生命を神の御心と一致して用いる
1 (イ)だれの御心が血の使用を制御しなければなりませんか。彼はどんな行いを禁じますか。(ロ)血を流すことが正しいと示されたどんな出来事がカインとアベルの時代に生じましたか。
生物の生命の血は神の御こころと一致するときだけ正しく使用されます。血を食物として食べることは禁ぜられています。生命を維持するための医療という口実で血を他の人に与えることは,神により許されていません。血は生物の体内で生命を維持する役割を果たします。しかし,神はそれ以外にももう一つの血の使用を認めています。このことはアダムの息子たち,カインとアベルの時代にあきらかに示されました。「アベルは羊を飼う者となり,カインは土を耕す者となった。日がたって,カインは地の産物を持ってきて,主に供え物とした。アベルもまた,その群れのういごと肥えたものを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかった」。(創世 4:2-5,新口)カインの供え物は,魂のない野菜でした。アベルの犠牲は生命を表わし,血をそそぎ出すことを必要としました。エホバはアベルの犠牲をうけいれることにより,犠牲をささげるときに血を流す必要を示しました。しかし,カインはこのことについての神の導きをうけいれませんでした。かえって,彼は自分の弟アベルを荒々しく殺してしまいました。アベルは,彼自身の生命と羊の生命を,神の御こころ通りに用いていた当時の地上のただひとりの人だったのです。
2 神は流された血のどんな一つの正しい使用をゆるしましたか。このことはだれに知らされましたか。そして,どのように?
2 神の忠実なしもべたちは,エホバにささげる犠牲として,動物の生命の血を注ぐことが神の御心であることを認めました。そして,ノア,アブラハムその他の者たちは,それを行なった者であると聖書に述べられています。(創世 8:20; 22:13)彼らの子孫であるイスラエル人たちが,シナイ山のふもとに集まって,一つの国民に組織されたとき,エホバ神は明瞭な言葉を用いて,生物の流された血を用いるただひとつの正しい仕方を告げられました。彼は次のように言われたのです,「あなたがたの魂のために祭壇の上で,あがないをするため,わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに,あがなうことができるからである」。(レビ 17:11,新口)血は生命の働きと密接なむすびつきを持ち,罪は生命を失わせるゆえ,神は罪をあがなう犠牲として,生命を表わすもの,すなわち血を要求されます。「血を流すことなしには,罪のゆるしはあり得ない」。―ヘブル 9:22,新口。
3 それらの動物の犠牲は,どんな大きな犠牲を予表しましたか。その血は,どのように人類に益しますか。
3 これらの動物の犠牲は,さらに大きな犠牲,罪を永久に取りのぞいて神のしもべたちが永遠の生命を得る機会を与える犠牲を予表しました。この犠牲は,イスラエルの羊や牛から選ばれたのではありません。それは神の御子イエス・キリストでした。洗礼者ヨハネは,彼を認めて次のように叫びました,「見よ,世の罪を取り除く神の小羊」。(ヨハネ 1:29,新口)これは人類のために設けられたエホバご自身のご準備でした。それは彼の小羊なる御子であって,その生命は犠牲としてささげられました。愛にみちるこの取りきめにより,地上の男や女に,王なるキリストと共に天の宮で奉仕するという特権が開かれました。なぜなら,これらの者たちは「キリストの血によって今は義とされている」からです。(ロマ 5:9,新口)14万4000人のこの「小さな群れ」のほかに,神の足台なるこの地上で,御座の前で神に仕える「大いなる群衆」は,このあがないの犠牲の益をうけ,小羊の血でその衣を洗って白くしました。その結果,彼らの罪はゆるされ,神の御前で義人と見なされます。―黙示 7:14,15。
4 私たちの生命は,何をうけいれることに依存しますか。そして,なぜ?
4 イエス・キリストの完全な犠牲は,罪ぶかい人類のために神にささげる犠牲の必要を全くみたしました。それをくり返して行なう必要はありません。動物の犠牲はもう必要ではありません。全くのところ,神は動物の犠牲を忌み嫌われます。なぜなら,動物の犠牲は神ご自身がもうけ給うた犠牲に対する不敬を示すからです。したがって,イエス・キリストのあがないの犠牲は,神がご自分のクリスチャン証者たちの中にもうけ給うたただ一つの取りきめです。この取りきめにより,他の人の生命を救うために,ひとりの人の血が流されました。「わたしたちは,御子にあって,神の豊かな恵みのゆえに,その血によるあがない,すなわち,罪過のゆるしを受けたのである」。(エペソ 1:7,新口)私たちの生命は,私たちがこのご準備をうけいれるかどうか,血の正しい使用についての神の取りきめをうけいれるかどうかに依存しています。神の御手から永遠の生命を受けることを望む賢明な人々は,生命の与え主なる神の否認する仕方で血を使用するのを避けます。
魂をこめて神を愛する
5 (イ)ひとりの質問者に対する答えの中で,永遠の生命を相続するために何をしなければならぬとイエスは言われましたか。(ロ)魂をこめて神を愛することには,何が含まれていますか。そして,なぜ?
5 あるとき律法に通じていたひとりの人がイエスにたずねました,「先生,何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。それに対する答えの中でイエスは,私たちを導くための原則を示されました。その原則により,私たちは永遠の生命の報いを得るために現在の生命をどう使うべきかを知ることができます。彼は次のように言われました,「『心をつくし,魂をつくし,力をつくし,思いをつくして,あなたの神であるエホバを愛しなさい』。また『自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい』」。(ルカ 10:25-27,新世)さて,魂をこめて神を愛するということには何が含まれていますか。それは私たちの生命を神にささげることを意味します。そうです,神が私たちに与えるわざを行なうために生命をささげることを意味します。生命を神にささげた以上,私たちは生命を表わすものを認めねばなりません。それは生命あるいは魂の中心である血です。それで生命が取られるとき,血は流されたと言えます。血は生命の働きと本質的なむすびつきを持っているので,人の魂または生命はその血であると聖書は述べています。神はノアに語られたとき,魂,生命そして血という表現をならべて次のように言われました,「魂である血といっしょに肉を食べてはならない」。(創世 9:4,新世)そして,彼はイスラエル人に簡単にこう言われました,「血は命だからである」。(申命 12:23,新口)したがって,私たちが神に献身するとき,私たちは生命を表わす血を,神の律法と一致して使用するように注意しなければなりません。
6,7 クリスチャンは他の人のために自分の生命の血を寄贈することができますか。それは医学の見地からも安全ですか。
6 ゆえに,この最大のいましめは,次のことを示します。すなわち,献身したクリスチャンは他の人のために生命の血を与えることができません。生命は神のものです。そして私たちは神の奉仕に生命をささげます。隣人を愛するために,生命を与えねばならないと論ずるのも正しくありません。隣人と共同で神の律法を破ることは隣人愛ではありません。輸血は悪いと神の御言葉は示しています。したがって,輸血のために血を与えることも悪いのです。
7 神への従順は,神のしもべたちに要求されています。神に従うなら害を避けることができるので,それは彼らにとって祝福でもあります。供血を求める各団体は,供血は完全に安全なものであるという印象を人々に与えていますが,それについての意見が一致していないことを知るのは興味ぶかいことです。「輸血の生理学と臨床医学」(英文)aという本の中には,次のような言葉があります,「最新の研究が示すごとく,供血者の健康はいちぢるしく害される」。忠実なクリスチャンは,神への奉仕を害するそのような危険をまぬかれます。
従順によって危険を避ける
8 エホバの証者は何にもとづいて輸血に対する態度をきめますか。なぜこのことについての医学的な証拠を考えるのですか。
8 輸血についてのエホバの証者の立場は,医学の賛成,不賛成にもとづいていません。輸血が安全であるとか,危険であるからという根拠にもとづいて,彼らは決定しません。彼らは神の御言葉にもとづいて決定します。しかし,輸血の結果 ― 血についての神の律法に従うとき,その結果から身を守ることができます ― についての知識を持つなら,エホバの道の正しいことをよりいっそう認識することができます。
9 輸血についてこの世は一般的にどんな見解をもっていますか。これは医学的に正しいことですか。
9 最近の医師たちは輸血には益があると信じて輸血をしています。あるときには,患者が輸血を要求するため,また「万全の措置を講ずる」ことをのぞむ親類の気持ちを満足させるために輸血がなされます。このことについて,ニューヨーク大学ノベレビュー・メジカル・センターの血液銀行の理事は,次のように語りました,「輸血は,患者をすこしも害さず,むしろ患者に益を与えるという考えにもとづいてなされている。しかし,輸血には危険がともなうゆえ,この考えは間違いである」。アメリカ一般診療研究所の雑誌は,次のように述べています,「多くの人々が輸血の恐怖を失って,塩を注文するのと同じぐらいな安易な気持ちで輸血を注文しているのは残念である」。いまから4000年以上のむかし,エホバ神は,他の生物の血を体内にいれてはいけない,と人間に告げられました。そして,現代の医療は,その律法を破ると重大な危険をひきおこすということを実証しています。
10,11 (イ)輸血をうける人の直面するいくつかの危険を述べなさい。医師たちはこのような危険を取りのぞくことができますか。(ロ)これらの事実を考えるとき,輸血は真に生命を救うものであると,あなたは言われますか。
10 輸血をされる人がすぐ直面する危険のひとつは,溶血反応の可能性です。すなわち,酸素を運ぶ赤血球が急速に滅ぼされることです。このため,割れるような頭痛があったり,胸や背中が痛み,腎臓の働きが弱くなるために毒が体内にはいるのを助けてしまいます。数時間か数日後に死亡するでしょう。この危険を除き得る医学の知識はまだありません。「いっしょうけんめいやってみるが,この反応の頻度を減少させるだけである。われわれはそれをなくすことができず,患者は輸血の結果,害をうけつづける」。これはワルター・リード陸軍病院にある血液学部長ダブリュー・エッチ・グロスビーの言葉です。患者の血液内の抗体が自然にできて溶血性の反応が起きない場合でも,体内に入れられた血の抗原は抗体の産出を刺激します。それでそのような要素を持つ血がふたたび与えられるなら,重大な反応が生ずるでしょう。現在知られている血の要素の組合せ数は,1500万もあります。それで,ぴったり適合して悪い影響をすこしも与えないような輸血はまずあり得ません。
11 別の危険もあります。医者は流血量を正確に知ることができません。それで,過度に輸血しようとするかも知れません。「メジカル・サイエンス」(1959年7月25日号,英文)誌が報告しているごとく,それはしばしば行なわれて,非常に悪い結果をもたらしています。また,輸血をしているときに空気が血液の中にはいることもあり,それは致命的な結果をひきおこします。また,体外に取り出された血はすぐ病菌に感染します。そして,空中にいる特定なバクテリアは,冷凍機の温度でも保存血の中で繁殖することができます。たとえ小量でも,そのような血は,受血者を殺してしまいます。そのような処置が真実に生命を救うものであるなどと,どうして言えますか。
12 輸血の結果として生ずる病気の危険を述べなさい そして,これらのことが患者にどんな結果をおよぼすかを示しなさい。
12 いままでの記述から輸血は悪いと分かります。しかし,それは受血者の直面する危険全部ではありません。輸血をする医者は,どのくらいの害がなされたか決して知らないでしょう。なぜなら,輸血で伝染した病気は,すぐに生じないからです。しかし,医学の権威者たちは,梅毒,マラリア,肝炎が,輸血によって伝染することをみな認めています。伝染の可能性があるだけでなく,その実例がよく報道されています。不道徳が世界的になっているため,性病がひろまり,梅毒の危険は増加しています。この病気は,早生児,盲目,つんぼ,まひ,心臓病,狂気,死という結果をもたらすのです。梅毒性の血液をしらべるための試験は,梅毒が最初の段階のときはその危険は分からず,けっきょく,患者がその価を払います。今年の2月,「ジャパン・タイムス」紙は,国立の東京大学病院を相手に一婦人が訴訟を起こして勝ったことを報告しています。この婦人は,梅毒性の血液を輸血されたので,視力を失い,夫から離婚されてしまいました。法廷の裁決した賠償額は,その害をつぐなうには微々たるものでした。マラリア感染の危険はどうですか。マラリア菌保持者は,体内にマラリア菌のいることをいつも自覚しているわけではありません。血液検査でマラリア菌が検出されることは,ほとんどないのです。しかし,その血を受ける人は犠牲者です。危険は減少しません。まったくのところ,マラリア菌のいる場所で生活したことのある人,あるいはその地を訪問した人は,マラリア菌保持者かも知れません。そして,国際的な旅行によって,数は日々増加しています。血清肝炎も,病気の危険のうちにはいります。それはひんぴんとおこるため注意が肝要です。肝炎による不具と死亡の危険は非常に大きいので,マヨ診療所医学名誉顧問アルバレズ博士は,絶対に必要であると感ずるまで,自分に輸血をしてはいけないと語りました。
13 輸血された婦人は,出産ということについて,さらにどんな価を払わねばなりませんか。
13 輸血は患者だけの害にとどまりせん。婦人の場合,これから生まれてくる子供たちにも危険がおよびます。ある原因 ― そのうちのあるものは知られていますが,他のものは理解されていません ― のために,合わない血が与えられた婦人は,正常で健康な子供を産むことができません。
14 神はそのような災からご自分の民を,どのように守りますか。
14 神の御言葉に注意を払うほうがはるかに良いのです。それは,血を避けよと私たちに告げています。子供たちが父親の言葉に耳を傾けるごとく,私たちが神の助言に注意を払って,その助言どおりに生活するなら,私たちはずっと幸福でしょう!「わが子よ,わたしの言葉に心をとめ,わたしの語ることに耳を傾けよ。それを,あなたの目から離さず,あなたの心のうちに守れ,それは,これを得る者の命であり,またその全身を健やかにするからである」。―箴言 4:20-22,新口。
人格は影響される
15 この輸血の危険について,この世的に賢明な人は,どのように論じますか。しかし,血の出所についてのどんな事実の故に,重大な質問が生じますか。
15 神の知恵よりも人間の学問に確信を置く人々は,次のように感じます。すなわち供血者の選択に注意を払うなら,これらの危険はすべて避けられるということです。しかし,事実を考えて下さい。病院の患者には死人の血も与えられていると聞いて,おそらくあなたはどきっとすることでしょう。しかし,ロシアとスペインから,その実例が,伝えられています。しかし,アメリカ合衆国でも死体の血の輸血についての実験が行なわれています!b もちろん,あなたの社会でそれは行なわれていないでしょう。しかし,1961年5月26日の「タイム」誌は,ポンティアク綜合病院にいた49歳の一婦人の例を報告しています。この婦人は,近くの湖でおぼれて,2時間半から3時間死亡していた12歳の男の子の死体から,約1リットルの血を輸血されました。また,ずっと昔の1935年には,シカゴ郊外の一医師が,ロシア人の医者の技術を使用していました。この医者は2年間に約35回死体の血を輸血したのです。多分,供血者は受血者の親族にあたるもので,評判もよく,清い生活をしている人かも知れません。そのような血なら安全ですか。いいえ,それは不適合による反応を避けることができません。また,供血者は,彼自身知らなくても,病気を持っているかも知れません。しかし,たいていの場合,受血者がだれかを知りません。健康な人の血であることもあるでしょう。しかし,アルコール患者とか変質者の血かも知れません。刑務所内の囚人たちに供血の機会が与えられています。たとえば,1961年4月6日のニューヨーク・タイムス紙は,次のことを報告していました,「オシニングにあるシンシン刑務所内の囚人たちは,今日赤十字に供血するだろう」。賞賛に値する行い? 社会の人が信ずるほど,人間の益にならないかも知れません。
16 (イ)聖書の申命記 12章25節の脚注の中で,血についてのどんな興味ぶかい意見が記されていますか。(ロ)これと同じことについて,現代の医師たちは何と言っていますか。なぜこれはクリスチャンにとって興味ぶかいものですか。
16 イスラエル人が約束の地にはいる準備をしていたとき,エホバはモーセを通して,血を食べることを禁ずる律法を彼らにくり返し告げました。申命記 12章25節には,次のように記録されています,「汝血を食はざれ汝もしかくヱホバの善と観たまふ事をなさば汝の身と汝の後の子孫とにさいはいあらん」。ジェイ・エッチ・ヘルツの編集した「モーセの五書」は「さいはいあらん」という言葉に,次のような注をつけています,「イブン・エズラの言葉によると,血の使用は道徳的な性質と肉体的な性質を堕落させる影響を持ち,将来の子孫に遺伝的な性格を伝える」。これは興味ぶかい点です。それが輸血にも適用されることは,医者たちも証明しています。たとえば,「あなたの医者はだれでなぜ?」(英文)という本の中で,アロンゾ・ジェイ・シャドマン博士は,次のように語っています,「人の血は実際にはその人自身である。血は,その人のくせをことごとく持っている。遺伝的な性質,病気にかかりやすいこと,個人の生活に起因する毒,食べるくせ,飲むくせがふくまれる……自殺させたり,人を殺させたり,盗みをさせたりする毒は,血の中にある」。40年以上も外科医をしてきたブラジルの医者アメリコ・バレリオ博士は,その言葉に同意します。「悖徳狂,色情倒錯,憂うつ感,劣等感,軽犯罪は,しばしば輸血後に生ずる」cと彼は言っています。しかし,新聞でも認められているごとく,血の供給に関しては信頼されている団体も,そのような性質を持つ囚人ら輸血用の血を得ているのです。肉のわざからはなれて,神が御言葉を通して示される道どおりに生命を用いようとする人は,そのような滅びに通ずる将来にむかって歩かないでしょう。―ロマ 12:2。エペソ 4:22-24。
生命の与え主に信仰を示す
17 (イ)エホバの証者は,宗教的な立場の故に,一切の医療に反対しますか。(ロ)クリスチャンがはなはだしい出血になやむ場合,その人のためになにをすることができますか。
17 あるクリスチャンの出血がはなはだしくて,治療を必要とする場合に,これらの事実はどういう意味を持ちますか。施す術はなにもないのですか。そのクリスチャンはただ死を待つだけですか。そのようなことはありません! エホバの証者は,神の律法に反しない治療については,宗教的な反対理由をすこしも持っていません。そして,事実そのような治療は可能です。人間は神によって創造されたもので,進化論の所産でないと信ずる医者たちは,たいてい次のことを認めています,すなわち神はすばらしい回復力を人体に与えたということです。それで,彼らはこの回復力と協力します。彼らは,血の使用を禁ずると,回復はさまたげられるなどと感じないのです。人体は出血の場合のような緊急事態に対処するためのすばらしい備えを持っています。(詩 139:14)「ブリタニカ百科辞典」(英文)は,次のように記しています,「人体は,動脈,静脈およびも毛細管を循環する血液を持つほかに,血を保存している。血を保存するひとつの器管は,脾臓である。出血のとき脾臓はちぢんで,海綿をしぼるように血を出して,それを体内に循環させる」。d この事実を認識する多数の医者たちは,次のことを認めています,すなわち人体の血液製造組織と協力する方が,他人の血を輸血するよりもずっと安全であるということです。「北アメリカの外科診療所」(1959年2月)は,次のように述べていました。「貧血の最善の治療は」,輸血でなく,「鉄療法」であるということです。人体の出血がはなはだしい緊急事態の場合は,「血漿ボリウム・エキスパンダー」を使用することができます。それを使用しても,血を禁ずる神の禁止令を破ることになりません。そして,多くの医者の証言によると,この「血漿ボリユーム・エキスパンダー」は,輸血よりもずっと安全なものでした。それは,たしかに血液の働きをしません。しかし,それは残っている赤血球の循環を助けるので,必要な時間中,酸素は各器官にとどけられ,出血分を補うことができます。それで,クリスチャンの患者は輸血だけが只一つの希望であるという言葉に心を動かされて輸血をうけるようなことをしません。むしろ十分に腕の立つ医者,忍耐のある医者,そして輸血なしの治療を求める宗教的な良心に尊敬を払う医者を捜します。
18 神の律法を破って生命を救おうとすることは,なぜ愚かですか。
18 非聖書的な手段で生命を救おうと努力しても,それは永遠につづく益をもたらしません。生命の与え主の律法を破りながら,生命を救えると考えるのは,なんと愚かなことでしょう! 一時的には益のある結果を生ずるかも知れません。しかし,そのような愚かな行いの結果,ついには病気にかかったり,死んだ子が生まれるようになります。たとえ,患者や子供たちに有害な結果が生じなくても,神の律法を破るなら,神の新しい世における永遠の生命を得る機会は危うくなるでしょう。
19 (イ)人間は現在の生命を守るために,あらゆることをする,神をも捨てる,と論じたのはだれですか。(ロ)イエスがペテロを叱責されたことから,私たちはどのように益をうけますか。(ハ)危急の時でも神に従う者たちに対して,神はどんなむくいを与えますか。
19 ヨブの場合,サタンは次のように論じました,すなわち人間は神にそむいても,現在の生命を救うためにあらゆることをするだろうというのです。「人はそのすべてのもちものをもて己の生命に換ふべし」と彼は論じました。(ヨブ 2:4)しかし,彼は間違っていました。ヨブはサタンが偽り者であることを証明しました。そして,イエス・キリストも彼を偽り者と証明したのです。あるときイエスはひとつの道を追い求めていることについて語っていました。その道を追い求めると,神に奉仕する彼は死ぬようになるでしょう。「すると,ペテロはイエスをわきへ引き寄せて,いさめはじめ」ました。しかし,イエスは彼を叱ってこう言われました,「サタンよ,引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで,人のことを思っている」。それから弟子たちに言われた,『私に従いたい人は自分をすてて苦しみの杭を負い,私にいつも従って来なさい。たれでも自分の魂を救おうと思う者はそれを失い,私のために自分の魂を失う者は,それを見いだすであろう』」。(マタイ 16:21-25,新世。マルコ 8:31-35)私たちがサタンのようになって,クリスチャンの兄弟たちに,この世の知恵を支持して神への確信を失わせてはなりません。生命を得る道は,ただひとつだけです。それは,神の御心に一致して生活するときだけ得られるのです。神への確信を決して失ってはなりません。いやしを与え給う神は,人間の医者にできないことをすることができます。彼はしもべたちの生命をのばすことができるのです。しかも,苦しみにみちるわずか数年をのばすだけでなく,永遠にのばすことができます。もし必要なら,死人のなかから復活させても,ごく間近になっている栄光に輝く新しい世において,永遠の生命を与えることができます。―詩 23:4。使行 24:15。
20 神の御心に一致して生命を用いるようにするため,私たちはいま何をするべきですか。
20 将来にはそのようなすばらしい見込みがあるのです。ゆえに,神の御こころに一致して生活するよう注意しましょう。この世の人々のように,仲間の人間の血に対して不注意な態度を取ってはなりません。いまこそ生命の血に対する最大の関心を示し,イエス・キリストの血に信仰を働かすようにすすめるべきです。それは生命を救うということにおいて,神の御前に真実の価値を持つものです。人々をして神の御国にたよらせなさい。人々を援助して,神の律法を学ばせなさい。生命の道に沿って歩みつづけるとき,彼らを忍耐づよくはげましなさい。あなたも,パウロが語り得たごとく,次のように言える決意を持ちなさい,「わたしは,すべての人の血について,なんら責任がない。神のみ旨を皆あますところなく,あなたがたに伝えておいたからである」。―使行 20:26,新口。
[脚注]
a 1960年,ドイツのジーフで出版。
b 1960年6月アメリカ血液銀行協会の「掲示」(英文)
c シエンシア・メディカ第20巻「道徳的な欠陥と輸血」(英文)
d 1946年版,第3巻743頁。