-
せん越さは不名誉につながるものみの塔 2000 | 8月1日
-
-
せん越さは不名誉につながる
「せん越さが来たか。それでは不名誉が来る。しかし知恵は,慎みある者たちと共にある」。―箴言 11:2。
1,2 せん越さとは何ですか。どのように災いのもととなってきましたか。
そねみの気持ちを抱いたあるレビ人は,反逆的な暴徒を先導して,エホバの任命した権威ある人たちに敵対します。野心的になったある王子は,父親の王位を奪おうと卑劣な企てを巡らします。ある王は辛抱しきれなくなって,神の預言者からの明確な指示を無視します。これら3人のイスラエル人には,一つの共通の性向が見られます。せん越さです。
2 せん越さは心の特徴であり,だれの場合にせよ容易ならぬ問題を引き起こす恐れがあります。(詩編 19:13)せん越な人は,自分に権限のない物事について,厚かましくも自分勝手な振る舞いをします。それによって災いを被る場合が少なくありません。実際,せん越さのゆえに,王たちは身を滅ぼし,帝国は倒壊しました。(エレミヤ 50:29,31,32。ダニエル 5:20)エホバの僕たちの中にも,せん越になって破滅に至った人たちがいます。
3 どうすれば,せん越になることの危険について学べますか。
3 聖書が次のように述べていることには十分の理由があります。「せん越さが来たか。それでは不名誉が来る。しかし知恵は,慎みある者たちと共にある」。(箴言 11:2)聖書には,この箴言の真実さを裏づける数々の実例があります。その幾つかを考察すれば,しかるべき境界を踏み越えてしまうことの危険について知ることができます。では,冒頭で挙げた3人の人がどのように,そねみ,野心,辛抱しきれない気持ちに駆られてせん越な行動に走り,不名誉な結果になったかを考えてみましょう。
コラ ― そねみを抱いた反逆者
4 (イ)コラはどんな人でしたか。どんな歴史的出来事を体験していたに違いありませんか。(ロ)後にコラは,悪名のもととなったどんな行動を扇動しましたか。
4 コラはコハト氏族のレビ人で,モーセとアロンのいとこに当たりました。幾十年もエホバに忠節を保ってきたと思われます。コラは,奇跡的に紅海を通って救出された民の一人となる特権にあずかり,シナイ山で子牛崇拝をしたイスラエル人に対するエホバの裁きを執行することにも加わっていたようです。(出エジプト記 32:26)しかし,やがてコラは,モーセとアロンに対する反乱の首謀者となりました。それには,ルベン人のダタン,アビラム,オン,ならびにイスラエルの長250人が加わっていました。a 彼らはモーセとアロンにこう言います。「あなた方のことはもう沢山だ。集会全体はそのだれもが聖なる者であり,エホバはその中におられるのだ。それなのに,どうしてあなた方は自分をエホバの会衆の上に高めるのか」。―民数記 16:1-3。
5,6 (イ)コラがモーセとアロンに反逆したのはなぜですか。(ロ)コラは神の取り決めにおける自分の立場を過小に評価していたのであろうと言えるのはなぜですか。
5 コラは幾年も忠実であったのに,なぜ反逆したのでしょうか。イスラエルに対するモーセの指導は圧制的なものではなかったはずです。モーセは「地の表にいるすべての人の中でとりわけ柔和な人物」であったからです。(民数記 12:3)それでもコラはモーセとアロンをそねんで,二人が目立っていることを腹立たしく思い,そのために誤って,二人が自分たちを勝手に,そして利己的に会衆の上に高めている,と言ったようです。―詩編 106:16。
6 コラが問題を抱えたことの一因は,神の取り決めの中で自分に与えられていた特権を大切にしなかったことにあるようです。確かにコハト氏族のレビ人は全員が祭司だったわけではありませんが,神の律法を教える立場にありました。また,幕屋の備品や器具を搬送しなければならないとき,一部のコハト人はそれらを担いました。それは決して,取るに足りない仕事ではありませんでした。聖なる器具は,宗教的また道徳的に清い人しか扱えなかったからです。(イザヤ 52:11)ですからモーセは,コラと相対した時,事実上,祭司職をも自分のものにしなければならないほど今の自分の職務をささいなものとでも考えているのですか,と問いかけていたのです。(民数記 16:9,10)コラは,最大の誉れが,何か特別の地位や身分を得ることではなく,取り決めにしたがってエホバに忠実に仕えることである,という点を理解しそこなっていました。―詩編 84:10。
7 (イ)モーセはコラとその配下の人々にどのように対応しましたか。(ロ)コラの反逆はどのように災いに終わりましたか。
