ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 追 第17章 172–181ページ
  • 「これより大きな愛はありません」

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 「これより大きな愛はありません」
  • 「来て,私の弟子になりなさい」
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • イエスが苦しんで死ぬ必要があったのはなぜか
  • イエスがためらわずに命を差し出したのはなぜか
  • 「私があなたたちを愛した通りに,……互いを愛しなさい」
  • 自己犠牲的な愛を示すとはどういうことか
  • 会衆や家庭で
  • イエスに従って生きる
  • ヨハネ 15:13 「これ以上に大きな愛はない」
    聖句の解説
  • エホバの愛を基とするクリスチャンの愛
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
  • イエスに倣ってほかの人の必要を優先する
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2022
  • 愛 ―「さらに勝った道」
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1980
もっと見る
「来て,私の弟子になりなさい」
追 第17章 172–181ページ

第17章

「これより大おおきな愛あいはありません」

ポンテオ・ピラトが片手でイエスの方を指している。イエスは両手を縛られ,紫の長い衣を着ていばらの冠をかぶっている。

1-4. (ア)ピラトが暴ぼう徒とたちの前まえにイエスを連つれ出だした時とき,どのような反はん応のうがありましたか。(イ)屈くつ辱じょく的てきでひどいことをされたイエスは,どんな態たい度どを貫つらぬきましたか。これからどんなことを考かんがえますか。

「見みなさい,この人ひとだ!」 ローマ総そう督とくポンテオ・ピラトは,自じ分ぶんの邸てい宅たくの外そとに集あつまった暴ぼう徒とたちの前まえにイエス・キリストを連つれ出だし,そう言いいました。西せい暦れき33年ねんの過すぎ越こしの日ひの朝あさのことです。(ヨハネ 19:5)ほんの数すう日じつ前まえにイエスが神かみに選えらばれた王おうとしてエルサレムに入はいった時とき,人ひと々びとは大おお喜よろこびで迎むかえました。ところが今いまは,イエスに対たいして敵てき意いをむき出だしにしています。

2 イエスは王おう族ぞくが着きるような紫むらさきの長ながい衣ころもを身みに着つけ,冠かんむりをかぶっています。しかしそれは,自じ分ぶんを王おうだと言いったイエスをばかにするために人ひと々びとが着きせたものです。衣ころもの下したの背せ中なかはむちで打うたれてずたずたに裂さけていて,血ちまみれです。冠かんむりはいばらを編あんだもので,それが頭あたまに押おし付つけられたため,頭あたまからも血ちが流ながれています。祭さい司し長ちょうたちにあおられた群ぐん衆しゅうは,ぼろぼろのイエスに全まったく敬けい意いを払はらおうとしません。祭さい司したちは「杭くいに掛かけろ! 杭くいに掛かけろ!」と叫さけび,群ぐん衆しゅうも「彼かれは死しに値あたいします」と声こわ高だかに主しゅ張ちょうします。(ヨハネ 19:1-7)

3 イエスは,どれほど屈くつ辱じょく的てきでひどいことをされても堂どう々どうとしていて,じっと耐たえています。a 死しぬ覚かく悟ごができているのです。その過すぎ越こしの日ひ,イエスは杭くいに掛かけられ,ひどく苦くるしみながら亡なくなりました。(ヨハネ 19:17,18,30)

4 イエスは弟で子したちのことを本ほん当とうに愛あいしていたので,大たい切せつな友ともたちのために自じ分ぶんの命いのちを差さし出だしました。「友とものために自じ分ぶんの命いのちをなげうつこと,これより大おおきな愛あいはありません」と言いっていた通とおりです。(ヨハネ 15:13)それにしても,イエスがそれほどまでに苦くるしんで死しぬ必ひつ要ようが本ほん当とうにあったのでしょうか。イエスがためらわずに命いのちを差さし出だしたのはどうしてでしょうか。イエスの弟で子しであり「友とも」でもある私わたしたちは,どのようにイエスの手て本ほんに倣ならえるでしょうか。

