第12章
サルデスの使いへ
1 サルデスはどこにありましたか。そこではどんな宗教が信奉されていましたか。
テアテラ市から南に約50㌔,パトモス島の北東約185㌔の地点に,一時は繁栄を誇った,ルデアの首都サルデスがありました。ルデアはフリギアおよびミシアと共に,偽りの神ゼウスつまりユピテルの母とされる,自然の女神キュベレー崇拝の初期中心地の一つであり,その異教崇拝は放らつな性格を帯びていました。西暦1世紀末ごろまでには,サルデスにあったクリスチャン会衆の霊的状態は悪化しており,それゆえ,パトモス島に流刑に処せられていた使徒ヨハネは,星にも似た,サルデス会衆の監督に次の音信を書き送るよう命じられました。
2 サルデス会衆に対するイエスの言葉から判断すると,その会衆はどんな状態にありましたか。
2 「また,サルデスにある会衆の使いにこう書き送りなさい。神の七つの霊と,七つの星を持つ者がこう言う。『わたしはあなたの行ないを知っている。あなたは生きているとの名を持ってはいるが,実際には死んでいるのである。油断なく見張っていなさい。いまにも死ぬ状態にあった残りのものを強めなさい。わたしは,あなたの行ないがわたしの神の前で十分になされたのを見ていないからである。それゆえ,あなたがどのように受けてきたか,またどのように聞いたかを思いにとどめ,それを守りつづけ,そして悔い改めなさい。あなたが目ざめないなら,必ずわたしは盗人のごとくに来る。そしてあなたは,わたしがどの時刻にあなたのもとに来るかを全く知らないであろう。
3 会衆の霊的状態は悪いものでしたが,イエス・キリストはどんな励ましの言葉を与えましたか。
3 「『とはいえ,サルデスのあなたのところには,自分の外衣を汚さなかった少数の名があるにはある。彼らは白い外衣を着てわたしとともに歩くであろう。それにふさわしい者だからである。征服する者はこのようにして白い外衣で身を装うのである。そしてわたしは彼の名を命の書から決して塗り消さず,わたしの父の前またその使いたちの前で彼の名を認める。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい』」― 啓示 3:1-6。
4 イエス・キリストは,「神の七つの霊と,七つの星を持つ者」としてご自分をサルデス会衆に示されましたが,それはなぜですか。
4 サルデスの会衆に対し,栄光を受けたイエス・キリストは,ご自分が「神の七つの霊と,七つの星を持つ者」であることを明らかにされました。彼はそうした者として,「七つの星」によって象徴される使いのような監督すべてを,ご自分の右手で管理しておられたのです。それで,サルデス会衆の「使い」に語りかけ,会衆の名ばかりの状態ではなく,その実状に留意するよう,彼の注意を促す権利と責務を持っておられました。栄光を受けたイエス・キリストは,実態を識別することができたのです。「神の七つの霊」を持っておられたからです。七つの霊は,最初,神のみ座の前にあると述べられており,そこでは『み座の前で燃えている火のともしび七つ』によって表わされています。(啓示 1:4; 4:5)それらは光を照らすものであり,啓発を与え,隠された物事に光を放つ力を持っています。例えば,「神がご自分を愛する者たちのために備えられた事がら」に関し,使徒パウロはこう書き記しました。「神はそれを,ご自分の霊によって,このわたしたちに啓示されたのであり,霊がすべての事,神の奥深い事がらまでも究めるのです」― コリント第一 2:9,10。
5 象徴的な子羊の持つ「七つの目」には,どんな象徴的な意味がありますか。
5 しかし後に,「神の七つの霊」は,目によって表わし示されています。すなわち,神のみ座に近づき,神の右手から秘義の巻き物を受け取る時の主イエス・キリスト,つまり象徴的な子羊の「七つの目」によって表わされています。使徒ヨハネはその「七つの目」の意味について,「その目は,全地に送り出された神の七つの霊を表わしている」と述べています。(啓示 5:1-7)したがって「七つの霊」は,栄光を受けた神の子羊が今持っておられる,観察し,識別し,探知する完全な力を表わしており,「全地」の何物もその注視を逃れることはできません。19世紀前,「使い」が落ち込むに任せたサルデス会衆の霊的状態を,彼は完全に見ることができたのです。
