第14章
ラオデキアの使いへ
1 ラオデキア市はいつ創建されましたか。その名は何に由来していますか。
ラオデキア市は,セレウコス・ニカトル将軍の孫で,セオスつまり「神」と呼ばれるようになった,セレウコス王朝の支配者アンティオコス二世の妻の名を取って命名されました。彼は西暦前3世紀に同市を創建し,その名をラオデキアと呼びました。a
2 (イ)ラオデキアはどこに位置していましたか。そこは何で有名でしたか。(ロ)いつごろからラオデキアには会衆がありましたか。
2 ラオデキア市は小アジアの西方に位置しており,地の利を得ていたので,富んでいました。製造都市,また金融の中心地でもあり,同市で金融業に携わる人びとは,全ローマ帝国と取り引きをしていました。医術の神アスクレピオスの崇拝でも有名で,それにふさわしく医術の学校があり,さらに,フリギア粉として知られる有名な目薬の製造が行なわれていました。しかし同市には永久的な水の供給源がなく,かなり遠くにある温泉から管で水を送らねばならず,そのため市の境界に届くころには,水は生ぬるくなっていたことと思われます。ラオデキアは道路によって,「アジア地区にある七つの会衆」の二つの所在地であるエフェソスとペルガモンに通じていました。(啓示 1:4,11,20; 2:1,12)使徒パウロがコロサイのクリスチャンに手紙を書き送った西暦60-61年ごろには,ラオデキアに会衆が存在していました。―コロサイ 2:1; 4:13-16。
3-5 (イ)ラオデキアの会衆はその存在中に使徒の手紙を受け取ったことがありますか。(ロ)ラオデキアの「使い」に対するキリストの音信は,ラオデキア会衆の状態について何を明らかにしていますか。
3 創設以来数十年を経る間に,物質的に繁栄していたラオデキア市の会衆は,霊的にはなはだしい衰退を経験しました。使徒ヨハネがその会衆の「使い」つまり監督に送るよう指示された手紙は,「ラオデキアの人たちの会衆」が使徒パウロから受け取った手紙とは,大変異なったものであったに違いありません。(コロサイ 4:16)西暦96年ごろに「アジア地区にある七つの会衆」に口述筆記された手紙の七番目にあたる,この最後の手紙には,ラオデキアの「使い」をほめることばは少しも見当たりません。使徒ヨハネは次のように告げられました。
4 「また,ラオデキアにある会衆の使いにこう書き送りなさい。アーメンなる者,忠実で真実な証人,神による創造の初めである者がこう言う。『わたしはあなたの行ないを知っている。あなたは冷たくも熱くもない。わたしは,あなたが冷たいか熱いかのどちらかであってくれればと思う。このように,あなたがなまぬるく,熱くも冷たくもないので,わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは,「わたしは富んでおり,富を作ったのだから,何一つ必要なものはない」と言いながら,自分が惨めで,衰れで,貧しく,盲目で,裸であることを知らない。だから,わたしはあなたが,富んだ者となるために火で精錬された金を,また,身にまとってあなたの裸の恥が現われないようにするために白い外衣を,そして見えるようになるため自分の目に塗る目薬をわたしから買うように勧める。
5 「『すべてわたしが愛情をいだく者を,わたしは戒め,また懲らしめる。それゆえ,熱心になり,そして悔い改めなさい。見よ,わたしは戸口に立ってたたいている。わたしの声を聞いて戸を開けるなら,わたしはその者の家にはいって彼と,そして彼はわたしと晩さんを共にするであろう。征服する者には,わたしとともにわたしの座にすわることを許そう。わたしが征服して,わたしの父とともにその座にすわったようにである。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい』」― 啓示 3:14-22。
6 (イ)スミルナの会衆と比較して,ラオデキア会衆は物質的にどんな状態にありましたか。(ロ)ラオデキア会衆は何を必要としていましたか。
