本当の幸せにつながるのはどんな愛ですか
「エホバをその神とする民は幸いだ!」 詩 144:15
歌: 75,73
1. わたしたちが特別な時代に住んでいると言えるのはなぜですか。
わたしたちは歴史上,極めて特別な時代に住んでいます。聖書が予告していたとおり,エホバは「すべての国民と部族と民と国語の中から……大群衆」を集めておられます。800万人を超える幸福で「強大な国民」が「昼も夜も神に神聖な奉仕をささげて」います。(啓 7:9,15。イザ 60:22)神と隣人を愛する人々がこれほど大勢いた時代はありません。
2. 神に仕えていない人々はどんな愛を抱いていますか。(冒頭の挿絵を参照。)
2 とはいえ聖書は,神に仕えていない人々がそのような愛とは異なる愛を示すことも予告していました。利己的な愛です。「終わりの日には,……人々[が]自分を愛する者,金を愛する者,……神を愛するより快楽を愛する者」となる,と使徒パウロは述べました。(テモ二 3:1-4)そのような利己的な愛は,クリスチャンが抱く愛とは正反対のものです。決して人を幸せにはしません。それどころか,利己的な愛のせいで「対処しにくい」世の中になっています。
3. この記事ではどんな点を考えますか。なぜですか。
3 パウロは,利己的な愛がクリスチャンにとって危険であることを知っていました。それで,そのような愛を示す人々から「離れなさい」と警告しました。(テモ二 3:5)もちろん,完全に接触を避けることはできません。では,周囲の人々の間違った態度の影響を受けないようにし,愛の神エホバに喜んでいただくには,どうしたらよいでしょうか。神に喜ばれる愛と,テモテ第二 3章2-4節に記されている愛を比較して考えましょう。そうすれば,自分がどんな愛を示すべきかが分かります。この愛こそ,本当の満足感と幸せにつながる愛です。
神を愛するか,自分を愛するか
4. 自分を愛することが間違っていないのはなぜですか。
4 パウロは「自分を愛する者」について述べました。自分を愛するのは間違ったことでしょうか。いいえ,それは自然なことであり,必要なことでもあります。エホバは人間をそのような者として造られました。「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」とイエスは教えました。(マル 12:31)自分を愛していなければ,隣人を愛することはできません。聖書はこうも述べています。「夫は自分の体のように妻を愛すべきです。妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。自分の身を憎んだ者はかつていないからです。むしろ人は,それを養い,また大切にします」。(エフェ 5:28,29)ですから,自分に対する適度な愛は望ましいものです。
5. 自分を過度に愛する人とはどんな人ですか。
5 しかし,テモテ第二 3章2節に述べられている自分への愛は,健全なものではありません。利己的でゆがんだ愛です。自分を過度に愛する人は,自分のことを必要以上に考えます。(ローマ 12:3を読む。)自分のことばかり考え,他の人のことはほとんど気にかけません。物事がうまくいかないと,自分の責任を認めずに,他の人のせいにします。ある聖書注解者は,自分を愛する人をハリネズミに例え,こう述べています。「[ハリネズミは]体を丸め,自分は柔らかな体毛の中で温まる。……しかし……他者に向かってたくさんの鋭い針を突き出す」。そのような自己中心的な人は本当の意味で幸福ではありません。
6. 神を愛する人はなぜ幸福ですか。
6 終わりの日に人々が示す悪い特質として,自分への愛がまず挙げられているのはなぜでしょうか。ある聖書学者たちによれば,自分への愛は,パウロが挙げている他の様々な悪い特質を生み出すからです。しかし,神を愛する人は全く異なる特質を示します。聖書は,神に喜ばれる愛を,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制と結び付けています。(ガラ 5:22,23)詩編作者も「エホバをその神とする民は幸いだ!」と述べています。(詩 144:15)エホバは幸福な神です。ですから,神の民も幸福です。自分を愛し,受けることだけに関心がある人とは異なり,自分の時間やエネルギーを他の人に与えるので幸福です。(使徒 20:35)
7. 神への愛の強さを確かめるため,どんなことを自問できますか。