6 サルデス会衆および使いにも似たその監督は,なぜ深刻な事態に陥っていましたか。
6 そうです,サルデス会衆は,その実状とは違う何かであるとの名を得ていました。その成員の中には,主イエス・キリストによく知られた名,誉れをもって述べることのできる「少数の名」がありましたが,他の成員の各は,「命の書から」名を塗り消される危険にありました。その名は,キリストが天において,ご自分の父の前とみ使いたちの前で認めるに値しないものになりつつあったのです。サルデス会衆とその使いにも似た監督は,そのために深刻な事態に陥っていました。父なる神との間に良い名を持つことは非常に重大だからです。
7 神に好意を持っていただける名にはどんな価値がありますか。クリスチャンはいつそのような名を得るべきですか。
7 箴言 10章7節によると,『義者の名は讚られ 悪者の名は腐り』,不快な悪臭となり,祝福に値しません。神に好意を持っていただける名は,非常に貴重です。「嘉名は大なる富にまさり恩寵は銀また金よりも佳し」。(箴言 22:1)クリスチャンは生きている間に,命の与え主であるエホバ神との関係において,自分のために良い名を得ることができます。また,そうすべきです。伝道の書 7章1節は正しい助言を与えています。「名は美膏に愈り 死る日は生るゝ日に愈る」。
8 サルデス会衆の成員が生きているかどうかに関し,主要なことは何でしたか。
8 サルデス会衆の成員は無論,人間としては生きていました。しかし,真のクリスチャンという点ではどうでしたか。彼らがこの世の物事に富む人間として生きており,また,会衆の集会を開くりっぱな場所を持っているということは主要な問題ではなく,霊的にどんな状態にあるか,霊的には生きているか,ということが問題でした。
9 サルデスの会衆が持っていたのはどんな業でしたか。しかしキリストは,彼らがどんな業を持つことを望まれましたか。
9 彼らの行ないや業は,「死んだ業」つまり,霊的な命に貢献しない業だったに違いありません。それは,サルデスのクリスチャンでない人びとには訴える業であったかもしれませんが,「真理について証しする」ために世に生まれて来たキリストの追随者として,クリスチャンがなすべき特別の業ではありませんでした。(ヘブライ 9:14。ヨハネ 18:37)イエス・キリストは,サルデス会衆の行ないが「わたしの神の前で十分になされるのを」見いだしませんでした。サルデスのこの世的な人びとに対しては,「使い」とその使いによって代表される会衆は,生きているとの名を持っていたかもしれませんが,神の七つの霊を持つイエス・キリストは,彼らが霊的な意味で,つまり,真のクリスチャンとしては死んでいるのを見,かつその状態を知っておられたのです。
10 (イ)サルデス会衆内の「いまにも死ぬ状態にあった残りのもの」は,何であったかもしれませんか。(ロ)サルデスの監督に対するイエスの言葉によると,彼は何をしなければなりませんでしたか。
10 サルデス会衆は,「少数の名」を除き,実際には霊的に死んでおり,ともされた黄金の燭台のように輝いてはいませんでした。それら「少数の名」とは,「いまにも死ぬ状態にあった残りのもの」かもしれません。彼らは,会衆の大多数が陥っている霊的な死の状態により,致命的な影響を受ける危険にありました。その観点から,彼らは「いまにも死ぬ状態に」あったわけです。会衆を代表する監督つまり「使い」は,クリスチャンの責任に関する限り眠っていました。彼は,目覚め,実状を見,そして『油断なく見張り』,会衆の眠っている者たちを目覚めさせ,『油断なく見張る』よう彼らを助けねばなりません。「使い」は,霊的に死ぬ危険にあった者たちを『強める』必要があり,それからその者たちを用い,また彼らと協力して,他のすべての者が真のクリスチャンとして生き,行動し,奉仕するよう強めるべきなのです。そのために彼は『悔い改める』必要がありました。
悔い改める必要があるのはなぜか
11 サルデス会衆が『思いにとどめつづける』べき,彼らの「聞いた」事柄とは何ですか。