6 物質的には貧しくても,霊的に富んでいたスミルナ(北西約180㌔)の会衆とは極めて対照的に,ラオデキア会衆は物質的には富んでいたものの,霊的には貧しい状態にありました。ラオデキアの金融業者の扱う文字どおりの金,土地の衣服商の製造する光沢のある黒い羊毛の衣,土地の医者が作る肉眼のための錠剤また粉薬,近くにあるヒエラポリスの温泉から出る薬効のある熱湯,といったものの代わりに,ラオデキア会衆はそれらに類したものを霊的な意味で必要としていたのです。人格を富ませる真のクリスチャンの金,非の打ちどころのないクリスチャンとしての外見を与える白い外衣,つまり,裸のように恥ずべき点,クリスチャンとして不適当な点の全くない外衣を必要としていました。また,聖書の真理とクリスチャンの責任に対する盲目状態を取り去るため,霊的な目薬を塗ってもらう必要がありました。会衆はそうしたものを,戸をたたいておられるかたを暖かく迎え入れてもてなすなら,そのかたから買うことができるのです。会衆は,快い刺激を与えるように熱いか,気分をさわやかにさせるように冷たいかのどちらかであるべきであり,生ぬるい状態にとどまっていてはなりませんでした。
7 (イ)第一次世界大戦後,キリスト教世界は物質的にどんな状態にありましたか。(ロ)キリストに属しているとの主張ゆえに,キリスト教世界はどんな問いに直面しましたか。
7 戦後の西暦1919年における,キリストの会衆の油そそがれた残りの者たちの場合も同様でした。当時,献身し,バプテスマを受けたクリスチャンの油そそがれた残りの者たちと,分派主義的キリスト教世界の単なる自称クリスチャンとが,真のキリスト教に関係ある事柄を正しく評価することは緊急に必要でした。四年以上に及んだ第一次世界大戦にもかかわらず,キリスト教世界は物質的に依然富んでおり,戦後も引き続き金銭,土地,財産,政治権力の面で富を増やそうとしていました。しかし,真のクリスチャンの霊的な富に関して富んでいたでしょうか。今度はそうした富を求めるでしょうか。キリスト教世界は,血なまぐさい第一次世界大戦に対して責任を負っており,それを支持することにより宗教上の外見を著しく汚していました。使徒的な聖書の教え,規準また原則に合うよう,宗教上の外見を清めるでしょうか。この世的なやり方を悔い改めるでしょうか。人間の作り出した伝統と聖書の真理との相違が見えるよう,また,今成就している聖書預言とその意味,そして神がクリスチャンに地上で何をすることを望んでおられるかが分かるよう,霊的な「目薬」を塗ってもらおうとするでしょうか。
8 (イ)真の油そそがれた残りの者たちは,この時どんな立場にありましたか。(ロ)彼らは何を望み,何を必要としていましたか。
8 キリスト教世界から離れており,別の存在であるとはいえ,油そそがれた残りの者も,この「終わりの時」における同じ問題に直面しなければなりませんでした。(ダニエル 12:1-4,新)第一次世界大戦当時の迫害や試練また危険な事態のために生じたかもしれない霊的な生ぬるさを,彼らは即刻取り除かねばなりません。キリストは,キリスト教世界を我慢できないものとして,口から吐き出されるかもしれません。が,それはそれとして,油そそがれた残りの者たち自身は,神のご意志と業,また,この「終わりの時」に神が啓示される真理に対して生ぬるくなり,それゆえにキリストから吐き出されることがないようにと望みました。彼らは,第一次世界大戦によってひどく傷めつけられた現在の事物の体制の再建に世界が取り掛かったさい,時を同じくして始まった物質主義的な時代に,決して屈するようなことはありませんでした。油そそがれた残りの者の成員がその時までに持っていたかもしれない,いくばくかの物質的な富は,立派なクリスチャンに必要とされるすべてであるかのように頼みとすべきものではありません。彼らは霊的に貧しかったでしょうか。キリストの忠告を聞き入れ,彼から真の富すなわち,前途の火のような厳しい時にも耐え得る「火で精錬された」,クリスチャンの「金」を買うことを必要としていたでしょうか。そうするのは安全なことでした。
9 (イ)その時キリストの霊的兄弟たちは,どのように「裸の恥」を幾らか現わしていましたか。(ロ)彼らはどのような方法で白い外衣を「買う」べきでしたか。
