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「来て,私の弟子になりなさい」
追 第16章 161–171ページ

第16章

「自じ分ぶんに従したがう人ひとたちを……最さい後ごまで愛あいした」

1-2. イエスは使し徒とたちとの最さい後ごの晩ばんにどんなことをしましたか。その時じ間かんをとても大たい切せつにしたのはどうしてですか。

イエスは使し徒とたちを,エルサレムのある家いえの階かい上じょうの部へ屋やに集あつめました。一いっ緒しょに過すごす最さい後ごの晩ばんです。天てんの父ちちのもとに戻もどる時ときが近ちかづいています。あと数すう時じ間かんもすれば捕とらえられ,かつてないほど信しん仰こうを試ためされることになります。でも,自じ分ぶんの死しが迫せまっている中なかで,使し徒とたちのことを深ふかく気きに掛かけています。

2 イエスはこれまでも自じ分ぶんがいずれいなくなることについて使し徒とたちに伝つたえてきましたが,彼かれらを力ちからづけるために言いうべきことがまだあります。それで,その最さい後ごの貴き重ちょうな時じ間かんを使つかって,使し徒とたちが試し練れんに遭あっても忠ちゅう実じつでいられるよう,大たい切せつなことを教おしえます。普ふ段だん以い上じょうに温あたたかく胸むねを打うつ言こと葉ばで使し徒とたちに語かたり掛かけます。イエスが自じ分ぶんのことよりも使し徒とたちのことを考かんがえていたのはどうしてでしょうか。一いっ緒しょに過すごす最さい後ごの時じ間かんをそれほどまでに大たい切せつにしたのはどうしてでしょうか。それは,使し徒とたちのことを深ふかく愛あいしていたからです。

3. イエスがずっと弟で子したちを愛あいしていたことは何なにに表あらわれていましたか。

3 何なん十じゅう年ねんもたってから,使し徒とヨハネは聖せいなる力ちからに導みちびかれてその晩ばんのことを次つぎのように書かきました。「イエスは,過すぎ越こしの祭まつりの前まえに,自じ分ぶんがこの世よを去さって天てんの父ちちのもとに行いくべき時ときが来きたことを知しった。そして,世よにいて自じ分ぶんに従したがう人ひとたちを,それまでも愛あいしてきたが,最さい後ごまで愛あいした」。(ヨハネ 13:1)この言こと葉ばの通とおり,イエスは「自じ分ぶんに従したがう人ひとたち」を最さい後ごの晩ばんに至いたるまでずっと愛あいしました。その愛あいは,イエスのさまざまな言げん動どうに表あらわれていました。では,イエスがどのように愛あいを表あらわしたかを調しらべて,弟で子しとしてどのようにイエスに見み習ならえるかを考かんがえましょう。

辛しん抱ぼう強づよく接せっした

4-5. (ア)弟で子したちに対たいするイエスの辛しん抱ぼうは何なん度ども試ためされました。どんなことがありましたか。(イ)ゲッセマネの庭てい園えんで3人にんの使し徒とが眠ねむり込こんでしまった時とき,イエスはどうしましたか。

4 コリント第だい一いち 13章しょう4節せつに「愛あいは辛しん抱ぼう強づよ[い]」とある通とおり,愛あいがある人ひとは人ひとに辛しん抱ぼう強づよく接せっします。イエスもそうでした。第だい3章しょうで考かんがえたように,使し徒とたちはなかなか謙けん遜そんになれませんでした。自じ分ぶんたちの中なかで誰だれが一いち番ばん偉えらいかについて何なん度ども議ぎ論ろんしました。では,イエスは腹はらを立たてたりいら立だったりしたでしょうか。そうではなく,辛しん抱ぼう強づよく諭さとしました。一いっ緒しょに過すごした最さい後ごの晩ばんにも使し徒とたちの間あいだで「激はげしい議ぎ論ろん」が起おきましたが,イエスの態たい度どは変かわりませんでした。(ルカ 22:24-30。マタイ 20:20-28。マルコ 9:33-37)