11 誠実な悔い改めに至るため,使いは何かをしなければならず,また,他の者たちに何かをすべきことを思い起こさせねばなりません。それは何でしたか。『あなたがどのように受けてきたか,またどのように聞いたかを思いにとどめつづけなさい』。(啓示 3:3)彼らは,神が,ご自分の宇宙主権を地に回復し,人類のあらゆる事態を全き秩序をもって治めるために用いる,神の王国に関する音信を聞いていました。また,神のみ子イエス・キリストの贖いを通してもたらされる,永遠の救いに関する音信,さらに,天の王国において共同相続者としてみ子イエス・キリストに加わらせるため,神が人類のあらゆる国民の中からどのように「み名のための民」を取り出しておられるかについても聞いていました。
12 サルデス会衆の者たちが緊急に思いに留めるべき,その『受けた』事柄とは何ですか。
12 彼らはまた,それまでに聖書のほとんど全巻を手にしており,書き足される部分は,霊感を受けた使徒ヨハネによる最後の著作だけでした。彼らは,エホバ神に自分を全く献身したことを象徴する水のバプテスマを受けており,また,仲介者イエス・キリストを通して神との「新しい契約」に入れられ,その結果,「み名のための民」の一員となっていました。それはまた,彼らが神の霊的な子として養子にされ,さらに,キリストの弟子を作る目的で,あらゆる国民に神のみことばを宣べ伝える者として神の霊により油そそがれたことを意味していました。彼らは,生きている者と死んでいる者とを含め全人類の世に祝福となるべく,死人からの霊的,また天的復活を受け,キリストと共に王また祭司とされるという驚くべき希望を与えられていたのです。―使徒 15:14。ヘブライ 8:6-13。コリント第二 1:21,22。
13 会衆はどのように「悔い改める」べきでしたか。それは彼らを何に導きますか。
13 彼らはなんと貴重な事柄を,またなんと多くの事柄を受け,かつ聞いていたのでしょう。ところが今や,霊的な死にひんしており,それらの事柄を永久に失う危険にあったのです。そのため,それらの事柄を再び思いにとどめ,そうした貴重な事柄を「守りつづけ」る必要がありました。彼らは思いを変化させねばなりません。イエス・キリストが彼らの「使い」である監督に言われたように,悔い改めねばなりません。そうするなら,これ程多くの恵みを与え,これ程多くの真理を聞かせてくださった神に対し,これ程までに感謝と認識を欠いてしまったことを深く悲しむはずです。悔い改めることにより,彼らは再び霊的に活発になり。生きている,つまり,クリスチャンの人格をつけて真に生きているとの名にふさわしい生活を送るでしょう。霊的な死から目覚め,再び正しいクリスチャンの業に参加し,神の前にそれらの業を十分に行なうことでしょう。―エフェソス 5:14。
14 (イ)後日,サルデス会衆は警告以上の何を経験しますか。(ロ)イエス・キリストは,前もって知らされていなかった時に来ることにより,会衆に対し何を成し遂げられますか。
14 当面イエス・キリストは,サルデス会衆の「使い」である監督に警告を与えられました。しかし,だれも知らない将来のある時に突然,イエス・キリストは主要な検査官として,最終的な検分のためにサルデス会衆を訪れ,当然なすべき行動を取られます。その時には,悔い改めていない,霊的に死んだクリスチャンが,悔い改め,失う危険にあったものを取り戻そうとしても遅すぎます。検査官のイエス・キリストはこう言われました。「あなたが目ざめないなら,必ずわたしは盗人のごとくに来る。そしてあなたは,わたしがどの時刻にあなたのもとに来るかを全く知らないであろう」。(啓示 3:3)このだれも知らない,また知らされていない時に最終的な検分のために来ることにより,イエス・キリストは,彼らが真のクリスチャンとして,すなわち,「目先だけの奉仕をするのではなく,誠実な心で,エホバを恐れつつ」生きているかどうかを見いだされます。(コロサイ 3:22)「あなたがたの誠実な心のうちに恐れとおののきをいだき,キリストに対するように……。人を喜ばせようとする者のように目先だけの奉仕をするのではなく,キリストの奴隷として,神のご意志を,魂をこめて行ないなさい」。(エフェソス 6:5,6)彼らは,偽善的な,名ばかりの見せかけのクリスチャンであってはならず,真のクリスチャンでなければなりません。偽善的なクリスチャンは退けられるからです。
