復興し,地のはてにまで拡大されます。それでこの楽園が全人類の住みかとして狭すぎることはありません。従って西暦33年ニサンの14日,あの暗い日に,イエスのかたわらの杭にかけられていた,同情心のある人に対して,イエスが死の直前に語った言葉にはすばらしい意味があるのです。「今日まことに我なんぢに告ぐ,汝は我と共にパラダイスにあるべし」― ルカ 23:43,ロザハム。新世。
9 詩篇 65篇は全地にわたる楽園を,どのように預言的に描写していますか。
9 神の御国の下に全地にひろがる楽園の美と豊かさは,私たちに想像できる以上のものです。シオンにいます神に語りかけた詩篇 65篇はそれを預言的に描写し,一部次のように述べています。「あなたは地に臨んで,これに水をそそぎ,これを大いに豊かにされる。神の川は水で満ちている。あなたはそのように備えして彼らに穀物を与えられる。あなたはその田みぞを豊かにうるおし,そのうねを整え,夕立をもってそれを柔らかにし,そのもえ出るのを祝福し,またその恵みをもって年の冠とされる。あなたの道にはあぶらがしたたる。野の牧場はしたたり,小山は喜びをまとい,牧場は羊の群れを着,もろもろの谷は穀物をもっておおわれ,彼らは喜び呼ばわって共に歌う」― 詩 65:1,9-13。
10 詩篇 67篇によれば,その時地は何を産出しますか。それはなぜですか。
10 詩篇 67篇6,7節は,これに次の言葉を加えています。「地はその産物を出しました。神,われらの神はわれらを祝福されました。神はわれらを祝福されました。地のもろもろのはてにことごとく神を恐れさせて下さい」。
11 ミカ書 4章3,4節の預言は,どのように成就しますか。
11 戦争のない,平和なその世において,ミカ書 4章3,4節の預言が文字通りに現実のものとなります。「国と国とは剣をあげて相攻めずまた重ねて戦争を習はじ 皆その葡萄の樹の下に坐しその無花果の樹の下に居らん之をおそれしむる者なかるべし万軍のエホバの口これを言ふ」。(文語)
からだを養う食物以上のもの
12 神の国の下に住む人類にとって,からだを養う食物だけで十分ですか。イエスは生きるための糧について,何と言われましたか。
12 み子イエス・キリストの治める神の国の下に,幸いにも生きることのできた人々には,からだを養う食物と飲み物以上のものが備えられるでしょう。どんな食物や飲みものでも心の望むままに得,また健康のために医者のすすめるどんな薬でも買うことのできる人がいます。しかしそれでも永遠に生きることはできません。からだを養う食物以上のものがいま必要です。神の国の下に生きるその時にも,物質的な食物以上のものが必要なことは変りません。イエス・キリストは,40日間の断食を終えた時でさえ,神のことばを引用して次のように述べました。「『人が生きるのはパンのみにはよらず,エホバのみ口から出るすべての言葉による』と書かれている」。(マタイ 4:4,新世。申命 8:3)からだを養う食物以上に,霊的な食物が必要です。この霊的な食物とは神のことばです。神のことばは神の教えと戒めであり,何をすべきかを私たちに告げています。神のことばに従って生活し,神のみ心を行なうことは,人間にとって生命をささえる食物となり,飲みものとなります。
13 イエスはご自分の食物について,また沢山のものを持っても生命のためには益のないことについて,何と言われましたか。
13 最も偉大な人であったイエス・キリストは,この事実を指摘しました。やはり空腹を覚えた別のとき,イエスはすすめられた食物を口にする前に,「わたしの食物というのは,わたしをつかわされたかたのみこころを行い,そのみわざをなし遂げることである」と言われました。(ヨハネ 4:34)物質主義のとりこにならないように警告した言葉の中で,イエスは次のことを語っています。「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても,人のいのちは持ち物にはよらないのである」「命は食物にまさり,からだは着物にまさっている。」(ルカ 12:15,23)飢えている人はとくに,物質的な食物を神とし,腹を自分の崇拝する神にしてしまう危険があります。