9 さらに,クリスチャンの主張と実体に関する,残りの者の外面の衣はどうでしたか。それは第一次世界大戦中の妥協や失敗により幾分汚れていました。古代ラオデキア会衆またその「使い」と同じく,「裸の恥」が幾らか現われており,彼らは神の前でそれを悔い改めねばなりませんでした。そうした裸の状態を除くために,残りの者は栄光を受けたイエス・キリストから,とがめられるところのないクリスチャンであることを表示し,明らかにする霊的な「白い外衣」を買う必要がありました。どのようにしてそうした白い外衣を「買う」ことができますか。物質の金によってではなく,キリストの模範に対する献身を再び燃え立たせることにより,また,世の政治および軍事上の闘争のさなかにあって,真のクリスチャンの中立を守り通す決意をすることによってです。歴史が示すとおり,彼らはそうした行動を取りました。20年後に始まった第二次世界大戦の期間中,またその後の闘争においても,彼らは「白い外衣」を汚しませんでした。
「忠実で真実な証人」からの「目薬」
10 (イ)西暦1919年当時,キリストは油そそがれた残りの者たちに関しどこに立っておられましたか。(ロ)残りの者の目は何に対してすでに開かれていましたか。しかし,なおもキリストから「目薬」を買う必要があったのはなぜですか。
10 油そそがれた残りの者たちは,霊的な目薬を買う必要があったのでしょうか。そのとおりです。とはいっても,政治的また宗教的に分裂したキリスト教世界からではなく,現に統治しておられるイエス・キリストからです。彼は神の霊的神殿に来ており,いわば,残りの者の戸口に立ってたたいておられました。ご自分の会衆としての残りの者の中に暖かく迎え入れられるためでした。キリスト教世界および異教世界の哲学や人間の伝統を捨てることにより,彼らの目は,聖書の多くの真理を見分け,神の目的,神の組織,今の時代に対する神の業を識別できる程度に,すでに開かれていました。しかし,記された神のみことば,および,神のご意志と目的,また,西暦1914年に始まった「終わりの時」におけるキリストの真の追随者に対する業に関し,なお多くの点で盲目でした。今や聖書の多くの真理が啓示されようとしていたのです。また,聖書預言が成就しようとしており,それに付随して正しい理解が得られる時となっていました。彼らは,神が神権組織を持っておられることを見,それに基づいて行動を取ることが必要でした。この「終わりの時」に神が残りの者に意図された漸進的な業を見分け,それを行なう必要があったのです。―ダニエル 12:4-10,新。
11,12 (イ)残りの者はこの霊的目薬をどのように『買い』ましたか。それにより彼らの目は何に対して開けられましたか。(ロ)彼らはどのようにして,自分たちの指導者イエス・キリストの模範と言葉に倣っていましたか。
11 疑う余地なく,残りの者は,目に見えない様で臨在しておられるイエス・キリストから霊的目薬を買い,それを霊的識別の目に塗る必要がありました。そのためには,かつてないほど聖書を直接研究し,キリストを通して神の聖霊を祈り求めねばなりませんでした。それが導きを与え,自分たちの目を開かせ,自分たちの決定と行動を導くようにと祈るのです。過去半世紀の歴史の記録は,残りの者がそうすることにより,驚くほど霊的視力を向上させたことを示しています。やがて彼らは,キリスト教世界から区別される必要を認め,聖書に基づく名称を採用しました。すなわち1931年,全世界で採択された決議により,エホバの証人という,重大な責任を伴う名前を採用したのです。(イザヤ 43:10-12; 44:8)このようにして彼らは,指導者イエス・キリストが「ラオデキアにある会衆の使い」にあてた言葉の始めの部分でご自身を指して呼ばれた者,その者に自分たちもなることにより彼に倣おうとしました。啓示 3章14節によると,彼は次のように言われました。
