テモテへの第二の手紙
3 このことを
8 ヤンネとヤンブレがモーセに
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終わりの時代: パウロはこの節で未来時制を使い,「終わりの時代は……危機的な時になります」と言っている。(テモ二 3:2,13も参照。)それでパウロは,まだ先の時,目に見えないイエスの臨在の期間に存在する体制の「終わりの時代」のことを言っていた。(用語集の「終わりの時代」参照。)この「終わりの時代」は,テサ二 2:3-12で預言されていたように,予告された背教が生じて「不法の者」が明らかにされてからでなければ,来ない。(テサ二 2:3,テモ一 4:1の注釈を参照。)パウロは続けて,その時の人間社会にまん延する,神を考慮に入れない態度を挙げている。(テモ二 3:1-5。テモ二 3:5の注釈を参照。)大規模な背教は,そうした好ましくない特徴が広がる一因となる。
困難で危機的な時: この表現は,パウロが「終わりの時代」と呼ぶ危機の時を描写するのに使った2つのギリシャ語を訳したもの。ギリシャ語カイロスはしばしば,特定の,あるいは一定の期間を指し,「定められた時」とも訳せる。(使徒 1:7の注釈を参照。)パウロはその語と,ここで「困難で」と訳されているギリシャ語カレポスを組み合わせた。この語は,「難しい」,「危険な」,「ストレスの多い」と辞典で定義されている。マタ 8:28で,邪悪な天使に取りつかれた2人の男がとりわけ「凶暴」であるのを描写するのに同じ語が使われている。パウロが警告しているように,「終わりの時代」は人々の悪い態度のために(テモ二 3:2-5,13),さまざまな参考文献によれば,「ストレスの多い時」,「耐え難い,生きづらい,対処しにくい」時となる。
塔研24.01 6; 洞-1 501-502; 暮 レッスン32; 目20.1 15; 塔研18.01 22; 塔14 1/15 30; 塔06 6/1 12; 塔97 12/1 4-5; 目95 4/22 4; 塔94 4/15 8-9,11; 目92 3/8 24; 目90 8/8 31; 塔89 12/1 12; 塔86 9/15 5-6;
塔84 10/1 5; 塔83 10/15 16; 塔81 1/1 19,23,28; 塔81 4/15 10-11; 王 105-106; 塔76 704; 塔74 357; 目74 6/8 11; 目74 12/22 10; 塔73 38-39; 目73 11/8 7; 塔72 43-44; 目72 4/22 16; 塔71 44; 塔70 377-378; 塔69 395; 目69 1/8 7; 進 160-161; 塔67 390,421; 目66 4/22 14; 目66 12/8 30; 目65 4/22 18; 塔64 617; 目64 3/8 28; 目64 3/22 17; 塔63 229; 塔62 23; 塔61 401,591; 塔60 15,166; 失 184
人々は……になります: ここで「人々」と訳されているギリシャ語はしばしば,男女を問わず,人類全般を指す。パウロは,当時から見てはるか先の「終わりの時代」に人々が示す態度を20ほど挙げている。(テモ二 3:1と注釈)しかし,当時の人々にはそうした良くない特徴が見られないと言っているのではない。むしろ,そのような人々から「離れなさい」とテモテに言っている。それで,当時もそうした態度に警戒する必要があった。(テモ二 3:5の注釈を参照。マル 7:21,22と比較。)とはいえ,パウロはここで,そうした悪い特徴が人類全体にまん延する時代が来ることを予告している。
お金を愛し: テモ一 6:10の注釈を参照。
自慢ばかりし,傲慢で: 自慢ばかりする人は,自分の能力,性質,富について自慢し,しばしば誇張して話す。傲慢な人は,自分が人より優れていると考える。この2つは似ているが,「自慢ばかりし」と訳されているギリシャ語は主に,思い上がった発言を指し,「傲慢で」と訳されている語は主に,思い上がった考えや気持ちを指す。