5 その晩ばんの少すこし後あとに,イエスが11人にんの忠ちゅう実じつな使し徒とたちと一いっ緒しょにゲッセマネの庭てい園えんに行いった時とき,またしても辛しん抱ぼうが試ためされます。イエスは8人にんの使し徒とを残のこし,ペテロとヤコブとヨハネを連つれて庭てい園えんの奥おくの方ほうに行いって,こう言いいました。「私わたしは悲かなしみのあまり,死しんでしまいそうです。ここにとどまって,私わたしと共ともにずっと見み張はっていなさい」。そして,少すこし離はなれた所ところに行いって熱ねつ烈れつに祈いのり始はじめます。長ながい祈いのりを終おえて戻もどってみると,なんと3人にんは眠ねむり込こんでいました。イエスにとって一いち番ばん大たい変へんな時ときに緊きん張ちょう感かんもなく寝ねていた3人にんを,イエスは叱しかりつけたでしょうか。そうはせず,辛しん抱ぼう強づよく助じょ言げんし,「もっとも,心こころは強つよく願ねがっていても,肉にく体たいは弱よわいのです」と言いいました。その言こと葉ばから,使し徒とたちの弱よわさや感かんじていたストレスをよく理り解かいしていたことが分わかります。a その後あとも使し徒とたちはさらに2回かい眠ねむり込こんでしまいましたが,イエスはずっと辛しん抱ぼうしました。(マタイ 26:36-46)

6. イエスに見み習ならってどのように人ひとと接せっしたらよいですか。

6 イエスが使し徒とたちに見み切きりをつけなかったことは,私わたしたちにとっても励はげみになります。イエスの辛しん抱ぼうは報むくわれました。使し徒とたちは,謙けん遜そんであることや目めを覚さましていることの大たい切せつさを学まなんだのです。(ペテロ第だい一いち 3:8; 4:7)私わたしたちはイエスに見み習ならってどのように人ひとと接せっしたらよいでしょうか。特とくに長ちょう老ろうたちは仲なか間まに辛しん抱ぼう強づよく接せっする必ひつ要ようがあります。疲つかれ切きっている時ときや自じ分ぶんの心しん配ぱい事ごとで頭あたまがいっぱいの時ときに,兄きょう弟だい姉し妹まいに相そう談だんを持もち掛かけられることがあるかもしれません。助じょ言げんになかなか応おうじない人ひともいることでしょう。それでも,辛しん抱ぼう強づよければ「温おん和わな態たい度どで」教おしえることができ,「群むれを優やさしく扱あつか」えます。(テモテ第だい二に 2:24,25。使し徒と 20:28,29)親おやにとっても,イエスに見み習ならって辛しん抱ぼうすることは大たい切せつです。子こ供どもがなかなか言いうことを聞きかない場ば合あいがあるからです。愛あい情じょう深ぶかくて辛しん抱ぼう強づよい親おやは,諦あきらめずに子こ供どもを教おしえ続つづけます。そうすれば,きっと喜よろこばしい結けっ果かになることでしょう。(詩し編へん 127:3)

必ひつ要ようなものを与あたえた

7. イエスはどのように弟で子したちの体からだを気き遣づかい,必ひつ要ような物ものに事こと欠かかないようにしましたか。

7 愛あいがある人ひとは,人ひとのためになることをします。(ヨハネ第だい一いち 3:17,18)「自じ分ぶんのことばかり考かんがえ」ません。(コリント第だい一いち 13:5)愛あい情じょう深ぶかいイエスは,弟で子したちの体からだを気き遣づかい,必ひつ要ような物ものに事こと欠かかないようにしました。弟で子したちから頼たのまれなくても,弟で子したちのためを思おもって行こう動どうすることがよくありました。例たとえば,弟で子したちが疲つかれていることに気き付づいた時ときには,「一いっ緒しょに静しずかな場ば所しょに行いって,少すこし休やす」むことにしました。(マルコ 6:31)弟で子したちや,教おしえを聞ききに集あつまっていた何なん千ぜん人にんもの人ひとたちがおなかをすかせていることを見みて取とると,食たべ物ものを与あたえました。(マタイ 14:19,20; 15:35-37)

8-9. (ア)イエスは弟で子したちが強つよい信しん仰こうを持もてるように,必ひつ要ような教おしえや励はげましを与あたえました。どんなことからそれが分わかりますか。(イ)杭くいに掛かけられていた時とき,イエスは母はは親おやのことを深ふかく気き遣づかってどんなことをしましたか。