12 「アーメンなる者,忠実で真実な証人,神による創造の初めである者がこう言う」。「忠実で真実な証人」という言葉に注意してください。イエス・キリストはだれの,また何の証人なのですか。(啓示 1:5)ご自身の言葉によると,彼は,天の父,全能のエホバ神の証人です。さらにまた,神の王国,つまりそれが,神のみ名を神聖にし,ご意志を天におけると同じように地にも成さしめる神の手段であることを証しするかたです。(ヨハネ 18:36,37。テモテ第一 6:13)彼は弟子たちを「証人」として遣わされました。(使徒 1:6-8)また,弟子たちにこう予告されました。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。(マタイ 24:14。マルコ 13:10)イエス・キリストは他の全ての被造物にまさって,「忠実で真実な証人」という称号にふさわしいかたであり,またそれをご自分に当てはめられました。
「アーメンなる者」かつ最初の「創造」
13,14 (イ)「アーメン」という語の意味は何ですか。(ロ)使徒パウロおよびイエス・キリストは,イエス・キリストご自身が擬人化された「アーメン」であることをどのように示しましたか。
13 彼はご自分を「アーメンなる者」とも語られました。どのように擬人化された「アーメン」なのですか。イエス・キリストの名によりエホバ神に祈りをささげるさい,その終わりに適切な言葉である,アーメン! が加えられることは周知のとおりです。(コリント第一 14:16)それは,「そのとおりです」,また「そうなりますように」との意味があります。ヘブライ語のマソレート本文によると,イザヤ書 65章16節でエホバは「アーメンの神」と呼ばれており,これを「真理の神」,「忠実性の神」,「まことの神」などと訳している聖書翻訳があります。(改標,ユ,ロ,リ,新)これは,アーメン! という語が,何かが真実である,あるいは,必ず成就,実現することの確証または保証であることを示しています。神は,みことばの中で約束された事柄すべてに対する「アーメン」として,忠実なみ子を遣わされました。コリント第二 1章20節はこう述べています。「神の約束がどんなに多くても,それは彼によって,はい,となったからです。それゆえにも,わたしたちを通しての栄光のため,彼を通して,神に『アーメン』が唱えられるのです」。したがって,イエス・キリストを通さずにささげられる神への祈りはこたえられません。イエスは使徒たちに次のように言われたからです。
14 「あなたがたがわたしの名において父に何を求めても,父がそれをあなたがたに与えてくださ[います]」。「あなたがたが父に何かを求めるなら,父はそれをわたしの名において与えてくださるのです。今この時まで,あなたがたは何一つわたしの名において求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちるためです」。「また,あなたがたがわたしの名において求めるものがなんであっても,わたしはそれを行ないます。父が子との関連において栄光をお受けになるためです。あなたがたがわたしの名において何か求めるなら,わたしはそれを行ないます」。―ヨハネ 15:16; 16:23,24; 14:13,14。
15 イエス・キリストが「アーメンなる者」であるということは,啓示の書全体に関する何の保証ですか。
15 それで,使徒ヨハネは啓示の書を次の適切な言葉で結びました。「『アーメン! 来たりませ,主イエスよ』。主イエス・キリストの過分のご親切が聖なる者たちとともにありますように」。(啓示 22:20,21)これと相応して,啓示の冒頭は,それが「イエス・キリストによる啓示」であり,「ほどなくして必ず起きる事がらをご自分の奴隷たちに示すため,神が彼に与えたものである」ことに注意を引いています。(啓示 1:1)イエス・キリストは「アーメンなる者」ですから,それは,啓示の中で彼の奴隷であるクリスチャンに示されている事柄がすべて,必ず,しかも「ほどなく」起きることの保証です。この啓示の中の,まだ起きていないことは,「ほどなくして」起きます。
16 「神の創造の初め」であると語ったイエスは,ご自分が『開始者』また『創始者』であると言っておられたのではありません。その点をどのように証明できますか。