イエスが苦くるしんで死しぬ必ひつ要ようがあったのはなぜか

5. 自じ分ぶんがどんな試し練れんに遭あうかをイエスが知しっていたのはどうしてですか。

5 イエスは自じ分ぶんが約やく束そくのメシアとしてどんな経けい験けんをするか分わかっていました。メシアがどのように苦くるしんで死しぬかを詳くわしく予よ告こくしていたヘブライ語ご聖せい書しょの数かず々かずの預よ言げんを知しっていたのです。(イザヤ 53:3-7,12。ダニエル 9:26)それで,自じ分ぶんがどんな試し練れんに遭あうかを弟で子したちに何なん度どか伝つたえました。(マルコ 8:31; 9:31)自じ分ぶんにとって最さい後ごの過すぎ越こしを祝いわうためにエルサレムに向むかっていた時ときには,使し徒とたちにこう言いいました。「人ひとの子こは祭さい司し長ちょうと律りっ法ぽう学がく者しゃたちに引ひき渡わたされ,死しに値あたいすると断だん罪ざいされて異い国こくの人ひと々びとに引ひき渡わたされます。そして,人ひとの子こはあざけられ,唾つばを掛かけられ,むち打うたれ,殺ころされます」。(マルコ 10:33,34)イエスは決けっして大おおげさなことを言いっていたのではありません。ここまでで取とり上あげた通とおり,イエスは実じっ際さいにあざけられ,唾つばを掛かけられ,むち打うたれ,殺ころされました。

6. イエスが苦くるしんで死しぬ必ひつ要ようがあったのはどうしてですか。

6 では,どうしてイエスは苦くるしんで死しぬ必ひつ要ようがあったのでしょうか。幾いくつかの大だい事じな目もく的てきがあったからです。第だい一いちに,イエスが忠ちゅう誠せいを貫つらぬくことにより,エホバの名なが神しん聖せいなものとされることになりました。サタンは,神かみの治おさめ方かたには問もん題だいがあり,人にん間げんが神かみに仕つかえるのは私し利り私し欲よくからにすぎない,と主しゅ張ちょうしています。(ヨブ 2:1-5)イエスは「苦くるしみの杭くいに掛かけられて死しぬ」まで忠ちゅう実じつであり続つづけることにより,サタンの主しゅ張ちょうが間ま違ちがっていることを証しょう明めいしました。(フィリピ 2:8。格かく言げん 27:11)第だい二にに,メシアが苦くるしんで死しぬことにより,人ひと々びとの罪つみが償つぐなわれることになりました。(イザヤ 53:5,10。ダニエル 9:24)イエスが「多おおくの人ひとと引ひき換かえる贖あがないとして自じ分ぶんの命いのちを与あたえ」てくれたおかげで,私わたしたちは神かみとの友ゆう情じょうを育はぐくむことができます。(マタイ 20:28)第だい三さんに,イエスはさまざまな苦くるしみに耐たえたことで,「あらゆる点てんで私わたしたちと同おなじように試ためされ」ました。そのようにして,「私わたしたちの弱よわさに同どう情じょう」できる思おもいやり深ぶかい大だい祭さい司しになりました。(ヘブライ 2:17,18; 4:15)

イエスがためらわずに命いのちを差さし出だしたのはなぜか

7. イエスはどんな犠ぎ牲せいを払はらって地ち上じょうに来きましたか。

7 イエスがしたことはどれほどすごいことだったのでしょうか。次つぎのように考かんがえてみてください。あなたが外がい国こくに移い住じゅうすることになったとして,もし移い住じゅう先さきのほとんどの人ひとから嫌きらわれ,侮ぶ辱じょくされたり暴ぼう力りょくを振ふるわれたりし,最さい後ごには殺ころされるということが分わかっていたら,あえて家か族ぞくや家いえを後あとにして移い住じゅうしようと思おもうでしょうか。イエスがしたのは,まさにそういうことでした。地ち上じょうに来くる前まえ,イエスは天てんで父ちちエホバのそばにいて,特とく別べつな立たち場ばに就ついていました。それなのに,住すみ慣なれた天てんを後あとにし,地ち上じょうで人にん間げんとして生いきることを受うけ入いれました。ほとんどの人ひとから憎にくまれ,ひどい屈くつ辱じょくや虐ぎゃく待たいを受うけ,苦くるしんで死しぬことになると分わかっていたのに,そうしたのです。(フィリピ 2:5-7)イエスがそれほどの犠ぎ牲せいを払はらおうと思おもったのはどうしてでしょうか。