15 (イ)1918年は,クリスチャンであるととなえる人すべてに対し,イエス・キリストから警告の出される非常に切迫した時でした。なぜですか。(ロ)キリストがご自分の霊的神殿に来られた時,キリスト教世界は自分が死んだものであることをどのように証明していましたか。
15 20世紀の今日,キリスト教世界は宗教的偽善者で満ちています。第一次世界大戦が1918年11月11日午前11時に終わった時,キリスト教世界は,自称キリスト教制度としての自分に関し,悪い記録を作り上げていました。当時,キリスト教はその史上最も困難な時期に入ろうとしていました。キリスト教は存続できるでしょうか。それは,神の霊的な神殿におられるイエス・キリストから,クリスチャンととなえるすべての人に警告の与えられる,非常に切迫した時だったのです。平和の君であるイエス・キリストに追随すると主張するキリスト教世界は,第一次世界大戦を阻むこともとどめることもできませんでした。それは実際にはキリスト教世界の戦争であり,その戦争に参加した二十八の国々は,四か国を除きすべてがキリスト教世界の成員国でした。真のキリスト教を促進させる力としては,同世界は死んだものであることを証明したのです。事実,第一次世界大戦中,キリスト教世界は,その流血に加わらずに神の王国を宣べ伝えた真のクリスチャンを迫害するものとして自分を明らかにしました。神の王国の代わりに,キリスト教世界は国際連盟を世界の平和と安全のために提唱し,戦後最初の年である1919年,それを制定する票を投じました。
16 キリストが1918年ご自分の神殿に現われた時,献身したクリスチャンの油そそがれた残りの者たちはどんな状態にありましたか。
16 献身したクリスチャンの油そそがれた残りの者たちはどうでしたか。1914-1918年の危機的な戦争の間,マタイ 24章7-12節の預言の中でキリストが予告された迫害を経験しました。幾つかの参戦国で,彼らの文書つまり,ものみの塔聖書冊子協会の出版した文書の多く,または全部が禁書にされました。アメリカ合衆国では,ものみの塔協会の会長と会計秘書まで,また本部職員の他の成員たちも,戦争による興奮状態のさなかに投獄されました。世の政治権威に対する恐れが,迫害下にある,霊で油そそがれたクリスチャンの残りの者の公の活動を多分に拘束しました。キリスト教世界は,彼らを異端で非国教主義的宗教グループとして,永遠に沈黙させたものと思い,またそう信じました。しかしその希望と期待はかなえられましたか。
17 (イ)第一次世界大戦終了時,サルデス会衆に対するイエス・キリストの警告の音信は,神の油そそがれた残りの者にとってたいへん時宜にかなったものでした。なぜですか。(ロ)彼らはどんな行動を取る危険にありましたか。
17 1918年11月11日の第一次世界大戦終了時,サルデス会衆に対するイエス・キリストの警告の音信は,極めて時宜にかなったものでした。終了したばかりの世界的闘争の期間,油そそがれた残りの者たちによる『行ないは,[キリストの]神の前で十分になされていな』かったのです。真のキリスト教のどんな特徴が彼らのもとに残っていたにせよ,彼らは強められない限り,それは「いまにも死ぬ状態に」ありました。残りの者たちは,地上における自分たちの業は終わったと考えるでしょうか。聖書の理解は極限に達したと考え,閉鎖的な宗派を形成するでしょうか。神の王国をそれ以上宣べ伝えることを一切やめ,排他的となり,やがてその成員は死に絶えてしまうのでしょうか。または,さして重要でもない,単なる小宗派として生きているとの名を持つだけとなり,戦後のその時に開かれようとしていた世界的な王国の業に関しては,実際には霊的に死んだものになろうとしていたのでしょうか。こうした危険が現実に存在していました。したがって,サルデス会衆に対する警告は,その決定的な時期における油そそがれた残りの者にとって,極めて適切なものだったのです。―啓示 3:1,2。
18 (イ)残りの者が思いにとどめるべき,受けた事柄,聞いた事柄の幾つかを述べなさい。(ロ)彼らは何を悔い改めるべきでしたか。そうしないなら,何が彼らに臨みますか。