16 しかし,ラオデキアの会衆の「使い」に対する音信の中で,栄光を受けたイエス・キリストは,本当に自分が「神の創造の初め」であると言われたのでしょうか。(啓示 3:14,欽定,ア標,英改,ド,ロ)使徒ヨハネに話した時に使った言語によると,彼は,神の創造の『開始者』ではなく,「初め」であると本当に言われたのでしょうか。ヨハネが啓示を書くのに用いたギリシャ語によれば,その語はアルケーです。この語は欽定訳つまりジェームズ王聖書のギリシャ語本文中に58回出てきますが,『開始者』(‘beginner’)とか『創始者』(‘originator’)と訳されていることは一度もありません。使徒ヨハネは,聖書中の自分の著述全体を通じて(福音書一巻,手紙三通,啓示),ギリシャ語アルケーを23回使いましたが,いつも「はじめ」の意味においてです。啓示の中だけで,ヨハネはこのギリシャ語を4回使っており,3度は(啓示 1:8; 21:6; 22:13,欽定)「終わり」と対比させています。したがって,啓示 3章14節で使徒ヨハネがアルケーの意味を「はじめ」から『開始者』または『創始者』に変えているとするのは,一貫した考え方ではありません。
17 (イ)イエスが神によって創造された最初の者であり,それゆえに神から命を受けるということを,他の聖句を使ってどのように証明できますか。(ロ)イエスは「あらゆる創造物の中の初子」また「死人の中からの初子」である,と述べられている個所のアルケーは,ともに同じ意味で使われています。どのようにですか。
17 聖書は,ヨハネの著述bまた聖書中の他の書においても,イエス・キリストが「はじめ」つまり,神による全創造物の「初めの者」であることを証明しています。イエスはご自分のことを常に神の子として話されました。ということは,ご自分の天の父としての神から命を受け,それゆえに神の「独り子」としてその命に初めがあったことを証明しています。(ヨハネ 10:36; 3:16; 5:26)また,コロサイ 1章15,18節(欽定)には,彼が,「目に見えない神の像,あらゆる創造物の中の初子である。そして彼は体つまり教会の頭であり,初め[アルケー],かつ,死人の中からの初子である。それはすべての事において彼が卓越した地位を占めるためである」と書かれています。「死人の中からの初子」であるなら,彼ご自身一度死んだという意味であり,「あらゆる創造物の中の初子」であるなら,彼ご自身天の父によって創造されたという意味です。―啓示 1:5,17,18。使徒 2:22-32。
18 (イ)聖句を使ってだれが創造者であるかを示しなさい。(ロ)神のみ子は創造に関連して,ご自分の父にどのように用いられましたか。(ハ)イエス・キリストを神の被造物の中の最年長者と呼ぶことができるのはなぜですか。
18 使徒ペテロはペテロ第一 4章19節で,「創造者」という称号を,イエス・キリストにではなく,神に当てはめています。天の被造物が次の言葉を語りかけるのは,天のみ座についておられるこの全能の神に対してです。「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,昔在し,今在し,後来りたまふ主たる全能の神」。『我らの主なる神よ,栄光と尊崇と能力とを受け給ふは宜なり,汝は万物を造りたまひ,万物は御意によりて存し,かつ造られたり』。(啓示 4:8-11,文,改標)神の子羊イエス・キリストは,天のみ座についておられるかたの右手から秘義の巻き物を受け取るため,実にこの全能の神のもとに来るのです。(啓示 5:1-10)啓示 10章5,6節によると,み使いは創造者なるこの全能の神によって誓います。これらの事柄すべてを考慮すると,聖書そのものから次のことが明らかになります。すなわち,神のみ子イエス・キリストは創造者ではなく,創造者なる全能の神が,他のすべての被造物つまり創造物を創造するさい,この独り子をその手段としてお用いになった,ということです。(ヨハネ 1:1-3。エフェソス 2:10,15; 3:9。コロサイ 1:16,17。啓示 19:13)イエス・キリストは神の創造物の中の最年長者であり,それは,神の創造の初めだからです。