7 モーセはコラとその配下の人々に,次の朝に火取り皿と香を携えて会見の天幕のところに集まるよう促しました。コラとその配下の人々は祭司ではなかったので,香をささげる権限はありませんでした。もし火取り皿と香を携えてやって来るとしたら,その件について一晩考え直した後にも,自分たちにはやはり祭司として行動する権利があると思っていることをはっきり示すものとなります。翌朝それらの人々が姿を見せた時,エホバは当然ながら憤りを表明されました。ルベン人については,『地が口を開いて彼らを呑み込み』,コラをはじめとする残りの人々は神からの火によって焼き尽くされました。(申命記 11:6。民数記 16:16-35; 26:10)コラのせん越さは,まさに不名誉そのもの,神の不興を被る結果に至りました。
「そねみの傾向」に屈してはならない
8 「そねみの傾向」はどのようにクリスチャンの間にも頭をもたげることがありますか。
8 コラに関する記述は,わたしたちに対する警告です。「そねみの傾向」は不完全な人間に内在していて,クリスチャン会衆内でも頭をもたげることがあります。(ヤコブ 4:5)例えばわたしたちは,立場を気にしているかもしれません。コラのように,自分が望んでいる特権を得ている人をそねむかもしれません。あるいは,1世紀のデオトレフェスという名のクリスチャンのようになってしまうこともあります。デオトレフェスは,使徒たちの権威に対して非常に批判的でした。自分が指揮したいと思ったからなのでしょう。実際,デオトレフェスは「第一の地位を占めたがって(いる)」と,ヨハネは書いています。―ヨハネ第三 9。
9 (イ)会衆内の責任を受け持つことについて,どんな態度を取らないようにする必要がありますか。(ロ)神の取り決めにおける自分の立場をどのように見るのはふさわしいことですか。
9 もちろん,クリスチャンの男子が会衆の責任をとらえようとするのは間違ったことではありません。パウロはそのような努力をむしろ励ましています。(テモテ第一 3:1)しかし,奉仕の種々の特権を何かの功労賞のように,あたかもそれを得ることによって出世の階段を昇ったかのように見るべきではありません。忘れないでください,イエスはこう言われました。「だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならず,また,だれでもあなた方の間で第一でありたいと思う者はあなた方の奴隷でなければなりません」。(マタイ 20:26,27)神の前での自分の価値が組織内での“階級”によって決まるかのように,自分より大きな責任をゆだねられている人をそねむのは明らかに間違っています。「あなた方はみな兄弟……です」とイエスは言われました。(マタイ 23:8)そうです,伝道者か開拓者か,バプテスマを受けて間もないか長年忠誠を保ってきたかにかかわらず,魂をこめてエホバに仕える人は皆,神の取り決めの中で価値ある立場を占めています。(ルカ 10:27; 12:6,7。ガラテア 3:28。ヘブライ 6:10)「互いに対してへりくだった思いを身に着けなさい」という聖書の助言を当てはめようと努めている幾百万の人々と肩を並べて働けることこそ,本当に祝福なのです。―ペテロ第一 5:5。
アブサロム ― 野心的な便宜主義者
10 アブサロムはどんな人でしたか。この人は,裁きを求めて王のもとに来る人々に,どのようにして取り入ろうとしましたか。
10 ダビデ王の三男アブサロムの人生行路は,野心を戒める教訓となります。この策謀にたけた便宜主義者は,裁きを求めて王のもとに来る人々に取り入ろうとしました。まず,ダビデは民の必要に無関心である,ということをほのめかします。次いで,遠回しの言い方をやめて,意図している点を明らかにします。アブサロムは,節回しをつけてこう言いました。「ああ,わたしがこの地で裁き人に任じられていたなら,訴え事や裁きを要する事柄のある人は皆,わたしのもとに来れるのだが。そうすれば,わたしはきっとそのような人を正当に扱えるのだが」。アブサロムのずる賢い手口はとどまるところを知りません。「人が近づいて彼に身をかがめようとすると,彼は手を差し出して,その人を捕まえ,口づけした。そしてアブサロムは,裁きのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのような事をしていた」と聖書は述べています。どんな結果になったでしょうか。「アブサロムはイスラエルの人々の心を盗んでい(まし)た」。―サムエル第二 15:1-6。
11 アブサロムはどのようにしてダビデの王位を奪おうとしましたか。