神や人を冒瀆し: または,「暴言を吐き」。パウロが使っているギリシャ語(ブラスフェーモス)は,「冒瀆的な」,「中傷的な」,「侮辱的な」という意味。「終わりの時代」,非常に多くの人がそのような言葉を神や人に発する。(テモ二 3:1)
親に従わず: クリスチャンの時代より何世紀も前に,モーセの律法で子供は親を敬うよう命じられていた。(出 20:12。マタ 15:4)クリスチャン会衆でも,子供は親に従い,親を敬うよう教えられた。(エフ 6:1,2)エホバを崇拝しない古代のギリシャ人やローマ人でさえ,子供が親に反抗するのは自然に反する間違ったことだと一般に考えていた。(ロマ 2:14,15)古代ギリシャでは,親を殴った人は市民権を失った。ローマ法の下では,父親を殴ることは殺人と同じほど重大なことだった。しかしパウロはここで,親に従わない態度が広く見られる時が来ることを予告している。それは,ある参考文献が述べているように,「文明が極度に退廃したしるし」となる。
感謝せず: 親や他の人から,さらには神から受けた全てのものについて当然の権利だと考える人がいるかもしれない。(ルカ 6:35)そうした態度は基本的に,自分中心の考え方に根差している。
不忠実に: または,「揺るぎない愛を持たなく」。(テモ一 1:9,脚注も参照。)ここで使われているギリシャ語は,人や神に不忠実であるという考えを伝える。意味が広く,「神聖でない」,「不敬な」という考えも含む。それで,聖なるものに対する敬意がないことや,ある辞典によると,「何も神聖とは見なさない」ことを指すことがある。不忠実な人は,仲間の人間や,さらには神に対して,務めを果たすことや忠実であることを気に掛けない。
イ聖 記事185; 塔研18.01 22-25,28-29; 塔06 9/15 5; 目00 4/8 10; 目97 8/8 6; 知 103-104; 目95 4/22 4-5; 塔94 4/15 11-17; 目92 3/8 24; 目92 12/8 29; 塔89 6/15 10-11; 塔88 3/1 22;
塔84 10/1 5-7; 塔83 5/1 5; 塔83 9/15 3-7; 塔82 10/1 3; 目81 10/8 23; 目80 5/8 23; 目79 7/22 6-7; 塔73 39,745,761; 塔70 377-378; こ 132; 目69 1/8 10; 目66 4/22 5; 目66 12/8 30; 塔65 227; 目64 10/22 4; 塔63 323,521; 塔62 23; 塔61 47; 失 184; 塔58 209; 塔52 312
自然な愛情を持たず: ロマ 1:31の注釈を参照。
全く人に同意しようとせず: パウロはここで,問題の妥当な解決策を話し合ったり争いを解決したりしようとしない傾向が一般に見られる時が来ることを予告している。ここのギリシャ語は,もっと字義的に訳せば「条約がなく」となる。国家間の争いを解決できないことについてよく使われた。個人間の問題を解決できないことについても使えた。この語を「和解せず」や「融和しない者」としている翻訳もある。ある参考文献はこう述べている。「この語は,苦々しさを抱き続けて自分を他の人から引き離してしまう冷酷さや頑なさを表す」。
中傷し: ここのギリシャ語(ディアボロス)は聖書の中で,「悪魔」と訳されることが一番多く,神を中傷する邪悪な者サタンの称号として使われている。(マタ 4:1の注釈と用語集の「悪魔」を参照。)しかし,基本的な意味通りに使われている箇所も幾つかあり,「中傷」すると訳されている。(テモ一 3:11。テト 2:3)ここの「終わりの時代」の描写の中で(テモ二 3:1),パウロは,偽りの非難やゆがんだ発言によって仲間の人間や神の評判を傷つけようとする人を指してこの語を使っている。ヨハ 6:70の注釈を参照。そこではこの語がユダ・イスカリオテを指して使われている。
自制心がなく: 自制心がない人は,不道徳な欲望や激しい怒りなど,利己的な傾向に陥りやすい。終わりの時代に自制心がなくなる1つの理由は,人々が「自分を愛し」,「神ではなく快楽を愛し」ていること。(テモ二 3:2,4)神への愛がないので,神に喜ばれないことをする誘惑に駆られた時に自分を制する最大の動機に欠けている。また,神の聖なる力を与えられていない。その力はクリスチャンが自制心を育み強める助けになる。「自制心がなく」と訳されている語と関連するギリシャ語名詞がマタ 23:25で「身勝手さ」と訳されている。「自制」という語については,ガラ 5:23の注釈を参照。