8-9. イエスがためらわずに自じ分ぶんの命いのちを差さし出だしたのはどうしてですか。

8 一いち番ばんの理り由ゆうは,天てんの父ちちを深ふかく愛あいしていたからです。イエスはエホバを愛あいしていたので,お父とうさんの名なや評ひょう判ばんのことを気きに掛かけていました。(マタイ 6:9。ヨハネ 17:1-6,26)長ながい間あいだ悪わるく言いわれてきたお父とうさんの名めい誉よが回かい復ふくされることを心こころから願ねがっていました。そのためなら何なんでもしたいと思おもっていました。それでイエスは,苦くるしい目めに遭あっても忍にん耐たいし,正ただしいことを貫つらぬき通とおしました。そうすれば天てんの父ちちの美うつくしい名なを神しん聖せいなものとすることに貢こう献けんできると分わかっていたからです。(歴れき代だい第だい一いち 29:13)

9 イエスが自じ分ぶんの命いのちを差さし出だしたのは,人にん間げんを愛あいしていたからでもあります。イエスは人にん間げんの歴れき史しの最さい初しょから,ずっと人にん間げんのことを愛あいしてきました。地ち上じょうに来くる前まえのイエスについて,聖せい書しょにこう書かかれています。「私わたしは……人にん間げんに深ふかい愛あい情じょうを抱いだいた」。(格かく言げん 8:30,31)イエスは地ち上じょうに来きてからも,人ひと々びとを愛あいしていることをはっきり示しめしました。この本ほんの第だい14章しょうから第だい16章しょうで考かんがえたように,イエスの言げん動どうにはいつも,あらゆる人ひとへの,特とくに弟で子したちへの愛あいが表あらわれていました。そして西せい暦れき33年ねんニサン14日かには,全ぜん人じん類るいのために命いのちをなげうってくれました。(ヨハネ 10:11)イエスはそこまでして私わたしたちへの深ふかい愛あいを表あらわしてくれたのです。私わたしたちはこのイエスの愛あいに倣ならえるでしょうか。イエスはそうしてほしいと思おもっています。

「私わたしがあなたたちを愛あいした通とおりに,……互たがいを愛あいしなさい」

10-11. イエスが弟で子したちに与あたえた新あたらしいおきてとはどういうものですか。そのおきてに従したがうのが大たい切せつなのはどうしてですか。

10 イエスは亡なくなる前まえの晩ばん,親したしい弟で子したちにこう言いいました。「私わたしはあなたたちに新あたらしいおきてを与あたえます。それは,互たがいに愛あいし合あうことです。私わたしがあなたたちを愛あいした通とおりに,あなたたちも互たがいを愛あいしなさい。あなたたちの間あいだに愛あいがあれば,全すべての人ひとは,あなたたちが私わたしの弟で子しであることを知しります」。(ヨハネ 13:34,35)「互たがいを愛あいしなさい」というのが「新あたらしいおきて」だと言いえるのはどうしてでしょうか。モーセの律りっ法ぽうにも,「仲なか間ま[または,隣りん人じん]を自じ分ぶん自じ身しんのように愛あいさなければならない」というおきてがありました。(レビ記き 19:18)でもイエスによると,私わたしたちは人ひとのために自じ分ぶんの命いのちを与あたえるほどの,もっと大おおきな愛あいを示しめさなければなりません。そのことは,次つぎのイエスの言こと葉ばから分わかります。「私わたしがあなたたちを愛あいした通とおりにあなたたちが互たがいを愛あいすること,これが私わたしのおきてです。友とものために自じ分ぶんの命いのちをなげうつこと,これより大おおきな愛あいはありません」。(ヨハネ 15:12,13)ですから,新あたらしいおきてとは,「人ひとを自じ分ぶん自じ身しんのようにではなく,自じ分ぶんよりも愛あいしなさい」ということです。イエスは人ひとのために生いきて死しぬことによって,確たしかにそのような愛あいを示しめしました。

11 新あたらしいおきてに従したがうことが大たい切せつなのはどうしてでしょうか。イエスの言こと葉ばに注ちゅう目もくしてください。「あなたたちの間あいだに[自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな]愛あいがあれば,全すべての人ひとは,あなたたちが私わたしの弟で子しであることを知しります」。自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいは本ほん物もののクリスチャンの特とく徴ちょうだということです。この愛あいは,エホバの証しょう人にんが大たい会かいで着つけるバッジに似にています。そのバッジを見みれば,その人ひとの名な前まえと会かい衆しゅうがすぐに分わかります。同おなじように,私わたしたちが自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいを身みに付つけ,示しめし合あうなら,それを見みる人ひとたちは私わたしたちが本ほん物もののクリスチャンだということが分わかります。その愛あいは大たい会かいバッジのように誰だれの目めにも明あきらかであるべきなのです。それで,こう考かんがえてみましょう。「私わたしの自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいという“バッジ”は周まわりの人ひとにはっきり見みえているだろうか」。