19 (イ)キリストはどんな資格でラオデキア会衆の使いに語り,戒めを与えましたか。(ロ)同様に,キリストから戒めと懲らしめを受けた時,残りの者たちはどんな行動を取りましたか。なぜですか。
19 彼は,霊によって生み出された,油そそがれた追随者たちを,ご自分の「兄弟」と呼ぶことを恥とされません。(ヘブライ 2:11)最年長の仲間の被造物また最年長の霊的兄弟として,ラオデキア会衆の「使い」にこう言っておられます。「すべてわたしが愛情をいだく者を,わたしは戒め,また懲らしめる。それゆえ,熱心になり,そして悔い改めなさい」。(啓示 3:19)西暦1919年,第一次世界大戦を生き残った油そそがれた残りの者は,自分たちに関し不十分な点として啓示された幾つかの事柄を悔い改める必要がありました。しかし彼らは,悔い改めることに熱心さを示し,イエス・キリストを通してゆるしを得ました。彼らは,幾つかの事柄に関して戒めと矯正を,また特に,神権組織について懲らしめを受ける必要がありました。しかし,最年長の兄弟からの戒めと懲らしめを喜んで受けました。それらすべてが,自分たちに対するイエス・キリストのいつくしみ,また愛情の表われであることを知っていたからです。彼らは,神の懲らしめに関しヘブライ 12章2-11節に記されていることを覚えていました。イエスと同じく,残りの者も懲らしめを受けたのです。
戸をたたく者が約束すること
20 主イエス・キリストはなぜまたどうして,ご自分が戸口に立ってたたいていると言うことができたのですか。
20 悔い改め,懲らしめを受けることにより,多くの霊的特権への道が開かれました。そのことは,彼らの最年長の兄弟のすぐ次の言葉から明らかです。「見よ,わたしは戸口に立ってたたいている。わたしの声を聞いて戸を開けるなら,わたしはその者の家にはいって彼と,そして彼はわたしと晩さんを共にするであろう」。(啓示 3:20)最年長の霊的兄弟以上に彼らのもてなしを受けるにふさわしいかたがいるでしょうか。1918年の春,検分と浄めの業を行なうため,天の父に従って霊的神殿に来た彼は,1918年11月11日の第一次世界大戦終了時,霊的な助けをこの上なく必要としていた油そそがれた残りの者の歓迎の戸口に,見えない様で実際に立っておられたのです。―マラキ 3:1-5。
21 (イ)油そそがれた残りの者はどのようにこたえ応じましたか。(ロ)ここでイエスが「晩さん」について語っておられることにはどんな意義がありますか。
21 油そそがれた残りの者は,二度目の,しかし見えない様で臨在しておられるキリストを暖かく迎え,自分たちの組織の「家」に招き入れました。それにより,多くの祝福を受ける立場に自分たちを置くことになりました。西暦1914年に天で即位された,統治する王として彼を迎えたからです。彼は,「晩さん」つまり夕食の時に戸をたたかれました。使徒ヨハネの時代,主な食事は夕食でした。それは,一日の労働が終わって家族が集まり合う時でした。(ルカ 17:7-9)日没とともに,労働のなされた古い一日が終わりを告げ,新しい一日が始まります。それに相応して,油そそがれた残りの者の業の一面が終わり,戦後の時期の始まりとともに,彼らの地上における業の新しい面,樹立された神のメシアによる王国に関係のある業が開始されようとしていました。そのために彼らは指示と励ましを必要としていました。そして,晩さんつまり夕食の客が,それを与えてくださるかただったのです。
22 (イ)人間として地上におられたイエスが食事に招待された時,同席していた他の人たちには何が起こりましたか。(ロ)イエス・キリストが残りの者の戸をたたいた時は,どのようにそうした場合と似ていましたか。