8 イエスは弟で子したちが強つよい信しん仰こうを持もてるように,必ひつ要ような教おしえや励はげましを与あたえることもしました。(マタイ 4:4; 5:3)人ひと々びとを教おしえる時ときに,主おもに弟で子したちのことを念ねん頭とうに置おいていたこともよくありました。例たとえば山さん上じょうの垂すい訓くんは,特とくに弟で子したちのために話はなしました。(マタイ 5:1,2,13-16)例たとえを使つかって教おしえた時ときには,「弟で子したちだけの時ときに全すべての説せつ明めいを」しました。(マルコ 4:34)さらにイエスは,終おわりの時じ代だいに弟で子したちが信しん仰こうを強つよめる食しょく物もつを十じゅう分ぶんに受うけ取とれるよう,「忠ちゅう実じつで思し慮りょ深ぶかい奴ど隷れい」を任にん命めいすることを予よ告こくしました。1919年ねん以い来らい,聖せいなる力ちからによって選えらばれたイエスの兄きょう弟だいたちの少しょう人にん数ずうの一いち団だんが,地ち上じょうで忠ちゅう実じつな奴ど隷れいとして「適てき切せつな時ときに食しょく物もつを与あたえ」ています。(マタイ 24:45)

9 イエスは亡なくなる日ひに,愛あいする家か族ぞくがエホバとの強つよい絆きずなを持もち続つづけられるように取とり計はからいました。その感かん動どう的てきな場ば面めんを想そう像ぞうしてみてください。イエスは杭くいに掛かけられ,ひどい苦くるしみに耐たえています。息いきをするには,脚あしで体からだを持もち上あげなければならなかったことでしょう。そうすると激げき痛つうが走はしったに違ちがいありません。くぎを打うたれた足あしの所ところが体からだの重おもみで裂さけ,むちで打うたれた背せ中なかが杭くいにこすれたからです。そういう状じょう態たいでは,話はなすのも大たい変へんだったでしょう。それでも,息いきを引ひき取とる直ちょく前ぜんに,イエスは母はは親おやのマリアへの深ふかい愛あいが表あらわれた言こと葉ばを語かたります。そばに立たっていたマリアと使し徒とヨハネを見みて,周まわりの人ひとにも聞きこえるほど大おおきな声こえでマリアに,「見みなさい,あなたの子こです!」と言いいます。それからヨハネに,「見みなさい,あなたの母はは親おやです!」と言いいます。(ヨハネ 19:26,27)その忠ちゅう実じつな使し徒とが,マリアを生せい活かつ面めんだけでなく信しん仰こう面めんでも支ささえてくれることを確かく信しんしていたのです。b

1. 父親と母親と3人の子供が家族の崇拝を行っている。2. 同じ家族がたこ揚げをしている。3. 同じ家族が一緒に食事をしている。

子こ供どもを愛あいする親おやは,子こ供どもに辛しん抱ぼう強づよく接せっし,子こ供どもの幸しあわせのために必ひつ要ようなことをする

10. 親おやはどのようにイエスに見み習ならえますか。

10 親おやがイエスの手て本ほんについてじっくり考かんがえるのは良よいことです。家か族ぞくを心こころから愛あいする父ちち親おやは,家か族ぞくを十じゅう分ぶんに養やしないます。(テモテ第だい一いち 5:8)また,家か族ぞくのリーダーとして,家か族ぞくがバランスよく休きゅう養ようや楽たのしいことをする時じ間かんを取とれるようにします。一いち番ばん大だい事じなこととして,クリスチャンの親おやは子こ供どもが神かみとの強つよい絆きずなを持もてるように助たすけます。そのために,家か族ぞくで聖せい書しょを学まなぶ時じ間かんを欠かかさずに取とることは大たい切せつです。子こ供どもたちが楽たのしく学まなんで,エホバに仕つかえたいと思おもえるようにします。(申しん命めい記き 6:6,7)さらに,伝でん道どうや集しゅう会かいがとても大たい切せつであることを教おしえ,よく準じゅん備びして参さん加かすることによって手て本ほんを示しめします。(ヘブライ 10:24,25)