自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいを示しめすとはどういうことか

12-13. (ア)私わたしたちは互たがいへの愛あいを表あらわすためにどれほどのことをすべきですか。(イ)自じ己こ犠ぎ牲せいとはどういうことですか。

12 私わたしたちはイエスの弟で子しとして,イエスが愛あいしてくれた通とおりに互たがいを愛あいする必ひつ要ようがあります。それはつまり,兄きょう弟だい姉し妹まいのために進すすんで犠ぎ牲せいを払はらうということです。どれほどの犠ぎ牲せいを払はらうべきかについて,聖せい書しょにはこう書かかれています。「私わたしたちが愛あいを知しったのは,イエスが私わたしたちのために命いのちをなげうってくださったからです。それで,私わたしたちも兄きょう弟だいのために命いのちをなげうたなければなりません」。(ヨハネ第だい一いち 3:16)イエスのように,必ひつ要ようなら兄きょう弟だい姉し妹まいのために死しぬ覚かく悟ごでいなければならないのです。例たとえば迫はく害がいに遭あうとき,たとえ自じ分ぶんが殺ころされることになっても,兄きょう弟だい姉し妹まいを裏うら切ぎって危き険けんにさらすようなことはしません。人じん種しゅ間かんや民みん族ぞく間かんの争あらそいが起おきている地ち域いきでは,兄きょう弟だい姉し妹まいを命いのち懸がけで分わけ隔へだてなく守まもります。戦せん争そうが起おきたときには,投とう獄ごくされたり処しょ刑けいされたりするとしても,決けっして武ぶ器きを取とりません。兄きょう弟だい姉し妹まいとも,ほかの誰だれとも戦たたかいたくないからです。(ヨハネ 17:14,16。ヨハネ第だい一いち 3:10-12)

13 仲なか間まのために自じ分ぶんの命いのちを犠ぎ牲せいにする以い外がいにも,自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいを示しめす方ほう法ほうはいろいろあります。そもそも,命いのちを犠ぎ牲せいにしなければならないほどの状じょう況きょうはそう多おおくありません。でも,命いのちを差さし出だせるほど兄きょう弟だい姉し妹まいを愛あいしていれば,日ひ頃ごろから進すすんで犠ぎ牲せいを払はらって兄きょう弟だい姉し妹まいを助たすけるでしょう。自じ己こ犠ぎ牲せいとは,自じ分ぶんにとって都つ合ごうが悪わるくても人ひとのためになることをするということです。周まわりの人ひとのことをいつも優ゆう先せんし,何なにを必ひつ要ようとしているかによく心こころを配くばります。(コリント第だい一いち 10:24)そのような愛あいを実じっ際さいにどんな場ば面めんで表あらわせるでしょうか。

会かい衆しゅうや家か庭ていで

14. (ア)長ちょう老ろうたちはどのように忙いそがしく働はたらいていますか。(イ)あなたの会かい衆しゅうで一いっ生しょう懸けん命めいに働はたらいている長ちょう老ろうたちについてどう思おもいますか。

14 会かい衆しゅうの長ちょう老ろうたちは,「羊ひつじの群むれを世せ話わ」するために忙いそがしく働はたらいています。(ペテロ第だい一いち 5:2,3)自じ分ぶんの家か族ぞくを支ささえるだけでなく,集しゅう会かいの話はなしなどを準じゅん備びしたり,牧ぼく羊よう訪ほう問もんをしたり,審しん理り問もん題だいを扱あつかったりと,会かい衆しゅうのために晩ばんや週しゅう末まつも時じ間かんを割さいています。もっと多おおくのことをしている長ちょう老ろうたちもたくさんいます。大たい会かいの運うん営えいのために働はたらいたり,医い療りょう機き関かん連れん絡らく委い員いん会かいや患かん者じゃ訪ほう問もんグループで奉ほう仕ししたり,LDCボランティアとして奉ほう仕ししたりしています。このように,長ちょう老ろうたちは自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいを抱いだき,自じ分ぶんの時じ間かんや体たい力りょくや資し産さんを進すすんで使つかっています。(コリント第だい二に 12:15)仲なか間まのために尽つくす長ちょう老ろうの皆みなさんのことを,エホバは深ふかく愛あいしています。会かい衆しゅうの兄きょう弟だい姉し妹まいも感かん謝しゃしているに違ちがいありません。(フィリピ 2:29。ヘブライ 6:10)