14 空腹のインド人は,神がどんな形で現われることを望んでいますか。しかし他にどんな人でも,腹を神にすることがありますか。
14 何年も前,インドの聖人ガンジーは,1日1回しか食べることができず,あるいはそれにさえ事欠くインドの大衆が飢餓の窮状にあってまさにこの事をしていると述べています。「1日1度の食事で我慢しなければならない何百万の人々にとって,神というものがあるとすれば,それは食べもの以外の何ものでもない」。しかし飢えている大衆だけでなく,食物の豊富な人々でも食べものを神にし,自分の腹を神にして真の神を忘れ,永遠の生命を得させる神の備えを忘れることがあるのです。―ピリピ 3:19。1959年12月20日,ニューヨーク・タイムズ・マガジーン,28頁。
15 (イ)乳と蜜の土地にはいった後のことについて,モーセはイスラエル人に何を警告しましたか。(ロ)いま天で支配するイエスは,人類に欠くことのできない食物についてどのように感ずるはずですか。
15 預言者モーセは,イスラエル人が「乳と蜜の流れる土地」を得,よいものをほしいままにするとき,エホバ神を忘れる危険のあることを警告しました。もしそうなれば,イスラエル人は他の神々の崇拝に心を転じ,身の破滅を招くでしょう。(申命 8:10-20)地に下ったイエス・キリストは昇天する直前,忠実な追随者が地のはてにまで行き,イエスの命じた事柄を教え,霊的な食物を人々に与えることによって,すべての国の人々を弟子にすることを命じました。(マタイ 28:18-20。ルカ 24:44-49。使行 1:6-11)ゆえに地上において人となった時のイエスがこのように感じていたとすれば,天のシオンの山から王として治めるとき,なおのことそのように感ずるはずです。
16 キリストの国の下における霊的な食物について,イザヤ書 11章1章から9節は何を述べていますか。イエスは,何が人類の生命を意味すると語りましたか。
16 預言者イザヤが,ダビデ王の父エッサイの子孫であるイエスの支配について述べた事柄はこの事実と一致しています。「正義はその腰の帯となり忠信はその身のおびとならん……かくてわが聖山の何処にても害ふことなく傷ることなからん,そは水の海をおほへるごとくエホバをしるの知識地にみつべければなり」。(イザヤ 11:1-9,文語)神を知る知識にすすみ,この霊的な食物と一致した生活をすることによって,地の人々は永遠の生命を得ます。イエスご自身,神に祈った言葉の中で次のように言われたからです。「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります」― ヨハネ 17:3。
死者も宴につらなる
17 (イ)今日将来を見通している人々のどんな懸念は,エデンのアダムとエバを祝福した時の神にとって無用のものでしたか。(ロ)そこで神は,世界的な宴にだれがつらなることを目的とされましたか。
17 今日,将来を見通す人々は,今世紀の終わりまでに,ないしはその後間もなく,世界人口が食糧の供給という点から見て過剰になるとの懸念を表明しています。それで人口増加を抑制し,各世代に対して一定の線以下に人口をおさえることが必要であるとされています。しかしすべての民のために宴を設けることを預言したエホバにとって,そのような心配は無用です。最初の人を創造してエデンの楽園に住まわせたエホバは,子孫をふやして地をみたし,地を(荒廃させるのではなくて)治め,あらゆる動物を支配することを命じました。(創世 1:20-28)エホバ神がアダムとエバにそれを告げたとき意図したほど,地に人の満ちたことはまだありません。しかしみ子イエス・キリストの治める国によって,地は神のかたちに造られた人で満ち,全地は人間と動物を益するように治められます。このために全能の神は,死んで墓にいる人々でさえも世界的な宴につらなることを目的とされました。
18,19 比喩的に言って,すべての国と人々はどのようにおおいをかけられていますか。
18 宴の発表につづいて,神は預言者イザヤに次の霊感の言葉を加えさせました。「又この山にてもろもろの民のかぶれる面帕ともろもろの国のおほへる外帔をとりのぞき とこしへまで死を呑み給はん,主エホバは凡ての面より涙をぬぐひたまはん」― イザヤ 25:7,8,文語。