乱暴で: パウロが使っているギリシャ語は字義的には,「飼いならされていない」,「野性的な」という意味。「残忍な」,「残酷な」,「野蛮な」とも訳せて,「人間としての同情や感情に欠けた」という考えを伝えている。(マタ 24:12と比較。)パウロの時代,この語は,凶暴な性質の動物や人間を指してよく使われた。
善いことを愛しません: こう訳されているギリシャ語は,ギリシャ語聖書でここにしか出ていない。意味が広く,善いことや善い人々を憎むという考えを含み得る。公共の利益になるようなことには全く関心がない人を指すこともある。善いことを愛さない人は,最高の意味で善い方であるエホバを愛することはできない。マル 10:18の注釈を参照。
イ聖 記事185; トピ 記事70,111; 洞-1 21; 塔研18.01 29-30; 塔研17.09 3; 目 12/10 28; 塔11 5/1 7; 塔09 7/15 13; 目 07/10 9; 塔06 4/1 8; 塔06 7/15 27-28; 塔06 9/15 5-6; 目00 4/8 9; 目97 8/8 6-7; 目96 8/8 17; 知 104; 目95 4/22 5-6; 塔94 4/15 15-18; 目92 3/8 24; 塔90 11/15 11; 目89 3/22 28; 目89 10/8 31; 塔87 1/15 23;
塔84 10/1 3-7; 塔84 11/1 6; 塔84 11/15 5-6; 目82 10/22 4; 目81 11/8 14-15; 目80 5/8 23; 目74 6/8 11-12; 塔73 39; 塔70 377-378; こ 132; 目67 1/8 6; 目67 1/22 4; 塔66 239; 塔65 624; 塔63 323,623; 目63 8/22 20; 塔62 23,728; 塔61 112; 塔60 166; 失 184; 塔52 312
人を裏切り: 同じギリシャ語名詞がルカ 6:16でユダ・イスカリオテを指して使われていて,「反逆者」と訳されている。(使徒 7:52も参照。)
強情で: パウロが使っているギリシャ語は字義的には,「前に倒れる」という意味。悪い結果になりそうだと分かっていながら他の人のアドバイスを無視して,あえて自分の道を突き進むような状況を表現している。同じギリシャ語は「無謀な」とも訳せる。ある参考文献によれば,強情あるいは無謀な人は「同胞がどんな災難や罰を受けることになるとしても,危険を顧みずに行動する」。別の参考文献はこう述べている。「無謀な人は目的を達成するために手段を選ばない」。この語はギリシャ語聖書でほかに使徒 19:36だけに出ていて,そこではエフェソスの町の記録官が怒り狂った群衆に「性急に行動」しないよう警告している。
思い上がり: ここで使われているギリシャ語動詞(テュフォオマイ)は,「煙」に当たる語と関連がある。煙に包まれて何も見えなくなった人を指して使うことができた。この語はギリシャ語聖書に3回出ていて,いずれも比喩的な意味で使われている。誇りで何も見えなくなった人を表しているようだ。(テモ一 3:6; 6:4。テモ二 3:4)「驕り高ぶり」,「うぬぼれに膨れ上がって」としている翻訳もある。(「聖書 原文校訂による口語訳」,フランシスコ会聖書研究所訳注。「新約聖書」,柳生直行訳)ある参考文献によれば,この語は「自分を過大視している」人を指す。ユダヤ人の著述家ヨセフスは,ユダヤ人を見下して中傷するギリシャ人の著述家たちを指してこの語を使った。
神ではなく快楽を愛し: パウロがここで言っているのは,人々が神を愛するよりも快楽を愛することではなく,神を愛さないで快楽を愛すること。聖書は,快楽つまり楽しみがどれも悪いと教えているわけではないが,神との友情を育むのではなくそうしたものを追い求めることについては警告している。(ルカ 12:19-21,ヨ一 2:15と比較。)