15. (ア)長ちょう老ろうの妻つまたちはどんな犠ぎ牲せいを払はらっていますか。(イ)会かい衆しゅうのために働はたらく夫おっとをよく支ささえている姉し妹まいたちのことをどう思おもいますか。

15 長ちょう老ろうの妻つまたちのことも考かんがえてみてください。夫おっとが会かい衆しゅうを世せ話わできるように,たくさんの犠ぎ牲せいを払はらって支ささえています。夫おっとが家か族ぞくと過すごす時じ間かんを削けずって会かい衆しゅうのために働はたらかなければならないとき,寂さびしく思おもいながらも喜よろこんで協きょう力りょくしています。巡じゅん回かい監かん督とくの妻つまが払はらっている犠ぎ牲せいについても考かんがえてみましょう。夫おっとと共ともに,会かい衆しゅうから会かい衆しゅうへ,巡じゅん回かい区くから巡じゅん回かい区くへと移い動どうするのは楽らくなことではありません。自じ分ぶんたちの家いえを持もたず,毎まい週しゅう違ちがう布ふ団とんで寝ねることさえあります。こうした長ちょう老ろうの妻つまたちは,自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいを示しめして自じ分ぶんのことよりも会かい衆しゅうのことを優ゆう先せんしていて,本ほん当とうに素す晴ばらしい手て本ほんです。(フィリピ 2:3,4)

16. 親おやは子こ供どものためにどんな犠ぎ牲せいを払はらいますか。

16 家か庭ていではどのように自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいを表あらわせるでしょうか。親おやであれば,子こ供どもを養やしない,「エホバが望のぞむ指し導どうと助じょ言げんによって育そだて」るために,ベストを尽つくしていることでしょう。(エフェソス 6:4)子こ供どもの衣い食しょく住じゅうを賄まかなうために,くたくたになりながら働はたらかなければならない場ば合あいもあります。子こ供どもに必ひつ要ようなものを買かってあげるためなら自じ分ぶんが我が慢まんしようとさえ思おもっているかもしれません。子こ供どもに聖せい書しょを教おしえ,一いっ緒しょに集しゅう会かいや伝でん道どうに参さん加かするためにも,多おおくのエネルギーをつぎ込こんでいます。(申しん命めい記き 6:6,7)そのようにして自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいを表あらわす親おやは,家か族ぞくという枠わく組ぐみをつくったエホバに喜よろこばれます。そして,子こ供どもたちと一いっ緒しょにいつまでも幸しあわせに暮くらせることでしょう。(格かく言げん 22:6。エフェソス 3:14,15)

17. 夫おっとはイエスの自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいにどのように倣ならえますか。

17 夫おっとはどのようにイエスの自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいに倣ならえるでしょうか。聖せい書しょにこう書かかれています。「夫おっとは,キリストが会かい衆しゅうを愛あいしたのと同おなじように,妻つまを愛あいし続つづけてください。キリストは会かい衆しゅうのために自じ分ぶんを差さし出だしました」。(エフェソス 5:25)この章しょうで考かんがえてきた通とおり,イエスは弟で子したちを深ふかく愛あいしていたので,自じ分ぶんの命いのちさえ差さし出だしました。いつも弟で子したちのことを優ゆう先せんし,「自じ分ぶんを喜よろこばせることはしませんでした」。(ローマ 15:3)そのイエスに見み習ならう夫おっとは,妻つまの願ねがいや必ひつ要ようとしていることを自じ分ぶんのことよりも優ゆう先せんします。妻つまと意い見けんが分わかれるときには,自じ分ぶんの考かんがえを押おし通とおそうとはせず,聖せい書しょの教おしえに反はんしない限かぎり妻つまの意い見けんを聞きき入いれます。そのようにして自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいを示しめせば,エホバに喜よろこばれます。妻つまや子こ供どももそんな父ちち親おやのことをますます愛あいし,尊そん敬けいすることでしょう。