快こころよく許ゆるした

11. 人ひとを許ゆるすことについて,イエスは弟で子したちにどんなことを教おしえましたか。

11 愛あいがある人ひとは,人ひとを許ゆるします。(コロサイ 3:13,14)コリント第だい一いち 13章しょう5節せつにある通とおり,「傷きずつけられても根ねに持もちません」。イエスは,許ゆるすことの大たい切せつさを繰くり返かえし弟で子したちに教おしえました。「7回かいではなく77回かい」人ひとを許ゆるすようにと言いいました。何なん度どでも許ゆるしなさい,ということです。(マタイ 18:21,22)また,罪つみを犯おかした人ひとが助じょ言げんを受うけて悔くい改あらためたなら,その人ひとを許ゆるすようにとも教おしえました。(ルカ 17:3,4)口くち先さきだけの偽ぎ善ぜん的てきなパリサイ派はの人ひとたちとは違ちがい,イエスは自みずから手て本ほんを示しめしました。(マタイ 23:2-4)親したしい友ともの言げん動どうにがっかりした時ときにも,イエスがどのように快こころよく許ゆるしたかを考かんがえてみましょう。

ペテロが中庭で,イエスなど知らないと言っている。イエスがその様子をバルコニーから見下ろしている。

12-13. (ア)イエスが捕とらえられた夜よる,ペテロはイエスをがっかりさせるようなどんなことをしましたか。(イ)イエスが快こころよく人ひとを許ゆるしたことは,復ふっ活かつ後ごのどんな言げん動どうから分わかりますか。

12 イエスの親したしい友ともの1人ひとりに,温あたたかい心こころの持もち主ぬしである使し徒とペテロがいました。ペテロは時とき々どき衝しょう動どう的てきに行こう動どうすることもありましたが,イエスはペテロの良よいところに注ちゅう目もくし,特とく別べつな務つとめや機き会かいを与あたえました。例たとえば,ペテロはヤコブやヨハネと一いっ緒しょに,他たの使し徒とたちは見みることができなかった奇き跡せきを見みせてもらいました。(マタイ 17:1,2。ルカ 8:49-55)また,イエスが捕とらえられた夜よるも,その2人ふたりと一いっ緒しょにゲッセマネの庭てい園えんの奥おくの方ほうまでイエスに付つき添そいました。しかし,その夜よるにイエスが裏うら切ぎられて拘こう束そくされた時とき,ペテロや他たの使し徒とたちはイエスを見み捨すてて逃にげました。その後ご,イエスが不ふ当とうな裁さい判ばんにかけられている間あいだ,ペテロは勇ゆう敢かんにも外そとで待まっていました。ところが,怖こわくなって重じゅう大だいな間ま違ちがいをしてしまいます。イエスなど知しらないと3回かいもうそをついたのです。(マタイ 26:69-75)イエスはどうしたでしょうか。あなただったら,親しん友ゆうにそのようにがっかりさせられたらどうしますか。

13 イエスはペテロを許ゆるしました。ペテロが罪ざい悪あく感かんに苦くるしんでいることをよく分わかっていました。ペテロが「泣なき崩くずれた」ことから,深ふかく後こう悔かいしていたことは明あきらかでした。(マルコ 14:72)復ふっ活かつした日ひに,イエスはペテロの前まえに現あらわれました。慰なぐさめて安あん心しんさせるためだったのでしょう。(ルカ 24:34。コリント第だい一いち 15:5)それから2カ月げつもしないペンテコステの日ひに,ペテロはエルサレムで使し徒とたちの先せん頭とうに立たって群ぐん衆しゅうに話はなしました。イエスがペテロにその務つとめを与あたえたことは,ペテロへの信しん頼らいの表あらわれでした。(使し徒と 2:14-40)イエスは自じ分ぶんを見み捨すてたほかの使し徒とたちのことも根ねに持もったりしませんでした。復ふっ活かつした後あとも,彼かれらを「私わたしの兄きょう弟だいたち」と呼よんでいます。(マタイ 28:10)イエスが許ゆるすよう人ひとに教おしえただけでなく,自じ分ぶん自じ身しんも快こころよく人ひとを許ゆるしたことがよく分わかります。

14. 人ひとを許ゆるすように努ど力りょくする必ひつ要ようがあるのはどうしてですか。誰だれかから気きに障さわるようなことをされたとき,具ぐ体たい的てきにどうしたらいいですか。