18 彼らは特に,宗教誌「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」が1879年7月に初めて出版されて以来,自分たちが受けた事柄,聞いた事柄を是非とも思いにとどめる必要がありました。ルカ 21章2節(欽定)でキリストが予告され,また「ものみの塔」誌が強調した「異邦人の時」は,画期的な年であった1914年の初秋に実際に終了しました。その時,天のメシアによる王国における,イエス・キリストの見えない臨在が始まったのです。油そそがれた残りの者たちは,「地上における神の王国の政治的表現」としての,キリスト教世界の国際連盟ではなく,1914年の異邦人の時の終わりに天で樹立されたメシアによる神の王国を宣べ伝える使命を,そうです,それを全世界にふれ告げる使命を神から受けました。(マタイ 24:14。マルコ 13:10)それは油そそがれた残りの者にとって,数年来の失敗や,死んだような状態に陥る傾向を悔い改め,目覚め,その時取るべきことになっていた行動を起こす,緊急な時だったのです。そうしないなら,統治しておられる王イエス・キリストが,将来のある知らされていない時に到来し,彼らを本当の死に渡されます。―啓示 3:3。
白い外衣を着て歩く
19 その当時の油そそがれた残りの者たちの間に,「自分の外衣を汚さなかった少数の名」があったというのはどういうわけですか。
19 当時の油そそがれた残りの者たちの場合,その全成員が霊的に死んでいたわけではありません。サルデス会衆の場合も同様でした。イエス・キリストはそれを知っておられました。それで彼は,サルデス会衆の「使い」に次のように言っておられるのです。「とはいえ。サルデスのあなたのところには,自分の外衣を汚さなかった少数の名があるにはある。彼らは白い外衣を着てわたしとともに歩くであろう。それにふさわしい者だからである」。(啓示 3:4)それら「少数の名」つまり人間は,クリスチャンの人格の点で自分を醜い者とはせず,自分たちが公に宣言している,イエス・キリストに見倣う者としてふさわしい生活をしていました。彼らの「外衣」は,外部に対する宣言,宗教的な主張を象徴します。物質主義と偶像礼拝に染まったサルデスの,人を汚す異教のもろもろの影響にもかかわらず,彼らは清く,非の打ちどころのないクリスチャンとしての外見を保ちました。クリスチャンを宣言する「外衣」を汚すことも,よごすこともしませんでした。こうして彼らは,サルデス会衆になんら恥も非難ももたらすことなく,キリスト教を真に実践したのです。
20 汚れのないその少数の者たちは,「ふさわしい者」であるゆえに,白い外衣を着て自分と歩むであろう,と言われるイエスの約束は何を意味していましたか。
20 汚れのない生活をしているそれらクリスチャンを慰め,力づけるため,イエス・キリストは,彼らが最後には,「白い外衣を着てわたしとともに歩くであろう。それにふさわしい者だからである」と言われました。これはイエス・キリストが,メシアによる王国の樹立後,墓の眠りから,天における自分と共なる,清く,汚れのない命へと,彼らを復活させられることを意味します。その時彼らは,光り輝く義を着せられ,そして,啓示の幻の中で「足まで届く衣をまとい,胸に黄金の帯を締めて」おられるイエス・キリストの下で奉仕する,従属の祭司としての職を与えられます。(啓示 1:13)これと一致して啓示 6章9-11節は,魂が祭壇の下にあると表わし示されている,殉教したクリスチャンに,『白い衣』が報いとして与えられたと述べています。このふさわしい「少数の名」は,サルデス会衆の他の者,すなわち,異教サルデスの世俗的な要素によって外衣を汚し,それゆえ悔い改め,クリスチャンを宣言する「外衣」を清める必要のある者たちに対する模範でした。第一次大戦後,それと同じことが,戦争を生き残った油そそがれた残りの者についても当てはまりました。
21 イエスはサルデス会衆の「使い」に対する結びの言葉で,「外衣」の重要性をどのように強調されましたか。