11 アブサロムは父の王権を奪おうと決意していました。この時より5年前,アブサロムはダビデの長男アムノンを殺害させました。表向きは,アブサロムの妹タマルが強姦されたことに対する報復でした。(サムエル第二 13:28,29)しかしその時すでに,アブサロムは王位に就くことをもくろんでおり,アムノンの殺害を,競争相手を排除するのに好都合とみなしたのかもしれません。b いずれにせよ,時が熟し,アブサロムは行動を起こしました。自分が王となったことを国じゅうにふれ告げさせたのです。―サムエル第二 15:10。
12 アブサロムのせん越さがどのように不名誉な結果になったかを説明してください。
12 しばらくの間,アブサロムにとって物事はうまくゆきました。「この陰謀はますます強力になってゆき,民はアブサロムと共になって引き続き増えていった」のです。やがてダビデ王は,命がけで逃げることを余儀なくされました。(サムエル第二 15:12-17)しかし,それほどたたないうちに,アブサロムの生涯は急に終わります。ヨアブに打ち殺され,穴の中に投げ込まれ,上に石ころを積まれました。考えてください。王になろうとしたこの野心家は,死んだ時,品位ある埋葬もされませんでした。c アブサロムのせん越さは,まさに不名誉な結果になりました。―サムエル第二 18:9-17。
利己的な野心を避けなさい
13 野心的な精神はどのようにクリスチャンの心に根を下ろすことがありますか。
13 アブサロムが権力の座に昇り,すぐに倒れたことは,わたしたちに対する教訓です。競争の激しい今日の世界では,人々が上司にこびへつらうことは珍しくありません。単に自分に注意を引くため,あるいは何らかの特権や昇進を得るために,気に入られようとするのです。その一方で,下の人に対しては,好感や支持を得ようとして自信たっぷりに大きなことを言うかもしれません。わたしたちも,注意しないなら,心にそうした野心的な精神が根を下ろす場合があります。1世紀にも一部の人々にそういうことが生じたようです。使徒たちはそのような人に対する強い警告を与えなければなりませんでした。―ガラテア 4:17。ヨハネ第三 9,10。
14 野心的に自分を高める精神を避けるべきなのはなぜですか。
14 エホバはご自分の組織の中に,自己権力の拡大を企てる人が「自分の栄光を探り出(そう)」とする余地を全く与えていません。(箴言 25:27)実際,聖書はこう警告しています。「エホバはすべての滑らかな唇を,大いなることを話す舌を切り断たれます」。(詩編 12:3)アブサロムは滑らかな唇で,自分が愛顧を求めた人たちに大げさなことを語りました。すべては,欲しくてたまらなかった,権力の地位を獲得するためでした。それとは対照的に,わたしたちはなんと祝福されているのでしょう。「何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく,むしろ,他の人が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち(なさい)」というパウロの助言に従う兄弟関係の中にいるのです。―フィリピ 2:3。
サウル ― 辛抱しきれなかった王
15 サウルはある時,慎み深い人であることをどのように示しましたか。
15 サウルはイスラエルの王となりましたが,ひところは慎み深い人でした。一例として,若いころの出来事を考えてください。神の預言者サムエルから好意的な言葉をかけられた時,サウルは謙遜にこう答えています。「わたしはイスラエルの部族のうちの最も小さい部族のベニヤミン人で,わたしの氏族はベニヤミンの部族のすべての氏族のうちの最も取るに足らないものではありませんか。それで,どうしてこのような事をわたしに話されるのですか」。―サムエル第一 9:21。
16 サウルは辛抱しきれなかったことをどのように示しましたか。
16 しかし後に,サウルの慎み深さは影を潜めてしまいました。フィリスティア人との戦争中,ギルガルに撤退したサウルは,その場所にサムエルが来て神に犠牲をささげて嘆願するまで待つことになっていました。サムエルが定めの時に来なかったとき,サウルはせん越にも自ら焼燔の犠牲をささげました。ちょうどささげ終えた時に,サムエルが到着しました。「あなたは何をしたのですか」と言うサムエルに,サウルはこう答えました。「わたしは民がわたしから離れて散って行ったのを見ましたが,あなたは ― 定められた日のうちにおいでになりませんでした……それでわたしは自らに強いて焼燔の犠牲をささげることにしたのです」。―サムエル第一 13:8-12。
17 (イ)サウルの行動が正当なことのようにも見えるのはなぜですか。(ロ)辛抱しなかったサウルをエホバがとがめたのはなぜですか。