イ聖 記事185; 塔研18.01 22,28,30; 塔06 9/15 6; 目00 4/8 10; 目95 4/22 6; 塔94 4/15 17-18; 目92 3/8 24; 塔88 2/15 20; 目86 10/22 19;
塔84 11/15 5-6; 塔83 10/1 4; 目83 1/8 27; 目80 5/8 23; 塔79 2/1 18; 塔79 2/15 23; 目79 4/22 4; 塔77 713; 塔76 552; 目74 12/22 10; 塔73 39,176; 目73 10/8 13; 目72 6/22 23; こ 132; 目69 1/8 10; 目68 8/8 7,10; 塔65 489; 目63 6/22 3; 塔62 23,50-51; 塔61 336; 塔60 15,166; 失 184
信心深く見えても: パウロは,「終わりの時代」には多くの人が信心深く「見え」る,つまり単なる外面や見かけで神への専心を示す,と言っている。(テモ二 3:1)「上辺は信心に熱心に見えるが」と訳している聖書翻訳もある。(「聖書 原文校訂による口語訳」,フランシスコ会聖書研究所訳注)神を崇拝していると言うかもしれないが,実際には,悪い行いをし,自分やお金や快楽を過度に愛している。(テモ二 3:2-4)
実際には神を敬っていません: 直訳,「その力を否定しています」。本当の信心深さには,人格を変える力がある。(エフ 4:22-24。コロ 3:10)うわべだけ神に仕えている人は,実際のところ,その力を否定し無視している。その人の生活には神への本当の専心が表れていない。(ユダ 4と比較。)行動によって裏付けられた本物のクリスチャンの信仰を持っていない。(ヤコ 2:18-26)
こういう人たちから離れなさい: パウロは直前で,「終わりの時代」に世界の状況がどれほど悪くなるかを予告している。しかし,パウロの時代でさえ先に挙げた態度をある程度示す人がいることも知っている。(テモ二 3:1,2の注釈を参照。)パウロがここで使っている動詞は強い言葉で,恐怖を感じて避けることを示しているのかもしれない。先に挙げた性質を表す人と不必要に交友すべきでないことを強調している。クリスチャンはそのような人にも穏やかに親切に接するが,親しい友とはしない。テモ二 2:24の注釈を参照。
イ聖 記事185; 塔研18.01 31; 塔06 9/15 6; 塔97 9/15 6; 知 104-105; 目95 4/22 6; 塔94 4/15 18;
塔84 10/15 4-7; 塔83 10/1 5; 塔79 11/1 12; 人 104-105; 目76 5/8 30-31; 目74 12/22 10; 塔73 39,57,364; 平73 18-19; 目73 4/22 12; 塔72 195; こ 132; 目69 1/8 11; 目66 4/22 23; 目64 3/8 7; 塔63 56,206; 塔62 23,50-51,240,751; 目61 3/22 5; 塔60 208; 失 184; 塔58 30; 天 196-197; 塔55 223; 塔51 182
ある男性たちは,人々の家に入り込み: この腐敗した男性たちは「信心深く見えても実際には神を敬ってい」なかった。(テモ二 3:5)「入り込み」と訳されているギリシャ語動詞は,不正な手段を使ったり人をだましたりして入るという考えを伝えている。「滑り込み」,「忍び込み」とも訳せる。このずる賢い男性たちは「弱い女性たち」を不道徳な行いに誘い込もうとしたかもしれない。
弱い女性たち……は多くの罪を負っていて: パウロはここで,会衆内のある女性たちのことを言っている。その女性たちは神との関係が弱かった。悪を憎んでいなかったため,さまざまな欲望に流されていた。罪深い欲望が言動に色濃く表れていたということかもしれない。悪い男性たちはそのような女性たちを容易にたぶらかすことができた。罪を犯しても憐れみ深い神が許してくださるとほのめかしたのかもしれない。(ユダ 4)