22 イエスが人間として地上におられた時,共に食事をするために彼を招待した人たちは,夕食に関連してイエスから与えられる霊的な指示や励ましにより,いつもさらに優れたものをお返しとして受けました。(ヨハネ 12:1-11)ある時,パリサイ人の指導者が自分の家にイエスを招き,食事のもてなしをしたさい,ある仲間の客がイエスの話に感動して,「神の王国でパンを食べる者は幸いです」と叫びました。すると,イエスは直ちに,多くの者が招かれる「盛大な晩さん」の例えを話されました。(ルカ 14:1-24)目に見えない様で臨在しておられるイエス・キリストが,油そそがれた残りの者の戸をたたいた時は,そのような場合に似ていました。彼は,その時理解されることになっていた世界状勢,および彼らの業に関する聖書預言を説き明かすことにより,戸をたたかれたのです。残りの者はそれに応じ,彼を迎えるために戸を開けました。その結果,彼らのもてなしはすばらしい祝福となって返ってきました。それに続く霊的な夕食は,天の客が彼らに指示と励ましを与えてくださる特別の時期を意味しました。彼が残りの者と夕食を共にするというよりは,残りの者が彼と夕食を共にしていたのです。
23 油そそがれた者たちと晩さんを共にすると語ったイエスは,単に霊的な宴以上の何を考えておられたかもしれませんか。
23 「わたしはその者の家にはいって彼と,そして彼はわたしと晩さんを共にするであろう」(啓示 3:20),と言われた栄光のイエス・キリストは,もてなしの精神に満ちた残りの者が1919年に享受し始めた,地上の霊的宴以上のものを指しておられたのかもしれません。また,マタイ 25章1-12節の賢い処女と愚かな処女の例えに描かれている,明かりのついたともしびを持った五人の処女が入るのを許される,天の「婚宴」に彼らが行くことをも考えておられたのかもしれません。あるいは,「子羊の結婚の晩さんに招かれた者たちは幸いである」,と啓示 19章9節に述べられている,天の幸いについて触れられたのかもしれません。または,死者から霊の天における不滅の命への復活を通して『神の王国のパン』を食べること,いわば,即位し,統治しておられる王イエス・キリストと共に天でパンを食べることを言っておられたのかもしれません。とにかく,こたえ応じる残りの者は,1919年,戸をたたく彼の音と声を聞き,それから戸を開けました。彼らはそれにより,非常に祝福された天の「夕食」に導かれているのです。
24,25 (イ)霊的な「晩さん」はどんな事柄と関係がありましたか。(ロ)したがって,イエスが次にご自分と共に座にすわることに関して述べたのは,なぜ適切さを欠いた表現ではありませんか。(ハ)彼はいつ征服者が自分と共に座にすわることを許されますか。
24 時間と状況からすると,1919年に始まった「晩さん」は,王国の事柄に関係を持っていました。であれば,栄光を受けたイエス・キリストが,「晩さん」について語った後,次の約束をされたのは適切なことといえます。「征服する者には,わたしとともにわたしの座にすわることを許そう。わたしが征服して,わたしの父とともにその座にすわったようにである」。(啓示 3:21)ラオデキア会衆に音信が与えられた西暦約96年当時,イエス・キリストは天の父と共に,その右にすでに座しておられました。(使徒 2:32-36; 7:55,56。ペテロ第一 3:22)しかし,西暦1914年の異邦人の時の終わり以来,そして詩篇 110篇1-6節の成就として,敵のただ中で統治を行なう王に就任して以来,彼は,征服を遂げる追随者に,統治する王であるご自分と共に天の座にすわることを許されます。彼らを死人からよみがえらせ,共同相続者としてご自分と共にならせることによりそうされるのです。彼は西暦1918年の春に神の霊的神殿に来たのですから,その時から肉体的な死を遂げる油そそがれた残りの者たちは,死の眠りに就いて彼の再来を待つ必要はありません。霊の被造物として直ちに復活を受け,彼のおられる天に行くのです。―啓示 14:13。コリント第一 15:50-54。
25 そのような栄光ある事柄に関する約束は,聴くに値します。また,ぜひとも自分のものにするよう努力する価値があります。ゆえに,ラオデキア会衆の「使い」すなわち監督に対する言葉は,次のように結ばれています。「耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい」― 啓示 3:22。
26,27 神の霊が征服者に報いとして約束した事柄を要約しなさい。