17 サウルの行動は,一見,正当なことのように思えるかもしれません。なにしろ,神の民は「窮境に陥(り)」,「ひどく圧迫され」,その絶望的な状況のゆえにおののいていたのです。(サムエル第一 13:6,7)もちろん,状況によっては,自ら進んで行動するのも間違ったことではありません。d しかし,忘れないでください,エホバは心を読み,内奥の動機を見分けることがおできになります。(サムエル第一 16:7)ですから,サウルについて,聖書の記述に直接は述べられていない何らかの点をご覧になったに違いありません。例えばエホバは,サウルが辛抱しなかったのは誇りの気持ちによることをご覧になったのかもしれません。恐らくサウルは,全イスラエルの王である自分が,老いてぐずぐずしているように見える預言者を待たなければならないことに,ひどくいらだったのではないかと考えられます。いずれにせよサウルは,サムエルが遅れたのだから,自分には物事を自分で行なう権利があり,与えられていた明確な指示を無視してもよい,と考えました。どんな結果になったでしょうか。サムエルは,サウルの自主的な行動を褒めませんでした。それどころか,サウルを責め,「あなたの王国は長続きしません。……あなたはエホバの命じられたことを守らなかったからです」と言いました。(サムエル第一 13:13,14)この場合にもまた,せん越さは不名誉につながりました。
辛抱を欠くことのないように用心しなさい
18,19 (イ)神の現代の僕も辛抱を欠くとどのようにせん越な行ないをしかねないか,説明してください。(ロ)クリスチャン会衆の営みに関して,どんなことを忘れるべきではありませんか。
18 サウルのせん越な行ないに関する記述は,わたしたちの益のために神の言葉に収められました。(コリント第一 10:11)わたしたちは兄弟たちの不完全さにいらいらしがちです。サウルのように,辛抱しきれなくなり,物事をふさわしく扱うためには自分で何とかするしかない,と考えるかもしれません。例えば,ある兄弟が組織能力に秀でているとしましょう。時間に几帳面で,会衆の物事に関する最新の扱い方に通じており,話すことや教えることにも才能があります。一方,他の兄弟たちについて,自分が持つ細部に及ぶ基準に達しておらず,とうてい自分の望むほど有能ではない,と感じています。だからといって,じれったいと思う気持ちを表わしてもよいでしょうか。兄弟たちを批判し,自分がやらなければ何事も成し遂げられず,会衆はもたついてしまうといったことを口にしてもよいでしょうか。それはせん越なことです。
19 実際のところ,クリスチャンの会衆をひとつに結び合わせているものは何でしょう。管理能力でしょうか。能率でしょうか。知識の深さでしょうか。確かに,それらは会衆の営みがスムーズに進むために役立ちます。(コリント第一 14:40。フィリピ 3:16。ペテロ第二 3:18)しかし,ご自分の追随者はおもに愛によって見分けられると,イエスは言われました。(ヨハネ 13:35)ですから,よく配慮を払う長老たちは,物事を秩序正しく行ないつつも,会衆が厳格な管理を必要とするビジネスではないことを銘記しています。会衆は,優しい世話を必要とする羊の群れのようなものなのです。(イザヤ 32:1,2; 40:11)そうした原則をせん越にも無視することは争いを生む結果になりがちです。それとは対照的に,神を敬う態度で秩序を守れば平和が生まれます。―コリント第一 14:33。ガラテア 6:16。
20 次の記事ではどんなことを取り上げますか。
20 コラ,アブサロム,サウルに関する聖書の記述は,箴言 11章2節が述べるとおり,せん越さが不名誉につながることをはっきり示しています。しかし,聖書のその同じ節は,「知恵は,慎みある者たちと共にある」とも述べています。慎みとは何でしょうか。聖書中のどんな実例は,この特質についてはっきり理解する助けになりますか。また,今日どのように慎みを示せるでしょうか。これらの点は次の記事で取り上げます。
[脚注]
a ルベンはヤコブの長子でしたから,その子孫でコラに感化されて反逆した人々は,自分たちに対する管理上の権限がレビの子孫であるモーセにあることを腹立たしく思ったのかもしれません。
b ダビデの次男キルアブの誕生後のことは述べられていません。恐らく,アブサロムが反乱を起こす以前に亡くなっていたのでしょう。
c 聖書時代,遺体の埋葬は少なからず重要な行為でした。ですから,埋葬を許されないというのは災いであり,神の不興の表明である場合が少なくありませんでした。―エレミヤ 25:32,33。
