副会長と共に世界周遊
日本,東京
午後5時過ぎになつて,京城を発つた飛行機は東京国際空港に着きました。空港には,日本の支部の僕とその妻,および地域の僕が協会副会長の帰りを待つていました。その前の日曜日に発表されていたごとく,その晩には特別なさよなら集会が催されることになつていたのです。それで副会長は,協会の東京支部にちつと立ち寄つてから,午後7時からの話をするために東京渋谷公会堂に急いで赴きました。東京と横浜の会衆がこの場所に集まつていたのです。よろこばしいことに,446名の御国伝道者と善意者たちは,公会堂の1階と2階に席を占め,1957年中およびそれから後における神の御意についての教えを聞きました。今までよりも更に熱心に聖書を研究し,活潑に『御国のこの良いたより』を伝道するよう励まされました。東京に近い場所にいた特別開拓者の一群は,最近に興味を示した27人の人々をこの有益な集会に招待しています。また,2万5000人の学生が在学する早稲田大学の一教授も出席していました。この大学では,協会の会長が1956年の春に多数の学生および教授たちに講演をしたことがあります。この教授は,神の設立し給うた御国の音信を研究するよう励まされました。
1月31日,木曜日の朝になつて,訪問中の副会長は支部事務所兼,宣教者の家で朝食の際のいつものベテル奉仕をいたしました。副会長だけは,その日の聖句註解と朝食前の祈りに英語でしましたが,その他の人々はみな日本語で聖書を討議しました。この家族の日本人だけでなく,外国からの宣教者も日本語を話したのです。宜教者が宣教の地の言語で神の言葉を良く論じ得るのを見てうれしく思いました。
その日の午前中は,東京支部事務所の記録とか設備を調べるのに費し,午後の僅かな時間を割いて首都の他の場所にある2軒の宣教者の家を訪問しました。宣教者の住宅は快適であり,みな一致結合して互に助け合い,援助し合つて幸福な生活をしているのを見ることは,実によろこばしいことでした。
午後7時の出発予定時刻が近づき,東京と横浜の宣教者や,開拓者,そして会衆の伝道者など約60人が東京国際空港に集まつてフランズ兄弟にさよならを告げました。みなさんは明るくて幸福な人々であり,日本の神権制度の将来の大発展をかたく信じている熱心な人々です。巨大なPAA飛行機が空に舞い上つてフランズ兄弟がハワイに向つたとき,東京の支部は日本の1月中の奉仕報告を集計しました。さて,国内の報告を集計した結果はどうですか。日本に行われたそれまでの御国奉仕のうち一番良い月でした。すなわち,新最高数685名の伝道者が得られましたが,それは前年度の奉仕年度よりも26パーセントも増加しています。この勢いは翌月にも引きつづき,2月には693名の御国宣明者という新最高数が得られました。日本にいるヱホバの証者は,1957年1月に与えられたすばらしい祝福に対してヱホバに感謝しましたが,この祝福は,将来のより大きな祝福に対する先がけになるものでした。
昨日と先月に飛び戻る
1月の最後の日木曜日の終りの時間中に,協会の副会長を運ぶ飛行機は日本を去つて,先ずアメリカ領地ウェーキ島に止まりました。乗客は,椅子に倚りかかつて眠ろうとしました。しかし,或る場所では大気の状態は荒れているというので座席のベルトでもつて,私たちはぎゆつと縛りつけられていたのです。真夜中が過ぎて,東京時間2月1日金曜日の午前2時10分に,飛行機は小さなV字型の珊瑚礁に着陸しました。この島は,死滅した海底火山の頂上にあたり,その面積は3平方マイルぐらいです。東京からここまで来るのに7時間かかりました。再びPAAの飛行機に乗りこんでウェーキ島時間の午前6時48分に離陸したときは,まだあたりは闇につつまれていました。間もなくして明るくなり,2月1日,金曜日の朝を迎えました。飛行機は太陽に向い,東に飛びます。ウェーキ島の時間で午前10時12分頃,フランズ兄弟は操縦士の部屋に行き,計測員に国際日附変更線に達するのは何時であるかを尋ねました。計測員は,計器を見てから『丁度今がそのところです』と言いました。眼下の太平洋には何の線も見えず,ただ洋上と飛行機のあいだには雲の断片があるだけです。しかし,時間ということについては,そのところが線を引くところなのです。
それで,国際日附変更線を越えました。何かの変化が生じましたか。そうです。一体,何が生じましたか。私は1日だけ若くなつたとは感じませんでしたが,それでも金曜日から同じ週の木曜日に後戻りし,1957年の2月1日から1月31日に後戻りしたことになります。そこから約1万5000マイルも後ろのところで副会長がニューヨークから西に向つて飛んだ時に失つた時間は,いま取りかえされようとしているのです。いまは,目的地のホノルル時間で時間を測ります。そうしますと,1日だけをもうけたことになります。それで,有名なダイアモンドヘッド岬を機上から見て後に1月31日,木曜日の午後5時35分,飛行機はホノルル空港に着陸しました。そのときには,太陽は西空に照つていました。ウェーキ島からここまでの洋上飛行時間は8時間51分です。日本の東京を出発してからの所要合計時間は17時間30分でした。しかし,暦の上から行くと,東京を出発した時よりも1時間半前にホノルルに着いたことになります。
ハワイ,ホノルル