常に学び: パウロが述べた女性たちはある程度学んでいたが,「真理の正確な知識」を得ようとしていなかった。「正確な知識」を得たクリスチャンは,単に事実を知っているだけではない。(エフ 4:13の注釈を参照。)エホバのように考え,エホバの正しい原則に十分に沿って行動するところまで進歩する。(エフ 3:17-19。コロ 1:9,10; 2:6,7)
ヤンネとヤンブレ: モーセの時代のこの2人はヘブライ語聖書に名前が出ていないが,パウロは聖なる力に導かれて2人の名前を書いた。(テモ二 3:16)2人は古代エジプトのファラオの宮廷で著名な人物だったと思われ,モーセに反対した魔術師たちの先頭に立っていたのかもしれない。(出 7:11,22; 8:7,18,19; 9:11)伝統的なユダヤ人の書物に出ていて,その中には紀元前1世紀のものと思われる書物もある。西暦1世紀や2世紀のユダヤ人でない著述家たちも一方あるいは両方の名前を挙げている。パウロはここで,エフェソスで偽りを教える人たちが最終的にうまくいかないことをテモテが確信できるよう,2人に言及している。
彼らがこれ以上進むことはありません: パウロはエフェソスの監督たちに,偽りを教える人たちが現れることを警告していた。(使徒 20:29,30)そうした悪い人たちは,会衆を腐敗させ分裂させる面である程度進んでいるように見えたかもしれない。忠実なクリスチャンはそのことに心を乱されたことだろう。しかしパウロはテモテに,彼らがそれ以上「進む」ことはないとはっきり述べた。そのことをテモテが確信できるよう,モーセに反対したヤンネとヤンブレを引き合いに出した。2人はエジプトの魔術師たちの先頭に立っていたのかもしれない。(テモ二 3:8の注釈を参照。)出エジプト記によると,その魔術師たちはモーセが行った奇跡と同じことをしたが,最初の方だけだった。3番目の災厄以降は,エホバの奇跡と同じことを行うことも災厄から自分たちを守ることもできなかった。(出 8:16-19; 9:10,11)
彼らの愚かさが皆に明らかになる: パウロは,会衆で偽りを教える人たちの愚かさがはっきり分かるようになることをテモテに断言している。その人たちはヤンネとヤンブレと同じような結末を迎える。2人がエホバに反対した愚か者であることは誰の目にも明白だった。
アンティオキア,イコニオム,ルステラで: パウロはバルナバと共に第1回宣教旅行中に,ピシデアのアンティオキアから追い出され,イコニオムで石打ちにされそうになった。ルステラで,パウロは実際に石打ちにされ,死んだものと思って置き去りにされた。(使徒 13:14,50; 14:1-5,8,19)その後パウロを助けた弟子たちの中に,ルステラ出身と思われるテモテもいたかもしれない。(使徒 14:20; 16:1)いずれにしてもテモテは,忠実に忍耐するパウロに「倣ってき」たので,パウロが3つの町で忍耐した「迫害や苦しみ」を知っていた。(テモ二 3:10)パウロがこうした以前の出来事について述べたのは,テモテが受けるかもしれない迫害を忍耐するよう励ますためだった。(テモ二 3:12)
主はその全てから救い出してくださいました: パウロは,救い出してもらう必要があることを何度も述べていて,エホバ神も(コ二 1:8-10)イエス・キリストも(テサ一 1:10)救ってくださると言っている。それでこの文脈で,「主」はエホバもイエスも指せる。パウロの言葉は詩 34:19に基づいていると考える人もいる。
神への専心を貫き……生きようとする人: 「ようとする」と訳されているギリシャ語動詞は,ふと願う以上のことを意味する場合がある。ここでの語形は,決意を持ち続けることを示唆している。「神への専心」を貫いて生きようと決意しているとどうなるかについて,ある参考文献はこう述べている。「世と異なっていること,異なる基準や目標を持っていることには,常に危険が伴う」。(テモ一 4:7の注釈を参照。)パウロがここで言っている通り,神への専心を示すそのような人は迫害者から敵意を受けることになる。(創 3:15。啓 12:9,17)キリストはそうした危険や迫害に遭った。パウロとテモテもそうだった。真のクリスチャン全ても必ずそうなる。(ヨハ 15:20。使徒 17:3。フィリ 3:10。テモ二 2:3)
イ聖 記事185; 暮 レッスン50; 塔研17.04 10; 宣 94/2 2;