d 例えば,ピネハスは即座に行動して,幾万人ものイスラエル人を死なせた神罰を食い止めましたし,ダビデは飢えていた部下たちに一緒に「神の家」の供えのパンを食べるよう勧めました。どちらの行ないも神からせん越なこととはされていません。―マタイ 12:2-4。民数記 25:7-9。サムエル第一 21:1-6。
-
-
「知恵は,慎みある者たちと共にある」ものみの塔 2000 | 8月1日
-
-
「知恵は,慎みある者たちと共にある」
「エホバがあなたに求めておられるのは,ただ……慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか」。―ミカ 6:8。
1,2 慎みとは何ですか。せん越さとどのように異なりますか。
ある人は,使徒として著名ですが,自分に注意を引こうとはしません。勇気ある,イスラエルの裁き人が,自分のことを父の家で最も小さな者であるとします。これまでに生存した中で最も偉大な人は,自分に与えられた権限は無制限のものではないことを認めます。これらの人はいずれも,慎みを表わしています。
2 慎みは,せん越さの反対です。慎み深い人は,自分の能力や価値をありのままに評価し,うぬぼれや気負いがありません。慎みのある人は誇ったり,自慢したり,野心を抱いたりせず,いつも自分の限界をわきまえています。ですから,他の人の気持ちや見方を尊重し,思いやりを示します。
3 どのような意味で知恵は「慎みある者たちと共に」ありますか。
3 「知恵は,慎みある者たちと共にある」と聖書が述べていることには十分の理由があります。(箴言 11:2)慎みのある人は,神の是認される道を取るゆえに,そして不名誉な結果になるせん越な精神を避けるゆえに,知恵があります。(箴言 8:13。ペテロ第一 5:5)慎み深さに伴う知恵は,幾人もの神の僕たちの生き方によって裏づけられています。最初の節に例として挙げた3人について考えましょう。
パウロ ―「従属する者」,また「家令」
4 パウロはどんな比類のない特権を享受しましたか。
4 パウロは初期クリスチャンの間で著名な人物でした。それも当然のことでした。宣教奉仕に伴って,海路や陸路を何千キロも旅行し,数多くの会衆を設立しました。それだけでなく,エホバはパウロに数々の幻という祝福を与え,異国の言葉を話す賜物も授けました。(コリント第一 14:18。コリント第二 12:1-5)さらに,パウロに霊感を与えて,今ではクリスチャン・ギリシャ語聖書の一部となっている14通の手紙を書き記させました。明らかに,パウロの労苦は他のすべての使徒たちよりも多かったと言えます。―コリント第一 15:10。
5 パウロは,自分について慎み深い見方をしていることをどのように示しましたか。
5 パウロはクリスチャン活動の最前線にいたので,脚光を浴びて得々とし,権威を誇示することもあっただろう,と考える人がいるかもしれません。しかし,そうではありませんでした。パウロは慎み深い人だったからです。自分のことを「使徒のうち最も小さな者」と呼び,『わたしは使徒と呼ばれるに値しません。神の会衆を迫害したからです』とも述べました。(コリント第一 15:9)かつてクリスチャンを迫害する者であったパウロは,自分がともかく神との関係を持てたこと,ましてや類まれな奉仕の特権を享受できることは,ただ過分のご親切による,という点を決して忘れませんでした。(ヨハネ 6:44。エフェソス 2:8)ですから,宣教面で並外れた事柄を成し遂げたから自分は他の人より勝っている,といった気持ちなどパウロにはありませんでした。―コリント第一 9:16。
6 パウロは,コリントの人たちとの接し方においてどのように慎み深さを示しましたか。
6 パウロの慎み深さは,コリントの人たちとの接し方に特にはっきり表われていました。そこの一部の人たちは,自分たちがそれぞれ著名な監督とみなす,アポロ,ケファ,そしてパウロなどの人たちに傾倒していたようです。(コリント第一 1:11-15)しかしパウロは,コリント人の称賛を求めることも,その人たちの称賛に付け込むこともしませんでした。実際にそこを訪ねた時も,「もったいぶった話し方や知恵を携えて」は行きませんでした。それどころか,パウロは自分と自分の仲間に関して,「人は,わたしたちを,キリストに従属する者,また神の神聖な奥義の家令と評価すべきです」と述べました。a ―コリント第一 2:1-5; 4:1。
7 パウロは,助言を与えるときにも,どのように慎みを表わしましたか。