21 サルデス会衆の「使い」に対する音信の結びにある励ましの言葉は,適切にも,クリスチャンを宣言する「外衣」の重要さを強調しています。この「使い」に向かって,「神の七つの霊と,七つの星を持つ」,栄光に輝くかたはこう言われます。「征服する者はこのようにして白い外衣で身を装うのである。そしてわたしは彼の名を命の書から決して塗り消さず,わたしの父の前またその使いたちの前で彼の名を認める。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい」― 啓示 3:5,6。
22 (イ)1世紀および今日における,「征服する者」とはだれですか。(ロ)不完全なクリスチャンはどのように,この世で生活しながら,なおも象徴的な外衣を清く保つことができますか。
22 1世紀のサルデス会衆の成員,および20世紀の油そそがれた残りの者の成員にとって,「征服する者」とは,主イエス・キリストの追随者を表明する象徴的な外衣を,よごすことも汚すこともしなかった油そそがれたクリスチャンを意味します。その者は,サルデスがかつてその一部であった,この人類の世の中にいようと,イエス・キリストご自身が人間として地上におられた時,この世のものとならなかったように,自分もこの世のものとはなりません。(ヨハネ 15:19; 17:14-16)自分を「世から汚点のない」状態に保ち,世も「世にあるものをも」愛さないことにより,純粋で,汚れないキリスト教を実践します。(ヤコブ 1:27。ヨハネ第一 2:15-17)持って生まれた罪の状態と弱さのゆえに,それと知らずに,あるいは不本意に罪を犯してしまうかもしれませんが,罪を犯したことに気づくと,悔い改め,神のゆるしを請い,「み子イエスの血」を通して罪を清めてもらうのです。(ヨハネ第一 1:7から2:2。啓示 1:5)こうして,自分の外衣を汚さないように保ちます。
23 (イ)「征服する者」という表現は,他のどんな意味で適用されますか。(ロ)マタイ 10章32,33節のイエスの言葉は,征服することに関するこの面をどのように強調していますか。
23 「征服する者」という表現はまた,敵の手による残酷な死の危険に面しても,恥じることなくイエス・キリストを自分の贖い主,主また主人として認める,油そそがれたクリスチャンを意味します。キリストを認めていることと調和し,またその証拠として,征服者は,地上の政治・宗教・軍事上の人間の奴隷になることを拒みます。パウロはこう述べています。「自由な人の時に召された者はキリストの奴隷です。あなたがたは代価をもって買われたのです。もう人間の奴隷となってはなりません」。(コリント第一 7:22,23)征服者は,次のイエスの言葉をも真剣に受け取ります。「それゆえ,人の前でわたしとの結びつきを言い表わす者はみな,わたしも天におられるわたしの父の前でその者との結びつきを言い表わします。しかし,人の前でわたしのことを否認する者がだれでも,わたしも天におられるわたしの父の前でその者のことを否認します」。(マタイ 10:32,33。マルコ 8:38。ルカ 9:26)征服者は栄光を受けたキリストにより,天の父の前またみ使いたちの前で認められるのですから,それは,彼が地上でキリストを認めることにより征服を遂げるからに違いありません。
24 (イ)人はどのようにして,自分の名が「命の書」に試験的に書かれるようにしますか。(ロ)その人はどのようにして,自分の名が「命の書」に確かにとどめられるようにしますか。それを達成することは何を意味しますか。
24 そうした征服者すべては,とこしえに保護されるでしょう。キリストの足跡に従い,狭い門を通って,命に至る狭められた道を歩んできたので,試験的にではありますが,すでに自分の名を「命の書」に書かれています。(マタイ 7:13,14)征服者は,その狭められた道を歩み続け,クリスチャンの信仰と忠実さを通してこの世を征服することにより,自分の名をその「命の書」に確かにとどめてもらうことになります。主イエス・キリストは次の保証を与えておられます。「わたしは彼の名を命の書から決して塗り消さない」。その者の天の相続財産である命は,不滅性ですから,彼は限りなくとこしえに,王イエス・キリストのふさわしい共同者として,「白い外衣を着て」歩くことができます。これは,霊が諸会衆に述べることとして,「耳のある者」が聞くに価する知らせです。