19 神がこの事をして下さるのは,すべての民の宴におけるつきない純粋な喜びのために必要ではありませんか。人々はやみにおおわれています。そして自由と啓発を与える光の中に逃れ出ることができないでいます。国々はおおいの下に置かれているために視野をさえぎられ,神を悟らず,神の恵みを受けず,死のとばりに包まれています。今日の国々が混乱と不安と失望の不幸な状態にあることは,それを明白に物語っています。
20 神はこれらのものを「この山」においてどのように呑みつくしますか。
20 最高至上の神は天から地を見おろして,すべての人々の上にひろがるおおいをごらんになり,地のすべての民を祝福するとの約束に従って,このおおいを取り除くことを目的とされました。「この山」において,すなわち天のシオンの山にある神の国によって,神はこの暗黒をもたらしたもの,真理の栄光の輝きをさえぎり,人々が自由を得るのを妨げているものを呑みつくします。(ヨハネ 8:32。コリント後 6:14-16; 4:4-6)不従順となった最初の人間から受け継いだ罪のゆえにすべての国の人に及んだ死の宣告は呑みつくされます。いま王となった神の小羊イエス・キリストの犠牲によって罪は除かれ,死の定めはなくなります。神はこのようにして救いを備えました。(ヨハネ 1:29,36)生きてこの救いを見る人々は本当に幸いです。
21 このすべてはだれの益となりますか。イザヤ書 25章8節の預言的な約束をはたすために,神は何をしますか。
21 しかしこの益にあずかるのは生きている人々だけではありません。死んだ無数の人々もその益を受けます。罪人アダムから受け継がれた死が何時までも支配しているなら,神は「とこしえに死を滅ぼし」たと言えますか。親族や愛する者を大いなる敵である死の手に奪われた人々が,なくした者たちを取り戻せないなら,神は「すべての顔から涙をぬぐい」とって下さると言えますか。神の預言的な約束が成就するには,死者の復活がなければなりません。そして復活によって地球上の人口が過剰になるおそれはないのです。神の知恵と力を考えるなら,死者の復活によって人口が過剰になることは考えられません。
22,23 (イ)パウロがイザヤ書 25章8節を引用していることから,この約束は14万4000人にだけ適用されると言えますか。(ロ)この預言の一部は他にもどこに引用されていますか。どんな文脈の中におかれていますか。それは何を保証していますか。
22 使徒パウロはコリント前書 15章54節において,死が永遠に呑みつくされるという栄光の預言を,イエス・キリストと共に天国を相続する14万4000人にまず適用しました。しかし死が永遠に呑まれることは,この人々についてだけ言えるのではありません。地からあがなわれた14万4000人のほかにも,死んだ人々があり,これからも死ぬ人々があります。死が永遠に呑まれるためには,人類のすべての人々の間から死をなくさなければなりません。聖書の巻末の本黙示録の最後から2番目の章に,イザヤの預言の一部が引用されています。それはなぜですか。死者の復活の最後的な保証を私たちに与えるためです。使徒ヨハネは黙示の中で天の神の国が地を全く支配するようになり,地の状態を変えて「新しい地」を造り出すのを見ました。
23 ついでヨハネは,神のみくらから叫ぶ声がイザヤの預言を引用して次のように言うのを聞きました。「見よ,神の幕屋が人と共にあり,神が人と共に住み,人は神の民となり,神自ら人と共にいまして,人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや,死もなく,悲しみも,叫びも,痛みもない。先のものが,すでに過ぎ去ったからである」。(黙示 21:1-4。イザヤ 25:8)これから見て,死者もうたげへの招きを神から受け,それに応ずることができるでしょう。
24 エホバの民が敵の手からいま受けているどんなものが,そのとき除かれますか。なぜですか。