塔81 1/15 14; 宣 81/7 2; 目74 1/8 22; 塔65 48; 目64 3/22 17
自分が学び,納得して信じるようになった事柄から離れないようにしなさい: テモテは,前述の「邪悪な人々」とは異なり,真理から離れるべきではない。(テモ二 3:13)テモテは「納得して信じるようになった」。こう訳されているギリシャ語には,十分に確信したという意味がある。テモテは,母親,祖母,パウロといった人たちから教えられた事柄をよく考え,それが聖書に沿っていて,正確で,信頼できることを確信した。真理として受け入れた事柄から離れないようにすべき理由が十分にあった。(ロマ 12:1,2)
あなたはそれを誰から学んだかを知っており: テモテは,母親ユニケと祖母ロイスからヘブライ語聖書について教えられた。(テモ二 1:5の注釈を参照。)しかし,クリスチャンになると,パウロや他の仲間のクリスチャンからもたくさん学んだ。(使徒 16:1,2。コ一 4:17。テモ二 2:2)テモ二 1:13の注釈を参照。
幼い時から聖なる書物に親しんできました: テモテは非常に幼い時に,母親ユニケから,恐らく祖母ロイスからも,ユダヤ人の「聖なる書物」であるヘブライ語聖書を教えられた。(テモ二 1:5; 3:14。ロマ 1:2の注釈を参照。)「幼い時」と訳されているギリシャ語ブレフォスは,非常に幼い子,新生児,さらには胎児を指せる。(ルカ 1:41; 2:12。使徒 7:19。ペ一 2:2。ルカ 18:15の注釈を参照。)テモテが小さい時にヘブライ語聖書の教育を受けたことは,信仰を成長させるしっかりした土台となった。テモテは若い時,母親と祖母と共に「キリスト・イエスへの信仰による救い」について学び,クリスチャンになった。そして成長するにつれて,素晴らしい進歩を遂げていった。使徒 16:1の注釈を参照。(フィリ 2:19-22も参照。)
洞-1 1209; 塔研22.04 17; 塔研20.07 10; 塔研17.12 19-22; 塔13 8/15 16; 塔07 5/1 24-27; 塔06 4/1 9; 塔06 7/1 27; 塔00 11/15 17-18; 塔98 3/15 14-15; 塔98 4/15 32; 塔98 5/15 8; 塔96 7/15 31; 塔96 12/1 11-12; 庭 53; 塔94 5/15 11-12; 目92 9/22 3; 感 239; 塔88 5/1 6; 塔88 8/1 12-13; 塔88 11/1 18; 目87 5/22 9; 目87 11/22 27;
目85 1/22 13; 塔84 8/1 6; 塔83 2/15 18-19; 目82 7/8 15; 宣 81/1 2; 塔80 3/1 11; 塔79 1/15 9; 家 114-116,118-130; 人 126; 目78 8/22 29; 塔76 491; 良 167-168; 塔72 334-335; 塔68 40; 目65 3/22 3; 塔64 75,358; 塔63 678,684; 塔61 402; 塔60 444; 塔54 127; 塔52 187,319; 塔51 227
聖書全体: この表現は意味が広いが,間違いなくヘブライ語聖書全体を含む。(ルカ 24:44と注釈)テモテはその「聖なる書物」をよく知っていた。(テモ二 3:15と注釈)さらに,1世紀のクリスチャンは,その時までに書かれたギリシャ語聖書の部分を聖書の一部と見ていたようだ。例えば,ペテロは西暦64年ごろ(恐らくパウロがテモテにこの手紙を書く少し前)に第二の手紙を書いた時,パウロの手紙を「聖書」の一部としている。(ペ二 3:16。コ一 12:10,テモ一 5:18の注釈も参照。)パウロは「聖書全体は神の聖なる力の導きによって書かれた」と言うことによって,テモテをはじめクリスチャン全てに,神の言葉の知恵を信頼し,いつでも聖書に基づいて行動するべきことを思い起こさせている。