7 パウロは,強い助言や指示を与えなければならないときにも,慎みを表わしました。仲間のクリスチャンに,使徒としての権威の重みによってではなく,「神の情けによって」,また「愛に基づいて」懇願しました。(ローマ 12:1,2。フィレモン 8,9)なぜパウロはそうしたのでしょうか。それは,現に自分を兄弟たちの「同労者」とみなし,『信仰の主人』とは考えていなかったからです。(コリント第二 1:24)1世紀のクリスチャンの諸会衆がパウロに特に親愛の情を抱いたのも,一つには,パウロが慎み深い人であったからに違いありません。―使徒 20:36-38。
自分の特権に対する慎み深い見方
8,9 (イ)自分について慎み深い見方をすべきなのはなぜですか。(ロ)幾らかの責任をゆだねられている人は,どのように慎みを表わせますか。
8 パウロは今日のクリスチャンが見倣うべき立派な手本を残しました。わたしたちはだれも,どんな責任をゆだねられていようと,自分は他の人より上であると考えるべきではありません。「取るに足りない者であるのに,自分は相当な者であると考える人がいるなら,その人は自分の思いを欺いている」とパウロは書いています。(ガラテア 6:3)なぜそうでしょうか。なぜなら,「すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しない」からです。(ローマ 3:23; 5:12)そうです,わたしたちは皆アダムから罪と死を受け継いでいる,ということを決して忘れてはなりません。類まれな特権を与えられても,この低い,罪ある状態から引き上げられるわけではありません。(伝道の書 9:2)パウロの場合と同様,そもそも人間が神との関係に入れるのは,ましてや何かの特権の立場で神に仕えられるのは,ただ過分のご親切によるのです。―ローマ 3:12,24。
9 慎みのある人は,その点を自覚しているので,特権を与えられても得意がったりせず,自分の成し遂げたことを誇ったりもしません。(コリント第一 4:7)助言や指示を与えるときには,主人としてではなく,同労者としてそうします。人がある種の仕事に秀でていることで,仲間の信者の称賛を求めたり,称賛の気持ちに付け込んだりするとしたら,それはいかにも間違いです。(箴言 25:27。マタイ 6:2-4)多少とも価値があるのは他の人から来る称賛だけであり,それは求めたものではないはずです。実際に称賛を受けるとしても,そのために自分のことを必要以上に考えることのないようにすべきです。―箴言 27:2。ローマ 12:3。
10 立場が低いように見えて実際には『信仰に富んで』いる人のことを説明してください。
10 幾らか責任をゆだねられている場合でも,慎みを働かせれば,自分に過度の重きを置かずにすみ,自分が努力し,能力を生かしているから会衆は繁栄しているのだといった印象を与えることはないでしょう。例えば,わたしたちには特に,教える才能があるかもしれません。(エフェソス 4:11,12)しかし,慎み深く考えれば,会衆の集会で学ぶ最大の教訓の中には演壇から与えられる以外のものもある,ということを認めないわけにはいきません。例えば,独りで子どもを育てている人がその子どもたちを連れていつも王国会館に来るのを見ると,励みを受けるのではないでしょうか。あるいは,自分は価値がないといった感情に付きまとわれながらも忠実に集会に来る憂いに沈んだ魂,また学校その他の場所で悪い影響にさらされながらも着実に霊的な進歩を遂げている若者を目にするときはどうですか。(詩編 84:10)その人たちは脚光を浴びたりはしないでしょう。その直面する忠誠の試みは,他の人たちにはおおむね気づかれないかもしれません。それでも,目立っている人たちと同じように『信仰に富んで』いることでしょう。(ヤコブ 2:5)なんと言っても,エホバの恵みをかちえるのは,結局のところ忠実さなのです。―マタイ 10:22。コリント第一 4:2。
ギデオン ― 父の家の中で「最も小なる者」
11 ギデオンは神のみ使いと話したとき,どのように慎みを示しましたか。
11 マナセの部族のたくましい青年であったギデオンは,イスラエルの歴史における動乱の時代に生きた人でした。神の民は7年にわたってミディアン人に虐げられていました。しかし今,エホバがご自分の民を救出する時が来ていました。そこで,ひとりのみ使いがギデオンに現われ,「勇敢な力ある者よ,エホバはあなたと共におられる」と言いました。ギデオンは慎みのある人だったので,思いがけないこの褒め言葉の栄光にひたることはしませんでした。むしろ,敬意のこもった態度でそのみ使いに,「失礼ですが,我が主よ,もしエホバがわたしたちと共におられるのでしたら,どうしてこのような事すべてがわたしたちに臨んでいるのでしょうか」と言いました。み使いは,要点をはっきりさせ,「あなたはイスラエルを必ずミディアンの掌中から救うことになる」とギデオンに告げました。ギデオンはどのように返答したでしょうか。その任務を,国民的英雄になる機会として飢えたようにとらえるようなことはしません。こう答えました。「失礼ですが,エホバ,わたしは何をもってイスラエルを救うのでしょうか。ご覧ください,わたしの一千はマナセの中で一番小さく,わたしは自分の父の家の中でも最も小なる者なのです」。なんと慎み深い態度でしょう。―裁き人 6:11-15。