14 キリストの弟で子しである私わたしたちは,人ひとを許ゆるすように努ど力りょくする必ひつ要ようがあります。イエスと違ちがって私わたしたちは皆みな不ふ完かん全ぜんで,互たがいに間ま違ちがったことを言いったりしたりしてしまうことがよくあるからです。(ローマ 3:23。ヤコブ 3:2)悔くい改あらためている人ひとを許ゆるすなら,自じ分ぶんも神かみに罪つみを許ゆるしてもらえます。(マルコ 11:25)では,誰だれかから気きに障さわるようなことをされたとき,具ぐ体たい的てきにどうしたらいいでしょうか。愛あいがあれば,相あい手ての小ちいさな間ま違ちがいや欠けっ点てんはたいてい見み過すごすことができるでしょう。(ペテロ第だい一いち 4:8)自じ分ぶんを傷きずつけた人ひとがペテロのように誠せい実じつに悔くい改あらためているなら,イエスに見み習ならって快こころよく許ゆるしたいと思おもうことでしょう。根ねに持もったりせず,水みずに流ながすのが最さい善ぜんです。(エフェソス 4:32)そのようにすれば,会かい衆しゅうの平へい和わに貢こう献けんでき,自じ分ぶん自じ身しんも穏おだやかな気き持もちでいることができます。(ペテロ第だい一いち 3:11)

信しん頼らいしていることを示しめした

15. 欠けっ点てんがある弟で子したちをイエスが信しん頼らいしたのはどうしてですか。

15 愛あいがある人ひとは,人ひとを信しん頼らいします。聖せい書しょによると「全すべてのことを信しんじ」ます。c (コリント第だい一いち 13:7)愛あい情じょう深ぶかいイエスは,不ふ完かん全ぜんな弟で子したちを信しん頼らいしました。弟で子したちが心こころからエホバを愛あいしていて,エホバの望のぞむことを行おこないたいと思おもっていることを信しんじていました。弟で子したちが間ま違ちがいをしても,心こころが曲まがっているからだとは考かんがえませんでした。例たとえば,使し徒とのヤコブとヨハネが王おう国こくでイエスの隣となりに座すわれるように母はは親おやを通とおしてお願ねがいした時とき,イエスは2人ふたりの誠せい実じつさを疑うたがったり,使し徒とにはふさわしくないと考かんがえたりはしませんでした。(マタイ 20:20-28)

16-17. イエスは弟で子したちにどんな責せき任にんを委ゆだねてきましたか。

16 信しん頼らいの表あらわれとして,イエスは弟で子したちにいろいろな責せき任にんを委ゆだねました。奇き跡せきによって食たべ物ものを増ふやして大おお勢ぜいに与あたえた時ときには,2回かいとも食たべ物ものを配くばるのを弟で子したちに任まかせました。(マタイ 14:19; 15:36)自じ分ぶんにとって最さい後ごの過すぎ越こしを祝いわうに当あたっては,エルサレムに行いって準じゅん備びをするようペテロとヨハネを遣つかわしました。2人ふたりは,子こ羊ひつじ,ぶどう酒しゅ,無む酵こう母ぼパン,苦にが菜ななど,必ひつ要ような物ものを用よう意いしました。それは単たんなる雑ざつ用ようではありませんでした。過すぎ越こしを正ただしい方ほう法ほうで祝いわうことはモーセの律りっ法ぽうで求もとめられており,イエスは律りっ法ぽうを注ちゅう意い深ぶかく守まもる必ひつ要ようがあったからです。しかもその晩ばん,過すぎ越こしの祝いわいの後あとにイエスが自じ分ぶんの死しを記き念ねんする式しきを制せい定ていした時とき,パンとぶどう酒しゅはイエスの体からだと血ちを表あらわす重じゅう要ような物ものとして使つかわれました。(マタイ 26:17-19。ルカ 22:8,13)

17 イエスは弟で子したちにさらに重じゅう要ような務つとめも与あたえました。すでに考かんがえた通とおり,伝でん道どうして人ひと々びとを弟で子しとするという重じゅう大だいな任にん務むを託たくしました。(マタイ 28:18-20)また,聖せいなる力ちからによって選えらばれた弟で子したちのうちの少しょう人にん数ずうの一いち団だんに,信しん仰こうを強つよめる食しょく物もつを分ぶん配ぱいさせることにしました。(ルカ 12:42-44)天てんで王おうとなった今いまでも,イエスは弟で子したちを信しん頼らいし,聖せい書しょに書かかれた資し格かくを満みたしている「人ひと々びとという贈おくり物もの」に自じ分ぶんの会かい衆しゅうの世せ話わを任まかせています。(エフェソス 4:8,11,12)