神の聖なる力の導きによって書かれた: この表現は,ギリシャ語の複合語テオプネウストスを訳したもの。その語は,テオス(神)とプネオー(呼吸する,吹く)を組み合わせたもので,字義的には,「神が息を吹き込んだ」または「神によって息を吹き込まれた」という意味。プネオーというギリシャ語動詞は,しばしば「聖なる力」と訳されるプネウマという語と関連がある。(用語集の「プネウマ」参照。)神は聖なる力で忠実な人たちを導き,ご自分の言葉を記録させた。イエスは聖なる力のそうした役割を裏付けた。詩編を引用してダビデがそれを「聖なる力によって」書いたと言っている。(マタ 22:43,44。マル 12:36。詩 110:1)ペテロも,人が「聖なる力に導かれて,神からの言葉を語った」と述べている。(ペ二 1:21)ヘブライ語聖書で同様の考えを伝えている記述として,ダビデ王が「私はエホバの聖なる力によって語った」と述べている。(サ二 23:2)注目できる点として,19世紀のヘブライ語訳(付録C4のJ17)では,テモ二 3:16の前半が「聖書全体は神の聖なる力によって書かれた」と訳されている。用語集の「正典(聖書正典)」参照。
役立ちます: パウロは,神の言葉が多くの面で役立つ(または,「有益である」)ことを説明している。テモテは長老として神の言葉を上手に使い,会衆の内外で他の人に役立つようにする責任があった。(テモ二 2:15)さらに,全てのクリスチャンは神の言葉を使って自分の態度や行動を調整し,神の意志に沿ったものとする必要があった。
教え: 本物の信仰や正しい行いについて教えること。(テト 1:9)
戒め: クリスチャンの監督は,「罪深い行いをやめない人」を戒める責任がある。(テモ一 5:20と注釈。テト 1:13)そのような人は神の原則から外れているので,辛抱強く聖書を使ってそのことを納得させ,その人を正す。(ガラ 6:1。テモ二 4:2)クリスチャンは自分を正すためにも聖書を使える。
矯正し: ここのギリシャ語には,正しい状態に戻したり良くないものを改善したりするという意味が含まれる。
正しいことに基づいて指導する: 神の言葉によって,正邪に関する神の基準に沿った指導や訓練を与えること。(ヘブ 12:11)用語集の「正しいこと,正しさ」参照。
イ聖 記事108,174; 洞-1 663,1269,1273; 洞-2 1207,1213; 塔研23.02 11; 近 182; 暮 レッスン1,5; 目21.1 15; 塔研16.05 24; 塔13 4/15 12-16; 塔10 3/1 3-4; 目 10/3 28-29; 塔09 8/1 13; 塔08 6/1 20; 塔06 5/1 24-25; 日 6; 塔03 1/1 30; 塔02 3/1 12; 満 14; 塔97 6/15 3; 案 15; 感 7,9,238; 塔88 9/1 11; 塔86 9/15 12-13;
目80 5/8 29-30; 塔77 150; 聖 131-132; 顧 4-5; 塔75 333; 塔73 697; 目73 3/8 30; 目72 5/8 28; 塔71 420; 塔70 298-299; 塔69 419; こ 151; 塔64 76,78-79; 目64 9/22 7; 塔63 140,372,393,427,522,678,716; 塔62 36,100; 目62 4/22 8; 塔61 227; 目58 6/22 19; 塔57 469; 塔53 302; 塔52 293
神に仕える人: 直訳,「神の人」。ここで「人」と訳されているギリシャ語(アントローポス)は,男性も女性も指せる。パウロは,監督だったテモテに語り掛けているが,エホバ神に全く献身したクリスチャンの男女のことを考えていたのかもしれない。前の節に示されているように,「神に仕える人」は聖書をよく学び,聖書に従って生きる必要がある。テモ一 6:11の注釈を参照。
用意が完全に整います: ここで使われているギリシャ語は字義的には,「適合するようにされた」という意味。例えば,この語は古代において,航海に適合するようにされた船,つまり航海に必要なあらゆるものを備えた船を指して使われた。エホバはご自分の言葉によって知識や知恵を与え,クリスチャンがあらゆる良いことを行えるようにしている。クリスチャンは神からの務めを果たす用意が完全に整っている。
3 このことを
8 ヤンネとヤンブレがモーセに
14 あなたは,