26 「アジア地区にある七つの会衆」すべてに対する特別の音信が,その「使いたち」に送られた今日,征服者に約束された報いとして神の霊が諸会衆に語った事柄すべてを考慮するのは,特に地上の油そそがれた残りの者にとっては圧倒されんばかりの経験です。霊によって生み出された,油そそがれたクリスチャンから成るそれら会衆内の各征服者は,「神のパラダイスにある命の木から食べること」を許されます。(啓示 2:7)「命の冠」を与えられ,『決して第二の死に損われることがありません』。(啓示 2:10,11)「隠されているマナの幾らか」,さらに,「白い小石」を与えられます。『その小石には,それを受ける者以外にはだれも知らない新しい名が書かれています』。(啓示 2:17)また,「諸国民に対する権威を与え」られ,「その者は鉄の杖で民を牧し,彼らは粘土の器のように打ち砕かれる」のです。さらに,「明けの星を与え」られます。―啓示 2:26-28。
27 ふさわしい征服者は各,栄光を受けたキリストと共に,「白い」,そうです,『白い外衣で身を装って』歩くことになり,『彼の名を命の書から塗り消す』処置は取られません。「わたしの父の前またその使いたちの前で彼の名を認める」,とキリストは語っておられます。(啓示 3:4,5)各征服者は,キリストの言われるように,「わたしの神の神殿の中の柱と」され,「そしてわたしは,わたしの神の名と,わたしの神の都市,すなわち天からわたしの神のもとから下る新しいエルサレムの名と,わたしの新しい名をその者の上に書く」のです。(啓示 3:12)征服者各人に,栄光を受けたキリストは次の約束をもしておられます。「わたしとともにわたしの座にすわることを許そう。わたしが征服して,わたしの父とともにその座にすわったようにである」― 啓示 3:21。
28 復習として,さらに次の点を簡潔に述べなさい。(イ)何人が征服者としてふさわしいことを実証しますか。(ロ)彼らはどんな天的な国民を構成しますか。(ハ)彼らに証印を押す業はいつ始まりましたか。(ニ)証印を押す業はどんな時以前に終了しなければなりませんか。
28 霊によって生み出された14万4,000人の油そそがれたクリスチャンだけが,ふさわしい征服者であることを実証し,キリストを介しての神の意志と力により,こうした壮大な報いすべてにあずかります。彼らは,いわば,十二の等しい部族による天の霊的イスラエルを構成します。西暦33年のペンテコステの祭りの日以来,過去19世紀にわたり,彼らの霊的な額に神の霊をもって証印を押す業が行なわれており,彼らは霊的イスラエルの神の特別の所有物として公にしるしをつけられています。あらしのような「地の四方の風」が,近づく「全能者なる神の大いなる日」に吹き荒れることを許される前に,14万4,000の霊的イスラエル人の最終的な全数を満たすのになお必要な残りの者すべてが,キリストと共なる将来の天的相続財産の印としての,神の霊によって証印を押されねばなりません。―啓示 7:1-8; 16:14。
29 証印を押す業が終了した後にどんな事柄が起きますか。
29 この証印を押す業は終わりに近づいています。それが終わると,地上で人間が経験したいかなる災難をもしのぐ患難が,人類の世すべてに臨みます。その後,悪魔サタンと悪霊たちが閉じ込められ,続いて,本当に喜ばしいことに,イエス・キリストとその王国相続者たちによる千年統治が到来するのです。それは神の栄光となり,パラダイスの地における命をもって人類を祝福します。―マタイ 24:21,22,31。啓示 19:11から20:6。ルカ 23:43。
[脚注]
a 彼はダニエル書 11章6節の成就に結びつけられています。1958年,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会により出版された「御心が地に成るように」(日本語版,1963年)と題する本の230,231ページをごらんください。
b ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会が1962年に出版した,「『ことば』― ヨハネによるとそれはだれですか」(英文)と題する小冊子の64ページをごらんください。