12 ギデオンは,任務を遂行するのに,どのように思慮深さを示しましたか。
12 エホバはギデオンを,戦場に送り出す前に,試みました。どのようにでしょうか。ギデオンは,自分の父親の持つ,バアルへの祭壇を破壊し,その脇に立っている聖木を切り倒すよう告げられました。その任務を遂行するには勇気が要りましたが,ギデオンはそれを遂行する面でも慎みと思慮深さを示します。自分に公衆の注目を集めるようなことをせず,できるだけ気づかれずにすむよう夜の間に行動します。そのうえギデオンは,しかるべき慎重さをもってその任務に取り組みます。僕を10人連れて行きました。何人かに見張りをさせながら,残りの者たちに手伝ってもらって祭壇と聖木を取り壊すためだったのでしょう。b いずれにせよ,ギデオンはエホバの祝福を得てその任務を遂行し,やがてイスラエルをミディアン人から解放するために神に用いられました。―裁き人 6:25-27。
慎みと思慮深さを表わす
13,14 (イ)奉仕の特権を差し伸べられたとき,どのように慎みを示せますか。(ロ)A・H・マクミラン兄弟は慎みを表わす点でどのように立派な手本を残しましたか。
13 わたしたちはギデオンの慎み深さから多くのことを学べます。例えば,何か奉仕の特権を差し伸べられたら,どう反応するでしょうか。それによって自分が目立つことや,威信が備わることをまず考えるでしょうか。それとも,その割り当てゆえに求められる事柄を自分は果たせるだろうかと,慎み深く,祈りのうちに熟考するでしょうか。1966年に地上での歩みを終えたA・H・マクミラン兄弟は,その点で立派な手本を残しました。ものみの塔協会の初代会長C・T・ラッセルは,かつてマクミラン兄弟に,自分が不在のときだれに仕事を任せたらよいかについて意見を求めたことがありました。そのあとの話し合いの際,マクミラン兄弟は,自己推薦するには非常に都合がよかったはずですが,一度もそうはしませんでした。ついにラッセル兄弟はマクミラン兄弟に,この任務を引き受けてもらえないだろうかと言いました。マクミラン兄弟は,何年も後にこう書いています。「私はしばし茫然としました。ゆっくりと,非常に真剣に考え,しばらく祈ってから,やっとのことで,助けとして私にできることでしたら何でもいたしますと申し上げました」。
14 その後まもなくラッセル兄弟は亡くなり,ものみの塔協会の会長職は空席になりました。マクミラン兄弟はラッセル兄弟の最後の伝道旅行のとき留守を任されていたので,ある兄弟からこう言われました。「マック,あなたがその職に就く公算が大きいと思います。ラッセル兄弟が留守のときの特別な代表者でしたし,ラッセル兄弟は私たち皆に,あなたの言うとおりにするようにと言いました。ラッセル兄弟は去り,もう戻ってこられないのですから,あなたが後を引き継ぐべき人だと思います」。それに対してマクミラン兄弟はこう言いました。「兄弟,この件をそのように見るべきではありません。これは主の業であり,主の組織の中ではどんな立場にせよ主が与えるにふさわしいとご覧になる人がその立場に就くのです。私はその職務には向いていないと思います」。そのあとマクミラン兄弟はほかの人をその立場に推薦しました。ギデオンのように,自分について慎み深い見方をしていました。わたしたちも倣うべき見方です。
15 他の人に宣べ伝えるとき,識別力を働かせるどんな実際的な方法がありますか。
15 自分の務めを果たすときには,わたしたちも慎み深くあるべきです。ギデオンは思慮深く振る舞い,反対者たちを不必要に怒らせないように努めました。同様にわたしたちも,宣べ伝える業において,他の人にどのように話すかについて慎み深く,また思慮深くあるべきです。確かに,わたしたちは,「強固に守り固めたもの」や「いろいろな推論」を覆す霊的な戦いに携わっています。(コリント第二 10:4,5)しかし,人を見下したような態度で話したり,何にせよわたしたちの音信に憤慨するもっともな理由を与えたりするべきではありません。むしろ,相手の見解を尊重し,共通する点を強調し,その上で音信の積極的な面に注意を向けるべきでしょう。―使徒 22:1-3。コリント第一 9:22。啓示 21:4。