18-20. (ア)兄きょう弟だい姉し妹まいを信しん頼らいする人ひとはどんな見み方かたをしますか。(イ)人ひとに責せき任にんを委ゆだねる点てんでどのようにイエスに見み習ならえますか。(ウ)次つぎの章しょうではどんなことを考かんがえますか。

18 人ひとに対たいする見み方かたの点てんで,どのようにイエスの手て本ほんに倣ならえるでしょうか。兄きょう弟だい姉し妹まいを信しん頼らいすることは,愛あいの表あらわれです。愛あいがある人ひとは,人ひとの悪わるいところではなく,良よいところを見みるようにします。人ひとにがっかりさせられることはあるものですが,愛あい情じょう深ぶかければ,相あい手てに悪あく意いがあるとすぐに決きめつけたりはしません。(マタイ 7:1,2)仲なか間まの良よいところに注ちゅう目もくすれば,批ひ判はんしたりするのではなく,励はげまして力ちからづけたいと思おもえることでしょう。(テサロニケ第だい一いち 5:11)

19 人ひとに責せき任にんを委ゆだねる点てんでもイエスに見み習ならえるでしょうか。会かい衆しゅうの監かん督とくたちが人ひとを信しん頼らいし,その人ひとに合あった有ゆう意い義ぎな仕し事ごとを任まかせるのは良よいことです。経けい験けんのある長ちょう老ろうたちはそのようにして,会かい衆しゅうの役やくに立たとうと「努つとめている」若わかい兄きょう弟だいたちが大たい切せつなことを学まなんで成せい長ちょうできるように助たすけることができます。(テモテ第だい一いち 3:1。テモテ第だい二に 2:2)人ひとを育そだてるのは大だい事じなことです。エホバがますます多おおくの人ひとを会かい衆しゅうに招まねき入いれているので,教おしえ導みちびく資し格かくのある兄きょう弟だいたちがいっそう必ひつ要ようになっているからです。(イザヤ 60:22)

20 イエスは人ひとを愛あいする点てんで素す晴ばらしい手て本ほんを残のこしています。イエスの弟で子しとしてできる一いち番ばん大たい切せつなことは,イエスの愛あいに見み習ならうことです。イエスは私わたしたちを深ふかく愛あいして,私わたしたちのために自じ分ぶんの命いのちを差さし出だしてくれました。そのことにイエスの愛あいが一いち番ばんよく表あらわれています。次つぎの章しょうで詳くわしく考かんがえましょう。

a 使し徒とたちが眠ねむくなったのは,単たんに体からだが疲つかれていたからではなかったようです。この時ときのことについてルカ 22章しょう45節せつには,「彼かれらは悲ひ嘆たんのあまり疲つかれて眠ねむっていた」と書かかれています。

b この時ときマリアはすでに夫おっとを亡なくしていたようです。また,ほかの子こ供どもたちはまだイエスの弟で子しになっていなかったと思おもわれます。(ヨハネ 7:5)

c もちろんこれは,愛あいがある人ひとはとにかく何なんでも信しんじてだまされやすいという意い味みではありません。過か度どに批ひ判はん的てきだったり疑うたがい深ぶかかったりしないということです。愛あい情じょう深ぶかい人ひとは,すぐに人ひとを非ひ難なんしたり,悪あく意いがあると決きめつけたりしません。

イエスの弟で子しとして考かんがえたいこと

  • イエスの助じょ言げんに従したがって人ひとを許ゆるすことが大たい切せつなのはどうしてですか。(マタイ 6:14,15)

  • 人ひとを許ゆるすことについてのイエスの例たとえの要よう点てんを考かんがえると,どうしたいという気き持もちになりますか。(マタイ 18:23-35)

  • イエスはどのように弟で子したちに配はい慮りょしましたか。どのようにイエスに見み習ならえますか。(マタイ 20:17-19。ヨハネ 16:12)

  • イエスはペテロを信しん頼らいしていることをどのように伝つたえましたか。イエスに見み習ならって,人ひとを信しん頼らいしていることをどのように伝つたえられますか。(ルカ 22:31,32)

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