イエスに従したがって生いきる

18. どんなことを考かんがえると,新あたらしいおきてに従したがいたいという気き持もちになりますか。

18 新あたらしいおきてに従したがって互たがいを愛あいするのは楽らくなことではありませんが,パウロのように考かんがえると,努ど力りょくしたいという気き持もちになります。パウロはこう書かきました。「キリストの愛あいが私わたしたちを駆かり立たてるのです。私わたしたちは次つぎのように考かんがえているからです。1人ひとりの人ひとが全すべての人ひとのために死しにました。……その方かたが全すべての人ひとのために死しんだのですから,生いきている人ひとたちはもはや自じ分ぶんのために生いきるのではなく,自じ分ぶんのために死しんで生いき返かえらされた方かたのために生いきるべきです」。(コリント第だい二に 5:14,15)イエスが私わたしたちのために死しんでくださったことを考かんがえると,イエスのために生いきたいという気き持もちになるのではないでしょうか。イエスの思おもいに応こたえるには,イエスの自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいに倣ならうことが大たい切せつです。

19-20. エホバは私わたしたちにどんな素す晴ばらしい贈おくり物ものをくれましたか。その贈おくり物ものを受うけ取とるにはどうしたらいいですか。

19 イエスは,「友とものために自じ分ぶんの命いのちをなげうつこと,これより大おおきな愛あいはありません」と言いいました。まさにその通とおりです。(ヨハネ 15:13)私わたしたちのために自じ分ぶんの命いのちをなげうってくれたことに,私わたしたちへのイエスの愛あいが一いち番ばんよく表あらわれています。でも,イエスより大おおきな愛あいを示しめしてくれた方かたがいます。イエスはこう言いっています。「神かみは,自じ分ぶんの独ひとり子ごを与あたえるほどに人じん類るいを愛あいしたのです。そのようにして,独ひとり子ごに信しん仰こうを抱いだく人ひとが皆みな,滅ほろぼされないで永えい遠えんの命いのちを受うけられるようにしました」。(ヨハネ 3:16)神かみは私わたしたちを深ふかく愛あいしているからこそ,自じ分ぶんの子こを贖あがないとして与あたえてくださいました。そのおかげで私わたしたちは,罪つみと死しから救すくわれます。(エフェソス 1:7)それでもエホバは,その素す晴ばらしい贈おくり物ものを受うけ取とるよう私わたしたちに強きょう制せいしてはいません。

20 エホバからの贈おくり物ものを受うけ取とるかどうかは私わたしたち次し第だいです。受うけ取とりたいなら,イエスに「信しん仰こうを抱いだく」必ひつ要ようがあります。イエスを信しんじていると言いうだけでは不ふ十じゅう分ぶんです。信しんじていることが毎まい日にちの行こう動どうや生いき方かた全ぜん体たいに表あらわれていなければなりません。(ヤコブ 2:26)イエス・キリストの後あとにしっかり従したがって生いきていくなら,今いまも,そして将しょう来らいも,幸しあわせな生せい活かつを送おくることができます。この本ほんの結むすびとなる次つぎの章しょうで,そのことについて考かんがえます。

a その日ひ,イエスは2回かいも唾つばを掛かけられます。最さい初しょは宗しゅう教きょう指し導どう者しゃたちから,その後ごローマの兵へい士したちからです。(マタイ 26:59-68; 27:27-30)そのようにあざけられてもじっと耐たえたので,「侮ぶ辱じょくや唾つばから顔かおを覆おおい隠かくさなかった」という預よ言げんが実じつ現げんしました。(イザヤ 50:6)

イエスの弟で子しとして考かんがえたいこと

  • イエスは弟で子したちに,どんな自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな生いき方かたをするよう教おしえましたか。(マタイ 16:24-26)

  • 自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな生いき方かたをするとどんな良よいことがありますか。(マルコ 10:23-30)

  • イエスは立りっ派ぱな羊ひつじ飼かいとしてどんなことをしましたか。長ちょう老ろうはイエスの手て本ほんからどんなことを学まなべますか。(ヨハネ 10:11-15)

  • イエスの自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいに倣ならってどんなことができますか。(ヨハネ第だい一いち 3:17,18)

    日本語出版物(1953-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2026 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする