ルカによる福音書
2 その
8
15
21 8
22
25 さて,エルサレムにシメオンという
36 さて,アシェル
39 こうして,
41 さて,イエスの
51 それからイエスは
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カエサル: または,「皇帝」。ギリシャ語カイサルに対応するラテン語はカエサル。(用語集参照。)アウグストゥスは「尊厳者」という意味のラテン語。初代ローマ皇帝ガイウス・オクタウィウスはローマ元老院からその称号を初めて与えられた人で,それは紀元前27年のことだった。彼はカエサル・アウグストゥスとして知られるようになった。彼が命令を出した結果として,イエスがベツレヘムで生まれ,聖書預言が実現した。(ダニ 11:20。ミカ 5:2)
全土の住民: ここで使われているギリシャ語(オイクーメネー)は,広い意味では,人間の住む場所としての地上を指す。(ルカ 4:5。使徒 17:31。ロマ 10:18。啓 12:9; 16:14)1世紀に,この語は離散したユダヤ人が住んでいた広大なローマ帝国についても使われた。(使徒 24:5)
登録: アウグストゥスは人口調査によって課税や徴兵がしやすくなるのでこの命令を出したと思われる。そうすることで,「取り立て人を遣わして輝かしい王国を巡らせ」る支配者に関するダニエルの預言を実現したようだ。ダニエルはさらに,その支配者の後継者である「嫌悪されている者」の治世中に,重大な事が起きること,すなわち「契約の指導者」であるメシアが「砕かれ」るつまり殺されるということを予告した。(ダニ 11:20-22)イエスはアウグストゥスの後継者ティベリウスの治世中に処刑された。
クレニオ……シリア総督: クレニオ(プブリウス・スルピキウス・キリニウス)は,ローマの著名な元老院議員で,聖書に1度だけ出ている。学者たちは当初,クレニオは西暦6年ごろにローマの属州シリアで総督を1期だけ務めたと主張していた。その期間に人口調査に対して反乱が起きた。そのため学者たちは,クレニオが西暦6年か7年に総督だったと考えて,この節を攻撃し,ルカの記述に疑いを投げ掛けていた。イエスはもっと前に生まれていたからである。ところが1764年に,クレニオがシリアで総督(地方総督)を2期務めた可能性が高いことを示す碑文が見つかった。ほかの碑文に基づいて,クレニオがもっと早い時期,紀元前にシリアの総督を1期務めたことを認める歴史家もいる。この節に出ている登録の最初のものはこの任期中に行われたと思われる。さらに,批評家たちの論議は3つの重要な事実を無視している。第一に,ルカはこの登録を「最初のもの」と呼んで,人口調査が2回以上あったことを認めている。その後の西暦6年ごろの登録のことも知っていたと思われる。その登録について,ルカは「使徒の活動」の書(5:37)で述べており,ヨセフスも言及している。第二に,聖書の年代記述からすると,イエスがクレニオの2回目の任期中に生まれた可能性はない。一方,クレニオの1回目の任期中,紀元前4年から紀元前1年の間のいつかに生まれたことは,聖書の年代記述と合致する。第三に,ルカは注意深い歴史家としてよく知られており,記録した出来事の多くが起きた時代に生きた人だった。(ルカ 1:3)何よりも,聖なる力に導かれていた。(テモ二 3:16)
洞-1 829; イ聖 記事36; 塔09 12/1 16;
目68 1/8 20; 目65 12/22 7
初めての子: この表現は,マリアがほかにも子供を持ったことを示している。(マタ 13:55,56。マル 6:3)
飼い葉おけ: 「飼い葉おけ」と訳されるギリシャ語ファトネーは,「餌をやる場所」という意味。動物に餌をやるためのおけのようなものだったと思われるが,ギリシャ語ファトネーは家畜小屋のことも指せる。(ルカ 13:15と比較。そこではこのギリシャ語が「家畜小屋」と訳されている。)この文脈では,餌をやる場所を指すようだ。とはいえ聖書は,この飼い葉おけが屋外にあったか屋内にあったか家畜小屋と一緒になっていたか,何も述べていない。
羊飼い: エルサレムの神殿での捧げ物のためにたくさんの羊が常に必要とされたので,ベツレヘム周辺ではこの目的のために飼育される羊もいた可能性が高い。
屋外で生活して: ここのギリシャ語表現はアグロス(「野原」)とアウレー(「風のよく通る場所」)を組み合わせてできた動詞で,その語は「野原で生活する」,「大空の下で生活する」という意味。戸外で夜を過ごすことを示唆している。羊は1年のどの季節でも昼間は牧草地に連れていかれたが,羊飼いたちが羊と一緒に野原で夜を過ごしていたことは,イエスが誕生した時期を知る手掛かりになる。イスラエルの雨季は10月中旬に始まり,数カ月間続く。12月には,エルサレムと同様にベツレヘムでも,しばしば夜間に霜が降りる。ベツレヘムの羊飼いたちが夜に野原にいたことから,雨季の始まる前だったことが分かる。付録B15参照。
エホバの天使: ルカ 1:11の注釈,付録C3の序文とルカ 2:9を参照。
エホバの栄光: ルカの記述の最初の2章には,ヘブライ語聖書の中で神の名前が出てくる章句や表現への直接的また間接的な言及がたくさんある。ヘブライ語聖書には,「栄光」に相当するヘブライ語表現がテトラグラマトンと共に30回以上出てくる。例えば,出 16:7; 40:34,レビ 9:6,23,民 14:10; 16:19; 20:6,王一 8:11,代二 5:14; 7:1,詩 104:31; 138:5,イザ 35:2; 40:5; 60:1,エゼ 1:28; 3:12,脚注; 10:4; 43:4,ハバ 2:14にある。ルカ 1:6,9の注釈,付録C3の序文とルカ 2:9を参照。
主であるキリスト: ここで「主であるキリスト」と訳されているギリシャ語の表現(クリストス キュリオス,直訳,「主キリスト」)はギリシャ語聖書でここにしか出ていない。天使はこれらの称号を預言的な意味で使ったと思われる。それでこの部分は「主であるキリストとなる方」とも訳せる。(この節のキリストに関する注釈を参照。)ペテロは聖なる力に導かれて,使徒 2:36で,神はイエスを「主ともキリストとも」したと説明している。とはいえ,「主であるキリスト」と訳される表現には別の解釈もある。学者の中には,「選ばれた主」という訳を提案している人がいる。また,この称号の組み合わせは「主のキリスト」という意味だと考えている人もいる。ルカ 2:11のラテン語やシリア語の翻訳に,そういう訳も少し見られる。同様に,ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の中には,マーシーアハ エホーワーつまり「エホバのキリスト」と訳しているものもある。(付録CのJ5-8,10)こうした理由で,ルカ 2:11の言葉をルカ 2:26の「エホバのキリスト」と訳されるギリシャ語の表現と同じように理解している人もいる。
キリスト: 天使はこの称号を預言的な意味で使ったと思われる。イエスはバプテスマの時に聖なる力を注がれ,その時に実際にメシアつまりキリストになった。(マタ 3:16,17。マル 1:9-11。ルカ 3:21,22)
地上では神に喜ばれる人々の間に平和がありますように: 「地上で平和,善意が人々にありますように」と読める写本もあり,そのように訳している聖書もある。しかし,「新世界訳」が採用した読みの方が,他の写本によるはるかに強力な裏付けがある。天使のこの知らせは,態度や行動に関わりなく全ての人に神の善意が表明されるということではなかった。そうではなく,神に真の信仰を示して神の子の弟子となる人が善意を受けるということ。この節の神に喜ばれる人々に関する注釈を参照。
神に喜ばれる人々: または,「神の善意の人々」。「善意」と訳せるギリシャ語エウドキアは,「好意」,「望み」,「喜び」,「是認」とも訳せる。関連する動詞エウドケオーがマタ 3:17,マル 1:11,ルカ 3:22で使われていて(マタ 3:17,マル 1:11の注釈を参照),そこでは神がご自分の子にバプテスマの直後に語り掛けている。この語は,「是認する」,「喜んでいる」,「好意的に見る」という基本的な意味を伝えている。この用法と一致して,「神の善意の人々」に当たる原語の表現(アントローポイス エウドキアス)は神の是認や善意を受ける人々を指し,「神が是認する人々」,「神に喜ばれる人々」とも訳せる。それで,天使のこの言葉は,人間一般に対してではなく,神に真の信仰を示し神の子の弟子となって神を喜ばせる人々に対する神の善意を指している。ギリシャ語エウドキアは文脈によっては,人間の善意,人間の願いや良い動機を指すこともあるが(ロマ 10:1。フィリ 1:15),多くの場合,神の善意や望み,神の考えに沿ったことに関して使われている。(マタ 11:26。ルカ 10:21。エフ 1:5,9。フィリ 2:13。テサ二 1:11)この語はセプトゥアギンタ訳の詩 51:18(50:20,LXX)で,神の「善意」に関して使われている。
洞-2 47-48; イ解 記事37; 塔06 12/15 3,6; 塔97 1/15 11; 塔95 5/15 25; 塔91 1/1 15-16; 塔91 12/15 5; 塔89 8/15 20; 塔88 11/15 11,13; 塔87 4/1 13-14;
目85 12/22 8; 救 327; 誇 139; 塔71 84,87,236; 事 398; 塔65 14,20-21; 目63 4/22 5; 塔62 184; 目61 3/22 3; 塔60 27,65
目63 12/22 6
自分たちを清める時: 崇拝のための儀式上の清めのこと。モーセの律法で,母親は男の子を産んだ後40日の清めの期間を過ごさなければならなかった。(レビ 12:1-4)この律法は,女性や出産を見下げる見方ではなく,出産の過程を通じてアダムの罪が世代から世代へと伝えられるという重要な真理を教えていたと思われる。宗教学者たちの主張とは異なり,マリアも例外ではなかった。(ロマ 5:12)ルカがこの節でイエスを含めて「自分たち」と言ったとは考えられない。聖なる力によってイエスが不完全な人間である母親の罪深い状態から守られていたことを知っていたから。それでイエスに清めは必要なかった。(ルカ 1:34,35)ヨセフはこの旅を計画し,犠牲が捧げられるのを見届けるという家族の頭としての責任があったので,ルカはイエスの養父を含めて「自分たち」と言ったと思われる。
その子をエホバに差し出す: 次の節から分かるように,イエスが生まれた後に神殿に連れてこられたことは,モーセに対するエホバの言葉に沿っている。出 13:1,2,12では両親が「長男[を]エホバに差し出」すよう命じられている。また,「その子をエホバに差し出す」という表現はサ一 1:22-28に描かれていることとよく似ている。幼いサムエルは「エホバの前」に連れてこられ,エホバへの奉仕のために差し出された。ルカ 1:6; 2:23の注釈,付録C3の序文とルカ 2:22を参照。
洞-1 718; イ道 20; 倣 158,160-161; 塔08 10/1 25; 偉 6章;
塔82 7/1 31; 目80 10/22 19; 千 58; 塔66 216; 事 82; 目65 10/22 28
エホバの律法: 「律法」に当たるヘブライ語とテトラグラマトンを組み合わせた「エホバの律法」という表現がヘブライ語聖書に何度も出てくる。(例えば,出 13:9,王二 10:31,代一 16:40; 22:12,代二 17:9; 31:3,ネヘ 9:3,詩 1:2; 119:1,イザ 5:24,エレ 8:8,アモ 2:4。)書いてある通りといった表現は,ギリシャ語聖書でヘブライ語聖書から引用する際によく使われる。(マル 1:2。使徒 7:42; 15:15。ロマ 1:17; 10:15)ルカ 1:6の注釈,付録C3の序文とルカ 2:23を参照。
長男は皆: ルカ 2:22-24は,マリアの清めの時に捧げられた犠牲のこと(ルカ 2:22,24の注釈を参照)だけでなく,長男が生まれた時に夫婦が銀57グラムを支払うという律法の要求にも触れている。イエスは長男だったので,神のために神聖なものとされ,神のものとされた。それで律法によれば,イエスは両親のヨセフとマリアによって買い戻される必要があった。(出 13:1,2。民 18:15,16)その支払いは「生後1カ月以後」になされることになっていた。イエスの生後40日たってマリアが清めの犠牲を捧げたのと同じ時に,ヨセフは定められた量の銀を支払うことができただろう。
エホバ: この節の引用は出 13:2,12に基づいている。元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。付録C参照。
塔82 7/1 31; 千 58; 目65 10/22 28
エホバの律法: ルカ 2:23の注釈,付録C3の序文とルカ 2:24を参照。
ヤマバト2羽か若いイエバト2羽: 律法では,資力の乏しい女性は羊の代わりに鳥を捧げてもよかった。羊の方がはるかに高価だった。(レビ 12:6,8)それで明らかに,ヨセフとマリアはこの時には貧しかった。そのことから,占星術師たちが来たのはイエスが生まれたばかりの時ではなく,もっと大きくなってからだと分かる。(マタ 2:9-11)もし2人が占星術師から高価な贈り物を受け取った後だったら,神殿に行く時に犠牲のために羊を手に入れる余裕が十分にあっただろう。
犠牲を捧げた: モーセの律法下で,女性は出産後,一定の期間汚れたものとなった。その期間が過ぎると,その女性のために全焼の捧げ物と罪の捧げ物が捧げられた。(レビ 12:1-8)
洞-1 203,718; 洞-2 896; イ道 20; 倣 158,160; 塔09 1/1 5; 塔08 10/1 25; 塔03 12/15 4-5; 塔02 12/15 6; 塔00 2/15 12; 塔94 12/1 14; 偉 6章; 塔87 12/1 28-29;
塔85 6/15 24; 塔82 7/1 31; 目80 10/22 19; 塔76 357; 塔75 429; 千 58; 目65 10/22 28; 目63 10/22 3
エホバのキリスト: 入手できるギリシャ語写本は「主のキリスト」(トン クリストン キュリウー)としているが,ここの本文で神の名前を使う十分な理由がある。セプトゥアギンタ訳の現存する写本で,この表現は,「マーシーアハ」とテトラグラマトンを組み合わせたヘブライ語に対応していて,それはヘブライ語聖書で11回使われ,「エホバが選んだ人」などと訳されている。(サ一 24:6[2回],10; 26:9,11,16,23。サ二 1:14,16; 19:21。哀 4:20)付録C3の序文とルカ 2:26を参照。
キリスト: 直訳,「油を注がれた者」。または,「選ばれた者」,「メシア」。「キリスト」はギリシャ語クリストスに由来する称号で,「メシア」(ヘブライ語マーシーアハ)に相当する。どちらも「油を注がれた者」(「選ばれた者」とも訳される)という意味。マタ 1:1の注釈とこの節のエホバのキリストに関する注釈を参照。
主権者である主: ギリシャ語デスポテースには,「主」,「主人」,「所有者」という基本的な意味がある。(テモ一 6:1。テト 2:9。ペ二 2:1)ここと使徒 4:24と啓 6:10のように,神への直接の呼び掛けで使われる場合,その語は「主権者である主」と訳され,主としての卓越性を表す。他の翻訳では,「主」,「主人」,「君」,「絶対者なる主」などの語が使われている。ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の多くはヘブライ語アドーナーイ(主権者である主)を当てているが,少なくとも2つの訳は(付録CのJ9,18)ここで神の名前エホバを使っている。
この奴隷を……行かせてくださいます: 「行かせる」に当たるギリシャ語は字義的には,「自由にする」,「解放する」,「去らせる」という意味。ここでは死ぬことの婉曲表現として使われている。人が安らかに行くとは,寿命を全うしてから,あるいは抱いていた希望が実現してから穏やかに死ぬことを意味する。(創 15:15,王一 2:6と比較。)シメオンに対する神の約束は今や実現した。シメオンは,神の救いの手段すなわち約束されていた「エホバのキリスト」を見た。安らかで穏やかな気持ちになり,満ち足りて復活まで死の眠りに就くことができると感じた。(ルカ 2:26)
または,「あなたが救いをもたらす方法」,「あなたによる救い」。
立ち上がる: ここで使われているギリシャ語アナスタシスは,ギリシャ語聖書でたいてい「復活」と訳されている。(マタ 22:23の注釈を参照。)この節のシメオンの言葉は,イエスに対する反応が人によって異なり,それぞれの本当の考えが明らかになることを示している。(ルカ 2:35)信じない人にとって,イエスは非難の的,侮蔑の的になる。そのような信仰のない人はイエスを退け,歩みを妨げられ,倒れる。予告されていた通り,イエスは多くのユダヤ人にとってつまずきの石となった。(イザ 8:14)一方,イエスに信仰を持つ人もいる。(イザ 28:16)そのような人たちは,「過ちと罪のゆえに死んで」いた状態から比喩的に復活し,つまり立ち上がり,神から正しい者と見なされるようになる。(エフ 2:1)
塔77 220-221; 塔66 415; 事 362; 塔52 101
アンナ: 「恵み」,「慈しみ」を意味するハンナというヘブライ語名のギリシャ語形。アンナはエルサレムの救出を待つ人全てに幼いイエスについて語ることにより,女預言者として行動した。「預言する」という語の基本的な意味は,神からの音信を告げること,神の意志を明らかにすること。使徒 2:17の注釈を参照。
いつも神殿に来て: アンナは,恐らく神殿の門が朝に開く時から晩に閉まる時まで,ずっと神殿にいた。アンナの神聖な奉仕には断食と祈願が含まれていて,アンナが,神に仕える他の忠実な人たちと同様,当時の状況を嘆き,変化を待ち望んでいたことが分かる。(エズ 10:1。ネヘ 1:4。哀 1:16)何世紀もの間ユダヤ人は外国勢力の支配下に置かれ,宗教上の堕落は神殿や祭司職にまで及んでいた。だから,アンナと他の人たちは切に「エルサレムの救出を待」っていたのだろう。(ルカ 2:38)
神聖な奉仕をし: または,「崇拝し」。ルカ 1:74の注釈を参照。
洞-1 171; 洞-2 961,963; 塔94 5/15 27; 塔90 10/15 14;
目73 12/8 29; 目62 2/8 27
エホバの律法: 「律法」に当たるヘブライ語とテトラグラマトンを組み合わせた「エホバの律法」という表現がヘブライ語聖書に何度も出てくる。(出 13:9。王二 10:31。代一 16:40; 22:12。代二 17:9; 31:3。ネヘ 9:3。詩 1:2; 119:1。イザ 5:24。エレ 8:8。アモ 2:4)ルカ 1:6; 2:23の注釈,付録C3の序文とルカ 2:39を参照。
ガリラヤ……に戻っていった: この文を読むと,ヨセフとマリアは神殿でイエスを差し出してから真っすぐナザレに行ったように思えるが,ルカの記述はかなり要約されている。マタイの記述(2:1-23)に,占星術師たちの訪問,ヘロデ王による殺害計画を逃れてヨセフとマリアがエジプトに行ったこと,ヘロデの死,家族でナザレに戻ったことなどが記されている。
家 153; 目68 11/8 28
家 153; 目61 5/22 27
とても驚いていた: ここで,「とても驚く」に当たるギリシャ語動詞の形は,驚きの継続や繰り返しを表すと思われる。
洞-2 896; 追 37; 塔05 9/15 5; 塔94 10/15 18-19;
塔73 724; 目62 1/8 27
イエスは言った: この後に続く言葉は聖書に記録されているイエスの最初の言葉。少年だったイエスは,自分が人間となる前の存在について十分には知らなかったと思われる。(マタ 3:16,ルカ 3:21の注釈を参照。)母親と養父は天使の訪問の時に得た情報や,イエスの誕生から40日後にエルサレムに行った時にシメオンやアンナの語った預言から得た情報をイエスに伝えていたと考えられる。(マタ 1:20-25; 2:13,14,19-21。ルカ 1:26-38; 2:8-38)イエスの返事からすると,イエスは自分の奇跡的な誕生や,天の父エホバとの特別な親しい関係をある程度理解していた。
私が父の家にいるはずだ: 「父の家に」に当たるギリシャ語の表現は直訳すると,「私の父のものに」。文脈からすると,ヨセフとマリアはイエスの行方を心配していたので,その表現は位置や場所,つまり「父の家[または,「住まい」]」を指すと理解するのが最も自然。(ルカ 2:44-46)後にイエスは宣教期間中に,神殿をはっきりと「私の父の家」と呼んだ。(ヨハ 2:16)とはいえ一部の学者によれば,この表現はもっと広い意味で,「私は父の物事に関心を持つ[または,「忙しくしている」]必要がある」とも理解できる。
下って: エルサレムは海抜約750メートルにあった。「下る」という語はここで,エルサレムを去ることに関して使われている。(ルカ 10:30,31。使徒 24:1)マタ 20:17,ルカ 2:4,42の注釈と比較。
その後も……従っていた: または,「ずっと従順だった」。ここのギリシャ語動詞は継続を表す語形で,イエスが神殿で神の言葉の知識によって教師たちを驚かせた後も,家に帰って両親に謙遜に従ったことを示している。この従順は他のどの子供の従順よりも意味があり,モーセの律法を全て守ることの一面だった。(出 20:12。ガラ 4:4)
こと: または,「言葉」。ルカ 1:37の注釈を参照。
追 62; 暮 レッスン50; 倣 170-171; 塔12 4/1 27-28; 塔09 1/1 6-7; 塔07 2/15 25-26; 学ぶ 212-213; 塔02 3/15 11; 案 75; 塔94 7/1 22; 塔92 10/1 27-28;
家 152-153; 案 75; 目68 3/22 28; 塔62 465,717; 塔52 180
2 その
8
15
21 8
22
25 さて,エルサレムにシメオンという
36 さて,アシェル
39 こうして,
41 さて,イエスの
51 それからイエスは