イエス ― 慎みの最高の手本
16 イエスは自分について慎み深い見方をしていることをどのように示しましたか。
16 慎みに関する最も優れた手本は,イエス・キリストの示したものです。c イエスは,み父と親しい関係にあったにもかかわらず,自分の権限を超えた事柄もあることをためらいなく認めました。(ヨハネ 1:14)例えば,ヤコブとヨハネの母が,息子たち二人が王国でイエスの傍らに座るようにしてくださいと言った時,イエスは,「わたしの右また左に座るこのことは,わたしの授けることでは(ありません)」と言われました。(マタイ 20:20-23)また別の時には,「わたしは,自分からは何一つ行なえません。……わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わした方のご意志を求める(の)です」と,率直に認めました。―ヨハネ 5:30; 14:28。フィリピ 2:5,6。
17 イエスは他の人たちを扱う際にどのように慎みを示しましたか。
17 イエスはあらゆる点で,不完全な人間より勝っており,み父エホバから授けられた比類のない権威を有しておられました。それでも,追随者たちを扱う際に慎みを表わされました。知識をこれ見よがしに示して圧倒するようなことはしませんでした。こまやかな感情と同情心を示し,弟子たちが人間として必要としている事柄を考慮されました。(マタイ 15:32; 26:40,41。マルコ 6:31)ですからイエスは,完全な方でしたが,完全主義者ではありませんでした。行なえる以上のことを弟子たちに要求したり,負いきれない荷を負わせたりはしませんでした。(ヨハネ 16:12)多くの人がイエスにさわやかなものを見いだしたのも不思議ではありません。―マタイ 11:29。
イエスの示した慎みの手本に倣いなさい
18,19 わたしたちは,(イ)自分に対する見方の点で,(ロ)他の人に対する扱い方の点で,どのようにイエスの慎みに倣うことができますか。
18 これまでに生存した中で最も偉大な方が慎みを示したのであれば,わたしたちはなおのことそうすべきでしょう。不完全な人間は,自分に絶対的な権威などないことを,なかなか認めようとしません。しかしクリスチャンは,イエスに倣って,慎み深くあるように努めます。自分のプライドにこだわり,資格のある人にも責任をゆだねないということはなく,ごう慢さのために,指示を与える権限のある人からの指示を快く受け入れないということもありません。協力の精神を示し,会衆内のすべての物事が「適正に,また取り決めのもとに」行なわれるようにします。―コリント第一 14:40。
19 慎みを持てば,他の人に対する期待も道理にかなったものになり,他の人の必要としている事柄を思いやることもできます。(フィリピ 4:5)自分には,他の人にない能力や長所があるかもしれません。しかし,慎み深ければ,他の人がこちらの望むとおりに行動することをいつも期待したりはしないでしょう。わたしたちは,どの人にもそれぞれ限界があることを認めて慎み深い見方をし,他の人の欠けた所を大目に見るでしょう。ペテロはこう書いています。「何よりも,互いに対して熱烈な愛を抱きなさい。愛は多くの罪を覆うからです」。―ペテロ第一 4:8。
20 慎みを欠く傾向があるなら,それを克服するために何を行なえますか。
20 すでに学んだように,知恵は確かに慎みある者たちと共にあります。では,慎みを欠く,あるいはせん越になる傾向が自分にあることに気づいたら,どうでしょうか。失意することはありません。ダビデの例に倣いましょう。「せん越な行為からあなたの僕をとどめてください。それにわたしを支配させないでください」と祈るのです。(詩編 19:13)わたしたちは,パウロやギデオンのような人,まただれよりもイエス・キリストの信仰に倣うことによって,「知恵は,慎みある者たちと共にある」という言葉の真実さを自ら体験できるのです。―箴言 11:2。
[脚注]
a 「従属する者」と訳されているギリシャ語の言葉は,大型船のかいの下段の列をこいだ奴隷を指す場合があります。それとは対照的に,「家令」は多くの責任をゆだねられ,一つの家屋敷の管理を任されることもあります。それでも,大抵の主人から見れば,家令はガレー船の奴隷と同じように隷属の身でした。
b ギデオンの思慮深さと用心深さを臆病のしるしのように誤解すべきではありません。臆病どころか,ギデオンが勇気のある人であったことは,ヘブライ 11章32-38節で確証されています。そこではギデオンも,「強力な者とされ(た)」人や「戦いにおいて勇敢な者とな(った)」人たちの中に含められています。
-