24 そのとき人々は神に対してどんな態度をとりますか。また神の民に対してどんな態度を示しますか。今日,み子イエス・キリストを通してエホバ神に献身した人々は,世界中の多くの人から敵視され,非難されています。公の記録を見ても,法廷の記録をしらべても,エホバの証者に対する迫害の例は決して少数ではありません。イエス・キリストご自身もそれを預言しました。またエホバの証者のおもな者であったイエス・キリストは非難を受け,当時の宗教指導者の手によって残酷な死に渡されました。(マタイ 24:9; 10:22,23,34-36)しかし生者と死者を問わずすべての人のために宴の設けられるとき,事態は異なるでしょう。エホバの愛によってこのすべての事が人類のために行われるとき,イザヤ書 25章8節にしるされた通りの結果になるでしょう。「主エホバは……その民のはづかしめをのぞきたまはん,これはエホバの語りたまへるなり」。エホバはご自身の証者の正しいことを立証し,ご自身が真の神であることを証明します。
25,26 イザヤ書 25章19節によれば,人々はその時どのように満足しますか。また私たちはそのとき何を喜びますか。
25 エホバに献身して,その民となり証者となった人はすべて幸福であり,心からの満足を得ます。この預言の次の節はその事を保証しています。「その日かくいはん,これはわれらの神なり,われら俟望めり彼われらを救ひたまはん是エホバなり,われらまちのぞめり我らそのすくひを歓びたのしむべしと」― イザヤ 25:9,文語。
26 感謝の気持ちを持つ,心の正しい人々が望むのはこのような神ではありませんか。このような神を俟ち望むべきではありませんか。俟ち望んでいるならばそのことばは成就され,私たちの願いが失望に終わったり,希望を打ち砕かれることはありません。私たちは,神の備えられた永遠の救いを喜び,もうすでに救いの道を歩むことができます。その益を自分のものだけにしておくことはできません。私たちは自分たちの喜びを熱心にわかちます。支配している王イエス・キリストによってエホバが永遠の救いを完全に得させて下さるとき,私たちの喜びはなお大きなものとなります。
すべての妨げは永遠に除かれる
27,28 (イ)私たちはなおどんな大きな妨げから救われることが必要ですか。(ロ)モアブの国はここで何の象徴に使われていますか。イザヤ書 25章10節から12節は,それについて何を述べていますか。
27 すべての民のために設けられるこの宴が全く現実のものとなる前に,一つの大きな妨げを除かなければなりません。現在このような妨げが存在しているのです。私たちはそれから救われる必要があります。この妨げはいったい何ですか。それは人間のいちばん大きな生ける敵サタン悪魔の組織です。抑圧的で不敬虔なこの組織がこれから滅びなければなりません。地上に存在するその見える部分は,跡かたなく滅びてしまうことが必要です。地は創造主である神のものであり,神の国の領域だからです。この見える組織が除かれることは,イザヤ書 25章の中で象徴的な語法により預言されています。預言者イザヤの時代に,モアブの国は悪魔の見える組織の一部であり,その行いは悪魔的でした。この預言者自身の国も時にモアブの手で苦しめられ,モアブはエホバの民にさからった国の一つに数えられています。(詩 83:2-8)イザヤ書 25章10節から12節は,悪魔の地上の政治組織の象徴としてモアブを用い,次のように述べています。
28 「エホバの手はこの山にとどまりモアブはその処にてあくたの水のなかにふまるる藁のごとくふみにじられん彼その中にて游者のおよがんとして手をのばすが如く己が手をのばさん,然どエホバその手の詭計とともにそのたかぶりを伏せ給はん なんぢの垣たかき堅固なる城はエホバかたぶけたふし地におとして塵にまじへたまはん」(文語)
29 (イ)エホバのみ手はどこにとどまりますか。それは何のためですか。(ロ)エホバはだれのようにみ手をのばしますか。どんな手段によってそうしますか。それはどんな結果をともないますか。
29 この預言の成就するとき,万軍のエホバのみ手は「この山」すなわち天のシオンの山にとどまり,その発表された宴を妨げようとする地上の者たちを一掃するために力を表わします。「サボースの主」すなわち「万軍のエホバ」と言われているように,エホバは王なるみ子イエス・キリストの下に強力な軍勢を従えています。ここでモアブの国によって象徴されているサタン悪魔の見える政治組織は,「あくたの水のなかにふまるる藁」のように踏みつぶされるでしょう。万軍のエホバはその軍勢を用いて,ちょうど昔泳ぐ者が手で水を何回も打ったように,悪魔の見える政治組織に破壊的な打撃を加えます。(あたかも)「垣たかき堅固なる」その城は倒され,地におとされてしまい,再建の望みはありません。