7 神への愛よりも自分への愛が強くなっていないか,どのように確かめられますか。フィリピ 2章3,4節にはこうあります。「何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく,むしろ,他の人が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち,自分の益を図って自分の事だけに目を留めず,人の益を図って他の人の事にも目を留めなさい」。こう自問できます。「この助言を自分の生活に当てはめているだろうか。神のご意志を進んで行なおうとしているだろうか。会衆でも野外宣教でも,他の人を助けようと努めているだろうか」。自分の時間やエネルギーを与えることには,努力と自己犠牲が求められます。でも,宇宙主権者の是認を得ること以上に幸せなことはありません。
8. 神への愛に動かされ,どんな奉仕をしている人たちもいますか。
8 神への愛に動かされ,高収入の得られる仕事を後にして,エホバにいっそう仕えている人たちもいます。エリカは米国に住む医師です。でも,医師として成功しようとするのではなく,正規開拓奉仕を始め,夫と共に幾つかの国で奉仕しました。こう述べています。「外国語の区域で奉仕してたくさんの良い経験をし,多くの友を得,本当に充実した生活を送ってきました。医師の仕事は続けていますが,エホバについて人々に教え,会衆の兄弟姉妹を助けることに多くの時間やエネルギーを使っています。心からの喜びと満足感を味わっています」。
富を天に蓄えるか,地上に蓄えるか
9. お金を愛する人が幸福になれないのはなぜですか。
9 パウロは「金を愛する者」についても述べました。何年か前,アイルランドの開拓者はある男性に神について話しました。すると男性は財布から数枚の紙幣を取り出して,誇らしげに「これがわたしの神だよ!」と言いました。これほどあからさまに言わないとしても,お金や物を愛する人が世界にはあふれています。聖書はこう警告しています。「ただ銀を愛する者は銀に満ち足りることなく,富を愛する者は収入に満ち足りることがない」。(伝 5:10)そのような人はもっとたくさんのお金を欲しがり,お金を貯めるために必死に努力します。その結果,「多くの苦痛」を経験しています。(テモ一 6:9,10)
10. 聖書には富と貧しさについてどんなことが記されていますか。
10 もちろん,お金は必要です。ある程度,身の守りともなります。(伝 7:12)では,基本的な必要を賄うお金しかなくても幸せになれるでしょうか。もちろんなれます。(伝道の書 5:12を読む。)ヤケの子アグルはこう述べました。「わたしに貧しさをも富をも与えないでください。わたしのために定められた食物をわたしにむさぼり食わせてください」。アグルがひどく貧しい生活を望まなかったのは,続く部分で述べているように,貧しさのゆえに盗みを働き,神の名を汚すようなことはしたくなかったからです。では,アグルが富を与えないでほしいと祈ったのはなぜでしょうか。こう述べています。「それは,わたしが満ち足りてあなたを実際に否み,『エホバとはだれか』と言うことのないため……です」。(箴 30:8,9)今日でも,神ではなく富を信頼している人が大勢いるのではないでしょうか。
11. イエスはお金に関してどんな助言を与えましたか。
11 お金を愛する人は神に喜ばれません。イエスはこう言いました。「だれも二人の主人に奴隷として仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛するか,一方に堅く付いて他方を侮るかのどちらかだからです。あなた方は神と富とに奴隷として仕えることはできません」。イエスはこうも述べました。「あなた方は自分のために地上に宝を蓄えるのをやめなさい。そこでは蛾やさびが食い尽くし,また盗人が押し入って盗みます。むしろ,自分のために天に宝を蓄えなさい。そこでは蛾もさびも食わず,盗人が押し入って盗むこともありません」。(マタ 6:19,20,24)
12. 生活をシンプルにするなら,もっとエホバに仕えることができます。例を挙げてください。
12 生活をシンプルにするなら,エホバに仕える時間を増やすことができ,もっと幸せになれます。そのことに気づいた人は大勢います。米国に住むジャックは,妻と一緒に開拓奉仕をするため,大きな家と仕事を手離しました。こう言います。「自然に囲まれた美しい家や土地を手離すのはつらいことでした。でも,それまで何年もの間,わたしは仕事上の問題のためにいらいらして家に帰っていました。でも,開拓奉仕をしていた妻はいつも幸せそうでした。妻はよく『わたしには最高の上司がいるから』と言っていました。今はわたしも開拓奉仕をし,同じ上司であるエホバに仕えています」。
13. お金に対してバランスの取れた見方をしているかを,どのように確かめることができますか。