10月の上旬,ハワイにいるヱホバの証者は,2月の最初の週にものみの塔聖書冊子協会の副会長が訪問すると知り,びつくりすると共によろこびを感じました。たちどころに事前の計画が立てられ,この訪問と相まつて地域大会を開くことになりました。初めの希望はヒローで大会を開いて,南東15マイル以上離れたハワイの大島の業を拡大することでした。しかし,大会出席者の宿泊所は小さすぎて間に合わないため,オアフ島ホノルルにあるアメリカ・チャイニーズ・クラブ・パビリオンが選ばれました。そこは,1956年の3月に協会の会長とその秘書が講演をしたところです。
5万枚の善意者用の特別招待状,4000枚の一般用のビラ,そして572枚の窓ポスターを印刷することにより,準備の業は始まりました。後になると,公開講演を一大放送局で放送する計画が立てられ,地域大会の始まる前の週の終りには,ハワイに所属する他の島々にも3万枚の別のビラが配られたのです。こうするならば,興味を持つていても大会に出席できなかつた人はラジオを通して音信が聞けます。宣伝の別の方法としては,ラジオの番組中にそのことを放送したり,幾つかの新聞紙に記事として出したり,テレビョンで3回発表しまた。2回は英語で,1回は日本語のテレビジョンです。この重大な事柄を宣伝するために,すこしの手抜かりもなく,万策を講じました。
とうとうフランズ兄弟がPAAの飛行機でホノルルに到着する夜が来ました。それは11週間にわたる世界周遊奉仕旅行の最後の訪問地にあたります。1月31日,木曜日の夕方,約250人のヱホバの証者は空港に出迎えてフランズ兄弟に独特のハワイ式歓迎をさしのべました。フランズ兄弟は,関税を通るのにすこし手間どつてから,やつとみなさんのところに来ることができました。すると,全世界に亘る新世社会のこの地の成員たちは,伝統的な新しい花のレイを,フランズ兄弟の頸にうず高くかけ始め,全部で54もの花のレイがかけられたのです。その中の或るものはハワイ・スタイルでかけられました。すつかり感銘したフランズ兄弟は,この新しい友人たちとすぐに分れるのを欲せず,その夜の7時30分にセントラル分会の御国会館で旅行の話をいたしましようと発表し,みなさんをよろこばしました。この御国会館は,ものみの塔協会のホノルル支部事務所の隣りにあつて,いまから20年以上もの昔の1935年の4月,ルサフォード判事の訪問後に,ヱホバの証者の集会所が始めて御国会館と呼ばれたところです。歓迎の様子を示す大ぜいの人々は,この場所に来ました。そして,午後7時45分になると,旅行談を聞く集会が始まり,173名が会場につめかけたのです。その時間は好都合のものでした。というのは,アメリカ・チャイニーズ・クラブ・パビリオンには別の催しがあつたため,地域大会の奉仕者たちは,午後11時前にこの大会会場に入り,大会初日の最終的な準備をすることができなかつたからです。それで,旅行談を聞いてから多くの人々は直ちに仕事服に着かえ,パビリオンでの仕事に取りかかりました。そして,金曜日の朝2時半頃には,大会初日の開会に万事万端ととのつていたのです。
午前9時の最初の集会に来た人々は,『清い崇拝の拡大』という主題が,大きくパビリオンの舞台前部の両側に出ているのを見ました。左手には,世界の複写が示されており,ハワイ諸島が絵のように示されています。この側は,1937年までの業の進歩を示すもので,オアフ島をのぞく島々は,みな褐色でした。オアフ島は黄色ですが,それは全ハワイに会衆は一つしかなかつたこと,および業は一つの島だけでなされていたことを表わします。別の側には,1957年までの証言の業の進歩が表わされていました。ここではハワイ諸島はみな黄色であつて,清い崇拝の拡大につれて『御国の真理の黄金の光』に浴し,いまでは合計して17の会衆があることを示します。実を結ぶという主題を更に示すため,ハワイの果物が盛られた大きな皿がパビリオン舞台の中央を飾り,大きなハワイのパイナップルは,舞台前面に沿つて置かれていた色彩に富むハイモ植物のあいだに置かれていたのです。他のハワイの植物もあり,見たところ実に美しいものでした。
このときには,野外奉仕をするため275人が集まつてきました。30分の指示を受けてから,みなさんは野外に出かけました。今回には,街頭で行う公開講演の宣伝は,ちがつた方法でなされました。従来の仕方ですと,前と後ろにプラカードを下げて歩くのですが,この度には大会出席者は着板を棒の上につけて高くかかげました。それで,人々の頭ごしに,そのプラカードが見えるというわけです。それにはまた,色のぬられた矢もついていて,人々の注意を惹くようになつていました。
簡易食堂はパビリオン講堂の側に設置されていて,天幕の下に長い机が置かれていました。その簡易食堂での夕食の後に,番組が始まりました。霊的な繁栄と正確な知識についての話,また雑誌でもつてヱホバの御国を宣明することについての話がされました。これには実際的な実演が伴つて,いつそう引き立ちました。この番組やその後の番組を担当した人々の名前を見ると,フラジャドー・イトウ・サムソン・アキヨシ・ヨシカワ・チュム・チョング・コング・ルシグミ・カワサキ・アユー・ウチムラ・リウ・パルスキイ・ケロハ・ナコ・クラウサイム・ヒガ・チソンなどで,ハワイに住む人々が多国語の人々,多種族の人々であることが分ります。そして又,新しい世の社会が『あらゆる種類の人々』で構成されていることも示されます。神はイエス・キリストによつてそれらの者を教われるのです。