30,31 (イ)しかし地上において先ず何が滅びなければなりませんか。昔のどんな出来事はその象徴ですか。(ロ)従ってイザヤ書 25章1節から5節に預言的に述べられている「邑」は何ですか。
30 このように悪魔の見える政治組織は,その高慢な座からたたき落とされてしまいます。しかしバビロン的な偽りの宗教の世界帝国がまず倒れて永遠の滅びを受けるでしょう。(黙示 17:1-18)大いなるバビロンの宗教帝国は,ユフラテ河畔に建てられていた古代都市バビロンによって予表されていました。古代バビロンは,イスラエルに敵対した町として昔のイスラエルの歴史上きわめて顕著な位置を占めている町です。バビロンはエホバの民を非常に圧迫しました。紀元前607年には,エルサレムの町とエホバの宮を破壊し,生き残ったイスラエル人を遠くバビロンまでひいて行ったのです。イスラエル人はバビロンの奴隷となり,ペルシャの征服者クロス大王が世界強国としてのバビロンを倒してのち,紀元前537年に解放の布告を出すまではそこにつながれていました。それでイザヤ書 25章のはじめのほうに,名前をあげずに町とだけしるされているのは,大いなるバビロンすなわち偽りの宗教の圧制的な世界帝国のことです。大いなるバビロン以上にイザヤの預言の描写によくあてはまる町はありません。エホバは大いなるバビロンを滅ぼします。そこでイザヤは次のことを述べています。
31 「エホバよ汝はわが神なり我なんぢを崇めなんぢの名をほめたたへん,汝さきに妙なる事をおこなひ〔エホバの〕古時より定めたることを真実をもて成し給ひたればなり なんぢ邑をかへて石つかとなし堅固なる城を荒墟となし,外人の京都を邑とならしめず永遠にたつることを得ざらしめ給へり この故につよき民はなんぢをあがめ暴びたる国々の城はなんぢをおそるべし〔なぜ?〕そはなんぢ弱き者のとりでとなり,乏しき者のなやみのときのとりでとなり,雨風のふききたりて垣をうつ如く,あらぶる者の荒れ来るときの避所となり,熱をさくる蔭となりたまへり なおんぢ外人〔侵略してくる征服者〕のさわぎをおさえて旱ける地より熱をとりのぞく如くならしめ,あらぶる者の凱歌をとどめて雲の蔭をもて熱をとどむる如くならしめたまはん」― イザヤ 25:1-5,文語。
32 生き残ってこの預言の成就を目撃する人々は,何をしますか。そのときエホバはどのように治めますか。
32 エホバの民に敵対する宗教的,政治的な圧制者が滅ぼされるとき,地上にいてそれを目撃する人々は,自分たちの神エホバをますます崇め,エホバが救いをほどこし,願いをかなえて下さったことに対してエホバのみ名をほめるでしょう。(イザヤ 25:1,9)こうしてエホバの目的を妨げる者は地上にもはやいません。エホバの目的は,すべての民が食べ,かつ飲む豊かな宴を設けることです。万軍のエホバは勝利を得た王として,天のシオンの山にある天のエルサレムにおいて治めます。その時地にあってエホバに敵対する者はいません。油そそがれたイエス・キリストのすべての敵はエホバに滅ぼされてイエス・キリストの足台とされます。―詩 110:1-6。イザヤ 24:23。
33 (イ)そのときエホバは「この山」に何を設けますか。だれがそれを享受しますか。(ロ)ゆえに私たちはどのように今日喜ぶことができますか。
33 「命のパン」であるみ子イエス・キリストの治めによって,エホバはその御国の山にすべての民の宴を設け,昔からの約束を成就します。ハルマゲドンにおける「全能の神の大なる戦闘の日」を生き残る人々は,その宴を楽しむでしょう。またすでに死んだ無数の人々も,復活を受けます。感謝の心を持つ人々は,神の恵みにみちた,うたげへの招待に喜んで応ずるに違いありません。そして食べ,かつ飲んでその人々は永遠の生命に至るのです。この良いたよりを今日あらゆるところにひろめるならば,私たちは本当に幸いです!