13 お金に対してバランスの取れた見方をしているかを確かめるため,こう自問してみましょう。「聖書がお金について述べている事柄を本当に信じているだろうか。そのことが生活に表われているだろうか。お金を稼ぐことが生活の中心になっていないだろうか。エホバとの関係や他の人との関係よりも,お金や物を大切にしていないだろうか。エホバが必要なものを与えてくださることを本当に信じているだろうか」。エホバはご自分に頼る人を決して失望させません。(マタ 6:33)
エホバを愛するか,快楽を愛するか
14. 生活を楽しむことについて,どんなバランスの取れた見方ができますか。
14 予告されていたとおり,今日多くの人は「快楽を愛する者」となっています。自分やお金に対して健全な見方をすることが大切なように,生活を楽しむことについてもバランスの取れた見方をする必要があります。エホバは,わたしたちが健全な活動を楽しむことを禁じてはおられません。聖書は,神に忠実に仕える人たちに,「行って,歓びをもってあなたの食物を食べ,良い心をもってあなたのぶどう酒を飲め」と勧めています。(伝 9:7)
15. 「快楽を愛する者」とはどんな人のことですか。
15 テモテ第二 3章4節は,神を無視するほど快楽を追求する人について述べています。この聖句の「神を愛するより」快楽を愛するという表現に関して,ある学者はこう述べています。「[この聖句]は,彼らが神のことも幾らか愛しているという意味ではない。神を全く愛していないという意味である」。快楽を愛する人に対する何と強力な警告でしょう。「快楽を愛する者」は「快楽にさらわれてしまい」ます。(ルカ 8:14)
16,17. イエスは生活を楽しむことに関してどんなバランスの取れた見方をしましたか。
16 イエスは生活を楽しむことに対して完全にバランスの取れた見方をしました。「婚宴」や「盛大な歓迎の宴」に出席したこともあります。(ヨハ 2:1-10。ルカ 5:29)婚宴では水をぶどう酒に変える奇跡を行ないました。ぶどう酒が足りなくなったからです。別の機会には,食べたり飲んだりしているイエスを非難した人たちの独善的な見方を正しました。(ルカ 7:33-36)
17 とはいえ,イエスは快楽を中心にした生き方をしていたわけではありません。エホバを第一にし,他の人たちを助けるために多くの時間とエネルギーを費やしました。人々の命を救うため,大きな苦痛を伴う死を遂げました。また,ご自分に従おうとする者たちにこう言いました。「人々がわたしのためにあなた方を非難し,迫害し,あらゆる邪悪なことを偽ってあなた方に言うとき,あなた方は幸いです。歓び,かつ喜び躍りなさい。天においてあなた方の報いは大きいからです。人々はあなた方より前の預言者たちをそのようにして迫害したのです」。(マタ 5:11,12)
18. 生活を楽しむことに関してバランスの取れた見方をしているか,どのように確かめることができますか。
18 あなたは生活を楽しむことに関してバランスの取れた見方をしていますか。こう自問できます。「集会や野外奉仕よりも遊びを優先していないだろうか。神に仕えるため,自分にとって楽しいことを進んで犠牲にするだろうか。映画や音楽やゲームを選ぶ際,エホバがどうご覧になるかを考えるだろうか」。神を本当に愛しているなら,神に喜ばれないとはっきり分かっている事柄だけでなく,神に喜ばれない可能性がある事柄も注意深く避けるでしょう。(マタイ 22:37,38を読む。)
幸せな生き方
19. どんな人は本当の意味で幸せにはなれませんか。
19 約6000年に及ぶサタンの支配は間もなく終わろうとしています。今の世界には自分やお金や快楽を過度に愛する人たちがあふれています。できるだけ多くのものを得ようとし,自分の欲望を満たすことを生活の中心にしています。そのような人は本当の意味で幸せにはなれません。ではどんな人が幸せになれますか。詩編作者はこう述べています。「ヤコブの神を自分の助けとする者は幸いだ。彼の望みはその神エホバにある」。(詩 146:5)
20. 神を愛するならどんな喜びを味わえますか。
20 エホバの民は神を深く愛しており,その民の数は年々増加しています。これは神の王国がすでに支配しており,間もなく素晴らしい祝福を地にもたらすことの証拠です。神のご意志を行なうなら,神に喜んでいただくことができます。エホバに喜んでいただいているという実感があると,本当に幸せになれます。エホバを愛する人は永遠に喜びを味わうでしょう。次の記事では,利己的な愛から生じる幾つかの特質を取り上げ,エホバの民の示す特質との違いについて考えます。